午前11時、マンモス・レークを後に395号線をロサンゼルスに向かって走ります。どんどん標高が下がってくると、気温は一気に30度を越えてきました。
ビショップから約1時間ほど、砂漠の真ん中にこの建物は現れます。
これは第二次大戦の時の収容所の監視兵が詰めていた建物です。
ここはカリフォル二ア州マンザナ日系人強制収容所跡・・・・・・。
砂漠の真ん中のこの場所は、お昼過ぎの今の気温42℃です。
ここにはピーク時1万人を越える日系人の人たちが収容され暮らしていたのです。
現在はアメリカ国定史跡に指定され、保存されています。
隣には資料館が建てられ、その歴史が語られていますが・・・・・・。
幕末の戊辰戦争で、会津藩は1868年に敗戦し、28万石の領地を失った会津藩士たちは苦しい生活から逃げるため、1869年にカリフォルニア州エルドラド郡ゴールドヒル移り住み、若松コロニーを作ったのがアメリカ本土への最初の移民といわれています。(これは1年ほどで失敗します)これは『おけいの墓』の逸話で有名ですね。
1870年(明治3年)にワシントンDCに日本公使館、サンフランシスコに領事館が開設した。その後、一般の移民が始まり、1880年後半になり日本が凶作に見舞われると明治政府は不況対策として移民を推奨し、多くの日本人がカリフォルニアで鉱山、鉄道敷設、道路建設、農場の労働者として働いていて、その結果1895年ではアメリカ本土で日本人が6千人を越えていたようです。
1900年代に入り日本や中国人のの移民が増え始める、1913年にはカリフォルニアやワシントン州など9州で『外国人土地法』が成立、土地所有を禁止したのです。
そして1924年には日本からの移民を完全に禁止した『排斥移民法』が成立する事になります。
1941年12月7日、パールハーバーに押し寄せた日本海軍の攻撃によりアメリカの日系人には最大の苦難が待ち受けているのでした。
このニュースは直ぐに全米に流れ、『アメリカの国益にとって危険な敵性外国人』とされ、翌日から新聞にも『JAPS、ジャップ』の見出しがトップを飾り、FBIによる主だった日系人の検挙が始まったのです。
この法令はすべての「敵性外国人」(ドイツ、イタリア、日本)に向けたものではあったものの、実際に行使されたのは日系アメリカ人に対してのみでした。
開戦後4日目で1291人が検挙され、危険分子としてニューメキシコ州のサンタフェ拘置所に送られたのです。
1942年2月ルーゼルベルト大統領が大統領命9066に署名。これは日系人を強制収容所へ入れることを認めるものであり、当然のごとく彼らは何の補償も得られず、家や会社を安値で売り渡し、全米10ヶ所在った「戦時転住所」と呼ばれる強制収容所に入れられることになった。
しかし、強制収容所の建設工事が間に合わなかったため、一時的にアセンブリセンターに集められましたが、そこは主に競馬場が利用され、ロサンゼルスではサンタアニタ競馬場が使われ、人々はなんと馬小屋に収容されたのです。
アメリカ西海岸12万の日系人のうち、8828人がまずマンザナに送られました。
夏は酷暑、冬は極寒の砂漠気候の中「ゴーグルが必要なほどの砂嵐と、サソリや蛇にかまれないよう、丈夫なブーツ」が必要だったといわれているほどです。
これは当時の居住用バラックが建っていた模型ですが・・・・・。
鉄条網で囲まれた1平方マイルのなかにあまりのも多くのバラックが建っていたのに驚きますが、一番辛いのは、有刺鉄線のトゲも監視兵の銃も、常に収容所の内側を向いていたのでした。
住居用バラックは4部屋に仕切られ、殆んどは1部屋に1家族で入っていたそうで、部屋には軍用ベット以外何もなく、ベットで寝ると屋根の隙間から星空が見え、そして朝には隙間から入る砂が体を白く覆っていたと聞きました。
電気や水道は供給されていましたが、全ての食事は食堂で行い、強制収容所内の農場で獲れた作物を使い、基本的には自給自足だったと聞きました。
ここに書かれていたことは・・・・・・・
この子のの遊んでいた玩具がこの中に入っていますが、これは彼女が持って来たものではないのです。
日系人はこの収容所に入る際、2つの手荷物しか認められていなかったので、子供の玩具類を持ち込む余裕はなかったのでしょう。
そのためここには子供達にアメリカの玩具を貸し出してくれる所があったのです。
飾られていた本や玩具は、勿論全て英語のものでした。
43年2月、アメリカ政府は日系人の忠誠を確かめる為”ロイヤリティー・クエスション”と呼ばれる質問状を送り始めます。
「Q27:アメリカ軍の命令で戦地の場所に関わらず、兵役につくか?」
「Q28:アメリカに無条件の忠誠をちかい、日本国天皇及び外国政府の忠誠を否定する事を誓うか?」
これは俗に『Yes/Yes』『No/No』といわれているもので、『No/No』の人はツールレーク収容所に転送され、日本へ送還された人も少なくありません。
これにより日本生まれの1世とアメリカ生まれの2世の間で意見の違いがあり、対立が起きたリ家族がバラバラになった例もあるようです。
太平洋戦争の前の年の1940年、アメリカは徴兵制度を再導入します。
そしてハワイの防衛軍もアメリカ軍に編入されたのですが、その半数が日系人兵士だった為戦争開戦後は、ハワイに日本軍が侵攻した場合を想定し、敵兵と見分けがつきにくい日系人部隊をアメリカ本土のミシシッピー州の訓練所にに送ったのでした、これが有名な『第100歩兵大隊』「ワン・プカ・プカ」です。
しかし彼らが前線に出る可能性は、その時点ではゼロだったのです。
アメリカ軍部では『日系人の忠誠を信用できないので、前線には出せない』といわれていたためです。
しかしその不信感を変えたのが、『第100歩兵大隊』の優秀な訓練成績でした。
彼らはアメリカ軍の重機関銃の組み立て平均が16秒だったものを、わずか5秒という驚異的な記録を残し、その上普通は行軍スピード1時間4キロのところを、1時間5.3キロで8時間休まず歩いたのです。
またハワイ大学の学生必勝義勇隊が嘆願書を出したり、道路工事などのボランティアに精を出し、忠誠心を示していたのです。
その頃、本土でも2世の日系市民協会が日系人部隊編成にロビー活動を必死に行い、その甲斐あって1943年2月、ルーズベルト大統領は日系志願兵からなる”第442連隊”を編成します。
これが『アメリカの為に死ぬ事が出来る権利』の獲得だったのです。
日系2世は積極的に兵役を志願し、アメリカ合衆国への忠誠を示そうとしました。
しかし442部隊はハワイの日系人兵と、本土の日系人兵の混成だった為いさかいが絶えなかった。ハワイでは日系人はその数の多さからか、収容所に入れられることはなかったのです。
そのため軍上層部はハワイ兵を日系人強制収容所に見学に行かせることにするのですが、彼らの帰リ道は無言だったそうです、そして彼らは同じように胸の中で『もし自分は収容所に入れられたとしても、その国に対して忠誠を誓い、志願できるだろうか?』と考えていた。
1943年9月8日、ついに第100大隊がイタリアに上陸するのです。
『前線で決して後ろを振り返らない兵士』と賞賛を得た彼らでしたが、イタリア戦線の激戦地”モンテ・カッシーノ”の戦闘が終わった時、上陸時1300人いた第100大隊は半数以下になっていました。
第100大隊の部隊モットーは『Remember PearlHarbor(真珠湾を忘れるな)』、これは日本軍の真珠湾攻撃を目の前で見て、祖国日本から裏切られた思いだったに違いない彼らの無念さが凝縮されていると考えられています。
また第442連隊もイタリアに派兵されるのですが、白人の部隊から『ワン・プカ・プカ』と手を振って歓迎された事で、先陣の第100大隊がどれだけ勇敢に戦ったかを知る事になるのです。
有名な日系人部隊の合言葉"Go for broke!(当たって砕けろ)"は、元来は有り金全部つぎ込むことを意味するハワイのギャンブル用語だと云われています。(ハワイの移民プランテーションでは、賭博が盛んに行われていた)
そして各地で勇猛果敢に戦った第442連隊の最も有名な逸話は・・・・・
ドイツ国境に近いフランスの小さな町”ブリエアで、敵陣地に奥深く侵攻したテキサス部隊がドイツ軍に包囲され、『失われた大隊』」(Lost battalion)として全米に知られることなるのですが、1944年10月25日ルーズベルト大統領自身からの命令により、これを第422連隊が救出に向かうのです。
炸裂する砲弾の中を6日間駆け抜け、ついに同じテキサス連隊でも助けられなかった212名のテキサス兵を救出するのです。そして・・・・例えば出陣した442部隊の第3大隊I中隊185人が最後の地雷を突破し、「失われた大隊」にたどり着いた時に残っていたのは、わずか8人だったなど・・・・・・・・この時第442連隊全体では、212名のテキサス兵を助け出すために、約800名近い兵士が死傷しています。
このときの戦いで、日系兵士が絶叫しながらドイツ軍に突撃する「バンザイ・チャージ」が登場したと言われています。
その声は近隣の村々に響き渡ったそうで、壮絶な突撃が行われていた。
442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、ある白人兵が「なんだジャップか」と吐き捨てると、442部隊の兵士は「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と迫ったという逸話が残されている。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられています。
その後11月11日の閲兵式でダールキス第36師団長少将が集合した442部隊の兵隊を見て、「部隊全員を整列させろといったはずだ。」と不機嫌に怒った時、「目の前に並ぶ兵が全員です。」と答えたという話が残っている。これは編入時には約2,800名いた兵員が1,400名ほどに減少していたためである。
日系部隊はアメリカ戦史上、1部隊として最も多くの死傷者を出し、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれ、そして最も多くの勲章(1万8043個)に輝いていますが最高勲章は一人だけでした。戦後55年たった2000年、それが人種差別であったと認められクリントン大統領から20名の元日系人兵士が最高勲章を受勲されました。
終戦の翌年、第442連隊はホワイトハウスでトルーマン大統領から感謝状を受けるのですが、そのときこの言葉がスピーチされたのです。
『諸君は敵だけではなく偏見とも戦い、勝ったのです』
アメリカの歴史の中で強制収容所に入れられたのは”アメリカインディアン”と”日系人”だけなのです。
第442連隊が帰還したとき、編成時の兵隊は殆んど残っていなかったといわれるほど死傷者を出した日系人は、戦後その功績によりアメリカ社会の中で信頼を得ていったのです。
私は『前線で決して後ろを振り返らない兵士』の話を聞いて、何故か知覧の特攻基地から飛び立っていった1036人の若者の話をを思い出してしまいます。
強制収容所から家族を解放するために、彼ら日系2世は進んで自分の身をアメリカに委ねそれにより忠誠心を示す、この道しか残っていなかったのでしょう、そして彼ら日系兵士は『ヤマト魂』を信条にしていたのです。
戦死した日系人部隊の兵士の最後の言葉は、ほとんどが日本語で『おかあさん・・・』だったということを聞くと・・・・・・・・。
ここに強制収容された方々の名前が記されています。
その中にいつもお世話になっている2世の方の名前を見つけたときは、なんとも云えず、胸が詰まる想いでした。
ご夫婦とも、いつも笑い顔で私達を迎えてくれる方々です。
戦後、我々がアメリカでこのような環境に恵まれているのは、多くの日系2世の方々の犠牲の上に成り立っている事を忘れないようにしようと誓ったマンモス・レークからの帰り道でした。
『99年の愛~アメリカンドリーム』の番組の事はこちらでも話題になっています。
まだテレビ番組のDVDでは入ってきていません。(インターネットの動画サイトでは見ることが出来そうですが)
映画『442 日系部隊・アメリカ軍』はロサンゼルス在住のすずきじゅんいち監督が製作された作品で、ロサンゼルスでも上映され、とても話題になっていました。
日系人部隊が太平洋戦線で日本人と戦わなかったことだけが救いです。
やっと日本の方々に日系人部隊のことが理解されるきっかけが出来たと、嬉しく思っています。
11月3日より2時間枠連続5日放映ということで今日がその最終話です。
昨日の放映でその442部隊のことを知り、休日という事もあり、ネットで442部隊や移民の方々のことを調べてびっくりしました。ここに紹介されている映画も探してみてみたいと思います
最近話題のすずきじゅんいち監督、映画『442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍』も機会があれば鑑賞してください。
新天地を求めて政府の政策で海外に出てきた多くの移民が、アメリカで今の地位を築いた歴史は、今のわれわれにはまねの出来ないことのように感じます。
命を持って日系アメリカ人の地位を築き上げた彼らに、黙祷・・・・・です。
本当はまだまだこの記事には書くべきことが一杯あるのですが・・・・・・
時間が出来たら書き足していきたいと思っています。
アメリカの日系人の歴史は埋もれたままです。
どうか心の片隅に、自分たちの祖国のために不遇の時代を過ごしながら、多くの犠牲の上に乗り越えた日系人のことを忘れないでいてください。
そして日本の戦争犠牲者に対して手を合わせる機会がもしあったら、ヨーロッパ戦線でアメリカ軍人として死んでいった日系部隊の方々に対してもお願いします。
私の知らない歴史に触れ、どんな想いで生きておられたのか?と胸が苦しくなりました
私は戦争を体験していませんが、戦争ほど愚かなものはないと思っています
今日は終戦の日です
この記事は、何度か読んでいました
コメントは今日がはじめてですが。。。
1人でも多くの人に知ってもらいたいと前から思っていましたので、私の拙いブログで今日この記事を紹介したいと思っています
勝手に紹介してごめんなさい
不都合がありましたら、記事を削除しますので、おっしゃってくださいね
体調を崩していてお返事遅れてしまいました、すいません。
米国はどちらにお住まいなのでしょうか?
マンザナはアメリカ在住の日本人や日系人にとって、大事な場所だと思います。
在米の他のアジアの方々の話題に出ることもありますが、やはりあの場所に立って感じることは、想像を超えるものがありますよね。
あの差別を乗り超え、今の社会的信用度を確立した日系人の方々には幾ら感謝しても足りないことだと思いますよね。
我々もそれに恥じないようにアメリカで頑張って行きたいものですね。
戦後移民として、日系社会に貢献する力のない弱いものを省みる、日系人の優しさ、思いやりの心に支えられてこの地に根付いたことを、感謝するばかりです。
私には三つの祖国がある思いです。
日系人の方々の歴史にはまだまだ光が向けられていないと考えますが・・・・・・・・・
最近は少しづつ日米双方で、彼らの苦悩について語られるようになったのかなと感じる事柄も出てきたようです。
第二次大戦で彼らがヨーロッパ戦線や、日本占領後の処理に大きな役割を果たしてきた事が認められるといいと思っています。
このことについては、まだこの記事にも書き足して行きたいと考えています。
朝Independenceの町からついた時は、まだ日の光はMt. Williamsonを綺麗に照らしているだけでしたが、次第にあのガードの建物までを照らすようになった時に、そうかここは砂漠地帯なんだ、こんな所に収容されたんだという最初の皮膚感覚を得ています。当時は何も残されていない(意図的に壊したのか?)なかを、じっくり歩き回ると小さな池を作ったらしいコンクリートの凹みを見つけました。収容所ではあっても日常的生活は許されたとも記録で読んでいたので、逆にいろいろな思いが頭の中を駆けめぐっていました。その他にも慰霊塔を含め結局終日そこで過ごし、処理できないほどの思いを胸にして去った事があります。
実は、6(?)年後に再度訪れています。その時はDeath Valleyから行きました。当時の収容所の仕事にDeath Valleyに行ったという記録を見つけていたためです。日帰りをしたのですが大変な長距離ドライブでしたが、改めてManzamnarのおかれた位置関係を理解するのに役立ちました。
収容された方々のご苦労を語れるわけでは有りませんが、人種差別とはどういう物なのか、何が起きるのかを実感できたことは大きい収穫です。ただ一つですが自分の観察からの気づきは、こうした収容生活でそれまでの仕事を引き継ぐことが出来ず収容所生活に限定されてしまうと、以前出来ていたような仕事の生産能力を失ってしまうらしいということです。結果、収容所を開放されたのちも、収容所で許された作業分野でしか仕事に付けなくなってしまう事が多々あるように見ました。まとめると、収容され自由が活動を阻害された結果、集団として持っていた産業的生産能力を喪失しており、収容行為の最大の損失がここにあるのではないか、しかし米国政府は収容行為を謝罪しても、日系人に対しそうした産業能力(別に言えば成功のチャンス)を失わせたことへの謝罪も、認識表明もまだなされていないと思っています。
不十分なメモではありますが、訪問者でもManzanarを理解しようとしていますし、出来ることなら春のPilgrimageというのにも参加して見たいと思っています。
ペルーにホームステイしていた経験はきっと日本に住むの日本人が意識できない、多くの苦悩に触れる事ができ、現在のひろたさんの物事の切り口に大きな影響を与えていると信じています。
日系人、日系アメリカ人、新一世などと色々の日系移民がアメリカにいますが、この記事に書かれた事実は皆が忘れてはならない事実です。
今後益々日本にやってくる労働者としての外国移民と
向き合う機会が増える日本人も、一度はこの事実に触れて欲しいと願っています。
戦争を題材にしたテレビや映画が多くあり、日本の内での悲惨な事実は描きだされていますが、貧しさの為仕方なく祖国を離れ移民していった人たちが、再び祖国の開戦によって苦しく激しい犠牲を払わなければならなかった事実はいまだ埋もれたままになっています。
ヨーロッパ戦線で多くの日系人がナチスドイツと激しく戦い、ヨーロッパ開放に貢献し、アメリカの一部隊としては最も多くの死傷者を出した事実は、今でも変わりがないのです。
アメリカに来る機会があれば、リトルトーキョーにも日系人博物館があるのでお立ち寄り下さい。
もしマンザナ収容所に行く機会があれば、気温40度を越えるあの砂漠を経験されると、その過酷だった状況を肌で感じることができると思います。
何かありましたらまたご連絡下さい。
戦争という厳しい状況の中、さらに二つの母国の価値観、コミュニティの亀裂、差別偏見と向き合わなければならなかった日系人達の歴史や、収容所での過酷な暮らしが胸に迫りました。
わたしは、ペルーで日系人の家庭にホームステイしていたことがあります。
時はちょうど、フジモリ氏が大統領に立候補したときでした。
高校生だったわたしは単純に「フジモリを応援してるんでしょ?」と尋ねたのですが、彼らの答えは苦渋に満ちたものでした。
日系二世のホストファーザーのお父さん(一世)は、初めアメリカ合衆国に渡り、差別の過酷な状況の中で少しずつ南下してペルーにたどり着いたようです。
ホストファーザーは、お父さんから家族の移民の歴史を繰り返し聞いて育ちました。
「同じ日系人として、フジモリ氏を応援したい気持ちはもちろんある。
しかし、もしフジモリ政権となって、それが何らかの理由で失敗した場合(後にまさにそうした状況が生まれてしまうわけですが)、日系社会全体がそのツケを払うことになる。
合衆国での日系人の歴史を知っているからこそ、フジモリには投票できない。」
そんな風に語っていました。
三世代隔てても、彼らはペルー人でも日本人でもない「日系人」というアイデンティティの中で暮らしています。
この記事の最後、お知り合いの方の名前を見つけたくだりを見て、ホストファミリーのことを思いました。
アメリカを訪ねる機会があったら、ぜひ訪ねてみたいと思います。
先程benbowさんのブログ全部読ませていただきました。
今はアメリカへ来て僅かしか経っていないので大変な事もいっぱいでしょうが頑張ってくださいね。
いつかマンザナの収容所後に行ってみてください、この記事では分からない、荒涼とした風景の中で暮らした人たちに1歩でも近づく事が出来ます、そしてこれからこの国でサバイバルする大きな力になりますよ。
だって私達はこのアメリカで、差別される側にいるのですから。
お互い頑張りましょうね!!!
benbowの子供さんたちがこの国を嫌いにならないで欲しいと思っています。
Lighthouseのブログから私たちのブログへ来て
いただいてありがとうございました。
私たちは家族で移民として、自分たちの意思で
こうしてアメリカへ来たのですが、過去の戦争の
ことを忘れてませんし、日系の方たちのこうした
苦難の上に今の生活があることも理解していた
つもりでしたが、この記事を読んで更に日本人
として、今の地位を築いた先人の方々の努力を
無駄にしてはいけない!と再認識しました…!
自分の意思でとは言っても、子どもたちはまだ
小さく、自分で選択できた訳ではなく、彼らがここ
に来れたことを感謝してくれ、また、日本人として
の誇りももってくれたらと願います。
移民としてこの国に暮らすようになり、子どもも
いることで、以前とは考え方も随分違うようになり
ましたが、はやくこのアメリカも世界の警察として
外国で戦争をしなくてすむ、平和な世の中になる
よう祈らずにいられません。
おかげさまで、更にこの国でがんばっていく勇気
をいただきました。今後ともよろしくお願いします。
hiroのBLOGの閉鎖は残念でした。ブックマークに入っているんですけど、とりあえず削除しておきますね。また新しいBLOG開いたら必ずお知らせ下さい。
本当にこの事実を知ってから、日系2世の方々に頭が下がる思いです。
日本でも戦後60年とかで、戦争関係の色んな特別番組などがあるようですが、こんな事実があったことも記憶の片隅にとどめていて欲しいと願った次第です。
BLOGは閉鎖してしまいましたが、時々拝見してます。
戦争の発端って、宗教に対する盲信や人種に対する偏見といった、ごくごく、人類のこれまで生きてきた経過の、根っこにあるもの、って気がするのですが(神話などはこれに、愛憎がからんだりしますが、今はそれほど人が少ない時代じゃないし)、この日系人の方々は、そんな根本的な部分をわしづかみにされて、本当に大変だったのだろうと思います。
新しい時代を切り開くためには、敵としっかりと、向き合わなきゃならない。彼らにはきっと、痛いほどそのことがわかっていたんですね。素晴らしい仕事をしてくれた、日本人に、感謝、感謝です。
こんな人がいたからこそ、日本人がたくさん移住したり、働いたり出来るんですね。ありがとうございます、と、手を合わせたくなりました。
お話、きかせてくれてありがとうございました。
私達は自分の意思でこのアメリカに暮らしていますが、その子供達は・・・と思うと複雑ですね?
私のお友達の息子さんは、実際の湾岸戦争にアメリカ海軍の飛行機で爆撃に出撃していました。
勇敢に戦う事と、生きて帰ることの狭間でゆれる母心は私には計り知れないものでしたけど・・・・・・
確か有吉佐和子さんの「非色」だったかな、強制収容所の話を読んだ事があります。それも、日本からアメリカへ帰る飛行機の中で(読むなよって感じでしょ?!)。アメリカに帰るとホッとする私としてはとても複雑な心境だったし、アメリカ生まれの息子を持つ身としては、さらに色々考えさせられました。そして、9.11があったとき、「本土への襲撃はパールハーバー以来」を連発する報道に、「もしや私たちも強制収容所?」とちょっと異常な雰囲気を感じてしまいましたね。でも、日本人も他の国でそういう行為を行なってるんですよね。
ヨーロッパ開放に日系人がいたことは残念ながら、アメリカ側でも日本側でも人々の脳裏にはほとんど無いのだと思います。
私やmakimakiさんのように自分の意思で外国に渡ったのと違い、2世は生まれ育った国からよそ者扱いを受けた戸惑いはどんなものだったのでしょう。
でもその現実に立ち向かい、自分から何かを変える為に頑張った日系人たちの存在を、ただお知らせしたかったのです。
hanaclubさん
確かにめぐりあった時代は選べないでしょうけど、生き方は選べます。
未来を予測するのも難しいですけど、思い描く事は出来ますよね。
思い描く未来は、誰の為に残そうとしているのでしょうね。
国家と人間(国民)の関係を捉えるのは、民主主義ではとても難しいことなのかも知れませんが・・・・・・・・難しいこと考えてしまった、今回の問題でした・・・・・・。
所謂私達は「戦争を知らない子供達」で、そのむごさを、殆どきかされることもなく育ち、自分からも知りたいと思いもせずにきました。日本以外に住んだことがなく、人種差別は、短い旅に、それも思い出になってしまう程度の体験しかない私には「日系アメリカ人」と言う響きに、なんの偏見もありません。
むしろ、憧れます。母国を飛び立つには、それ相当の覚悟と、勇気がいるものでそういう人たちの子孫なんですもの。2流アメリカ人なんて、ありえませんよ。
今この日本で忠誠を誓うと言う感覚は無いと思います。
私達が、アメリカに何の心配せずに出かけていくことができるのは、flyfisherさん達のように、物事を深く掘り下げ、しっかりと取り組む姿勢のおかげなのですね。
色々、考えさせられる、記事でした。
私たちが海外に住んだり、旅行したり、自由でいられるのは、
その国が平和だからですよね。
こんな戦争は2度としてはいけないと改めて思います。
そして、世界中に平和が訪れて欲しいですね。
ヨーロッパの開放といえば、歴史でも映画でも、連合軍と呼ばれた白人の人たちしか表に出てきませんが、その影ではこのような日系人のドラマが繰りひろげられていたと知ると、同じ日本民族の血を持っている人たちの脳裏に少しでも記憶していて欲しいと願った次第です。
日系アメリカ人というと、日本ではどうも、2流アメリカ人として軽く見られているような気さえする事がありますので・・・・。
現在、世界各国で生活をする日本人のためにも、他の国の方と結婚をなさっている方たちのためにも、日本で暮らす外国人の方たちのためにも・・・、戦争という道は決して選択しません。戦争を否定する理由はたくさんありますが、こういった現実もひとつ心に留め、そのためにも戦争はしないんだ、と改めて、心に刻みました。ありがとうございました。
移民国家、又は多民族国家に住む私達は、常に人種偏見や差別とは無縁ではありません。
でもそれに立ち向かい、そしてアメリカの中で日系人の地位をここまであげてきた彼らに、私達は感謝しなくてはいけません。
そして後に続く日本からの人たちの見本とならなければと、ちょっと感傷的になっているこの数週間でした。
なんとも言えない気持ちになりました。
私も 日本からやってきた一人。 どんなことでも「日本人は。。。」と 悪く言われないように、、 また この先やってくるであろう日本人のためにも 頑張っていこうと思いました。
いろいろ辛いこと 振り返りたくない歴史とかあるけれど 私たちは しっかりとそれを受け止めて そこから学んでいかなければいけないですね。
ニューオーリンズでのことも、、 「誰が悪い」とか言い合ってないで 起きてしまった出来事から 多くを学んで 将来の為に備えて欲しいと 心から思っています。