*午後5時のお茶会*

美しい聴衆の集まる時間

集中とリラックス

2011-06-27 11:18:25 | 日記
集中するにも段階と種類があるんだな、と最近思います。


若いときは、無我夢中でそれこそ自分がどんな風に弾いたのか、とか、会場の雰囲気はどうだったのか、とか、弾き終わったあとに全く覚えていない。そんなことも多かったのです。


そして、それが「集中している」と信じこんでいました。


まあ、それで評価が良かったこともあったりしたのですが、あとで冷静に録音を聴いてみると思ったより自分の中で色々やったつもりが表に音として表現されていない?ように思えて、なんだかすごく消耗したわりには残念だなあ・・と思うこともしばしば。


そして、表現しきれなかったのは「練習が足りないせいだ」とか「技術が無いせいだ」と思ってさらに自分の中に深く深く閉じこもっていた時代も。



それもひとつのやり方かもしれない。自分を直視することも必要だと思うし。



で、過去に思いがけなく「うまくいった!」という演奏のときを思いだしてみると、必ずしも本番の舞台でそのような自分以外には何も存在しないような種類の集中をしていないのです。



舞台に出て「ああ、○○さんが居るな」「咳が出る人がいるな」「雨が降ってる」とか、驚くほどちゃんと見えているし、聴こえているのです。演奏を始めてからも「今、誰かが物を落としたな」とか「扉が開いた」とか弾きながらでもすごく聴けているんです。



本当に集中していないときは、それによって演奏に支障がでます。


だけど、良い集中をしているときは、それらを聴いていても、音楽は音楽で止まることなく続いていけるのですよね。

なんか不思議な感覚です。


舞台で弾いている自分が確かに居るのですが、それをどこかで鑑賞している「自分」も居るような感じです。


音楽は1度始めたらその目指すところに勝手に進んでいくので、それを自分の小さな感情(?)でじゃましないようにしていればいい・・・ように思えるのです。


せっかく良い流れにのっているのに「ここは練習のときにはこう弾かなかった」なんて思うと、とたんに流れが妨げられてしまう。良い流れのなかで「ここはこうしてみたい」と思ったことは練習してたこととは全然違うけどやってみると上手くいくみたい。


あるいは「ここはこうしてみたい」が今の私にできることを超えている場合はやっぱりできなかったりするのですけど、それはそれで「次」に繋がっていくような気がします。


そして、演奏が終わったあとに消耗しないのです。身体はたしかに疲労していますが、自分の中身が空っぽになるような疲れ方はしないんです。



舞台でそう思えるようにするには、あらゆる準備が必要ですけどね。


指がちゃんと動くように練習するのはもちろん、体調管理、当日の衣装とか、会場に着くまでの段取りとか、やっぱりでき得ることはすべて全力でやるべきです。



でも、舞台にでたときはそれをすべて、手放しちゃう。流れに身をまかせてしまう。


それがいいみたいですね^^だから最近は、緊張しているとかしていないとか、成功するとか失敗するとか・・ある意味どうでもいいような気になってきました。


集中とリラックスは実は同じことなんじゃないかと思うんです。


この先にあるのは・・・

2011-06-19 21:40:53 | 日記
いちめんのシロツメクサの原っぱでした。

今日歌の伴奏で行った仏子の音楽スタジオ、アミーゴの建物からみた風景です。

ここは、舞台のうしろが窓になっていてこの原っぱが見えるんです^^


舞台用のよそ行きを着てたけどお散歩しました☆


そうそう、


ちょうど「アミ」という宇宙人が出てくる本をいただいて
読んでいるところでした。


世の中に偶然なんて、無いような気がするなあ。

6月18日(土)のつぶやき

2011-06-19 02:13:40 | 日記
00:18 from web
エンリケ・バリオス「アミ 小さな宇宙人」という本をいただいた^^。最近よく本をもらいます。何かが繋がっていくような気がしてならない。
00:23 from web
夢で「るりちゃん」を当然のように連れて歩いていました。るりちゃんって誰なんだろう?と起きてから気になる。色白のかわいい5才くらいの女の子でした。
by kyocoron on Twitter