愛の種

 
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霊峰への誘い パート2が、祖母への誘いに

2022-08-16 10:05:00 | 気ままわがままつれづれなるまま
私の田舎は旧川井村の鈴久名

鈴は、静御前の訛りが転訛したと言われている

鈴久名から盛岡へ向かうと、川内のやまびこ産直館という道の駅がある

この道の駅裏手の旧街道沿いの地域は、芳門という地域で、ここに住む家々のお宅の名前も、芳門という名が多い

おそらく、霊峰への誘いの本を書かれた作者はこの地域の方だろうと思う








本の中におしら様の支度をしている写真を見つけた

写真の題名は鈴久名のおしら様、であった

よく見ると、私の実家のご近所の亡くなられたおばあさんだった

私の祖母の姉であった

私の祖母とこの写真の生まれた家が、おしら様の神様を祀っている家であったから、その関係で、写真がのることになったのだろう



思いもよらぬ鈴久名地域のおしら様の記録があったので、ことさら、貴重な本であると思ってありがたいことでした

祖母はわたしが尊敬してやまない人なので、祖母の姉の写真をみては、昔を思い出しております

宮沢賢治の、アメニモマケズの、人生を全うした人でした

感情をいかにコントロールできるか、は、私にとっての、一生のテーマ、課題ですが、

祖母は、怒ることをせず、歯向かうことをせず、たった一枚の、ボロボロになった川井村スタンプを拾い、これもお金だと大事にし、年中行事を大事にし、嫁に主導権をすぐに渡して、ふつつかな嫁を褒めることしかしないひとであった

でも、祖母はひとつだけ、嫁である私の母親への愚痴を、実の娘にこぼしていたそうだ

生前祖母が、娘の家に泊まりに行った時、
私を心配していたという

母さんが、私ばかりを叱ってばかりいるから、私が心配だと話していたという

私は変わった子だったと思う
思いついたら、いたずらが、やめられないし、親に叱られても平気であったから、思いのままに生活していた

なのでしょっちゅう、母親は私を怒っていた
でも、私は一切気にしない
叱られても、自分のやりたいという気持ちが先行するのだから、まったくしょげることはない

叱られている本人はケロッとしていたはずなのだが、側から見ていた祖母は、わたしが押しつぶされるかもと、心配したのだろう

私の姉は学校でも、家でも優等生だし、私の下の弟は、体が弱かったりして、親が手をかけて大事に育てていたから、たしかに、私だけが叱られる対象だったろう

なので、余計に祖母は私のことを気にかけていたのだろう

大人になってからもきっとそうだ

昔長男を産んで育てていた東京暮らしの時、長男と前の夫と一度、田舎に里帰りして、また、東京に帰るとき、車に私が乗り込もうとしたら、祖母が、あつこっ、と、心配そうな顔で私を呼んだ
そして、震える手で、私に千円を渡してくれたのだ

祖母は夫が戦死したので、戦死者の妻ということで、年金はそれなりに貰えている人であったが、なにしろ、家が貧乏なので、うちの、親が全部年金を使っていたから、祖母に現金が回ることはなかったのだ

時々他所に出た祖母の子供がお小遣いをあげていたくらいの収入なのだった

私は祖母のくれた千円を、使わずに大事にとっていた

飾っていた額の後ろに千円を隠して一生使わずに置こうと思っていた

でも、ある日嫌な予感がして、額の背後をみたら、千円が無かった

私はちかくのパチンコ屋に向かった

前のオットがそこにいた

祖母の千円を返してくれと言ったがむだであった

怒りで震えたわたしであった

この怒りは本当に、腹の底から湧いてくるもので、この怒りが落ち着くのに、5年はかかった

5年を過ぎてからは、思い出しても、腹わたが煮えたぐらなくなった

やっとの思いで私の腹の虫を鎮めたのだった

祖母は亡くなった今でも私を見守ってくれているような気がしている

私も今でも祖母を思い出しては、感謝を伝えている

どうか、安心して私をみててよいよ、

と、やっと、言える私になったよ

生前にそれを言えなくてごめんね

もう笑って良いよ、ちっちゃいばあやん




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