新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

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備忘録

2017年08月10日 | 革命のディスクール・断章
 2012年に三里塚闘争に関して、2本のエントリを立てている。当時、反原発運動から「極左」を排除しようという対立・混乱があり、当該として若干の意見表明を試みたものだろう。

 三里塚 不可視の革命
 http://gold.ap.teacup.com/multitud0/1250.html

 三里塚闘争の教訓
 http://gold.ap.teacup.com/multitud0/976.html

 発表順は「教訓」「不可視の革命」だけれど、執筆時期は逆である。「不可視の革命」を書いたのは2005年で、「教訓」とのあいだには7年のブランクがあり、さらにイリッチやエリアーデを援用した三里塚闘争論は1980年代後半に書いたものが元になっている。名前は出していないけれど、笠井潔の集合革命論の影響も顕著である。
 「教訓」では、「叛乱主義」「ブランキズム」とセクト幹部から批判されたユートピア革命主義は鳴りを潜めている。
 左派系掲示板で親交のあった鬼薔薇さんが、笠井の兄貴分の長崎浩を、「一種の文学」と評していたことがある。それは「理論」に媒介されない「方針」が、主観化・主情化することへの歯止めがなくなることへの危うさの表明だった。全共闘運動や70年代の新左翼運動は、そうして自壊していった。
 その意味では、『テロルの現象学』は、「一種の革命文学論」に過ぎなかったともいえる。この鬼薔薇さんの長崎批判は、ブルトンやエリュアールのシュルレアリスム宣言から、革命の言説に近づき、『叛乱論』に感動した経験のある私には、耳の痛い話だった。 理論も大いに苦手である(帝国主義勉強会も結局脱落・逃亡してしまった)。自分自身の欠陥であるがゆえに、この「危うさ」には自覚的でありたい。鬼薔薇さんの発言はここで読めた…のだが、ジオシティーズのサービス終了で読めなくなった。
http://www.geocities.jp/osaka_multitude_p/lenin_imperialism_gakushuu/kako-200308.html


【資料:鬼薔薇さん語録】

◎長崎浩について[1]
 長崎さんというと、ブント再建過程で出た復刊『共産主義』に載った論文は興味深く読んだ憶えがございます。でもご本人は第2次ブントにご参加でなかったし、近くも遠くもない別世界の方でした。「反乱論」〈ママ〉は雑誌に載った時に読みましたけど、わたしに言わせればあれは一種の文学ね(笑)。「現代帝国主義論」もない「階級分析」もない「権力動向分析」もない、そういうのは当時のわたし「政治論文」と思いませんでした。
 「全共闘世代」の活動家たちは、そんな「理論」などより「文学」の香りがする「思想」が好みだったのですが、わたし、「理論」に媒介されない「思想」が政治的含みをもって語られる風景には、ひどく危ういものを感じておりました。「方針」が主観化・主情化することへの歯止めがないと思われたためでございます。その後の動きはそんな感じを裏付けるものだったように思えます。

◎長崎浩について[2]
 この本(注:中野重治『レーニン 素人の読み方』)が出た後、新左翼評論家・長崎浩がなにかの雑誌に「レーニン 玄人の読み方」とかいう評論を書いていて、それにひどい反発を感じたのを覚えている。あてつけみたいなタイトルからして厭味で、新左翼エリート特有の“軽薄な傲慢さ”を嗅ぎとったのかもしれない。それより前だったと思うが、吉本隆明が竹内好を評して、毛沢東の「実践論」「矛盾論」など哲学書として読んだら噴飯ものだが、竹内にはあれが中国の民話のように読めるのだろう、自分にはとてもそのようには読むことができない、という趣旨のことを書いていた。それは、60年安保では激しく対立した竹内氏に対する思想家としての敬意だったはず。吉本・中野というと「転向論」が有名だが、吉本氏は文学者として中野重治にも敬意を抱いていたにちがいない。60 年東大ブントの長崎には、その類の敬意というものが感じられなかった。

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