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[読書メモ] ミルトン『言論・出版の自由 アレオパジティカ』(岩波文庫・原田純訳)

2021年04月14日 | 読書




 「ここに出てくる連中は、悪魔サタンが牢を破って出ようとしても、上記四種類の書類を魔除けにすれば閉じこめることができると妄想しております」

 ミルトン生誕400年(2008年)に訳出された本書は長らく積読だったが、ようやく読みおえた。ミルトンが幽閉中のガリレオに会っていたというのも初耳だった。

 検閲は中傷、扇動、誹謗文書の取り締まりを目的にするというが、逆に人間の知識の発動を妨げるものだ。

 だからパウロはいう。「清い人には、すべてのものが清い」。紀元二四〇年頃、異端の書物に通じたアレクサンドリアのディオニュシオスが、ある長老からなぜこのような汚れた書物を読むのかと問いただされたとき、神から幻影が送られたという。

 「手に入るどんな書物でも読め。汝は正しく判断でき、どんなことでも調べる力を持っているから」

 ミルトンには人間への、あるいは理性への無邪気なまでの信頼がある。どんな良い書物でも、よこしまな心には悪をつくる機会になる。悪い肉はどんな健康な消化力であっても栄養にならないが、この点が食物と書物とは異なる点である。悪い書物さえも、思慮分別のある読者には、良いことが多くわかり、論破し、前もって警戒し、例証するのに役立つ。書物と食物のこの類比は、あの「禁断の果実」に始まるのだ。

 「この世という畑では、善と悪の知識はほとんど見分けがつかず、一緒に生まれてきます。善の知識は悪の知識とからみ合い、巧妙にあれこれ似ており、区別ができないほどです。(中略)おそらくこれこそアダムが堕落したあと善と悪を知り、悪によって善を知るようになった運命であります。この地上の人間の状態がこうである以上、悪を知らなければ知恵を選択できず、慎むべき節制もありません。悪が持っている誘惑、外見の快感をも含めて理解し、考察し、しかも控え、弁別し、真により良いものを選択できる人、その人が真に戦うキリスト者であります」

 ミルトンはまたいう。人はこの世に純潔のまま生まれてくるわけではない。むしろ不純をもって生まれてくる。出陣して敵と戦い、ちりと汗にまみれなかった、実際に使われず鍛錬もされなかった、逃避、隠遁の徳を称揚することはできないのだ、と。

 アレオパジティカはラテン語で大法官の意。1644年11月24日に出版され、副題は「許可なくして印刷する自由のためにイギリス議会に訴える演説」となっている。当時イギリスはピューリタン革命の初期にあたり、議会の優勢がほぼ確定的となり、議会は長老派系議員が主導権を握っていた。革命議会は1641年1月に、革命前にあった印刷検閲令を廃止した。しかし1643年6月に議会はふたたび、許可なくして書物を印刷、翻刻、輸入することを禁じた。本書はこの措置に対して反論したものである。無許可の非合法出版だった。

 あれこれの書物を区別なく読むことには、悪に感染する恐れもあるのは確かだ。特に宗教論争の書物から来る感染は、無学な人々より学識ある人々にとってひどく危険である。しかしこのことを怖れるなら人文科学や宗教論争はこの世から除かねばならない。聖書でさえ禁書の対象だ。なぜなら聖書はしばしば冒瀆を露骨に語り、邪悪な人間の肉感を念入りに描いてきたのだから。

 神がアダムに理性を与えたとき、神は選択の自由を与えた。理性とは選択に他ならない。そうでなければアダムはただの操り人形であろう。ミルトンは、ギリシア以来の歴史を検討し、検閲制度がカトリック教会の異端抑圧に端を発していることを明らかにしていく。

 ミルトンが分派や異端について述べていることは、一人分派、一人党派である私には、なかなか興味深かった。

 「悪魔は言う、『やつらが各派、各党に分裂したときこそ、時機到来だ』と。愚か者よ、われわれは枝分かれしているが、すべてが成長してきた元の堅い根は悪魔にはわからない。細分された小隊が、団結力もなく嵩(かさ)ばかり大きい悪魔の旅団(*)を、あらゆる角度から切り進んでいくのを見るまでは気づかない。分派、分裂と思われているものから、より良いものが生まれることを希望すること、(中略)われわれの不和を喝采する悪意ある者たちを、われわれは最後に笑う』

 (*)古代ローマの軍隊の戦闘単位で歩兵中隊に相当するもの。


 ミルトンは「分派」「異端者」を神殿建設の建材にたとえている。自然石を並べただけでは神殿はできないし、建築のあらゆる部分がすべて同じ形であるわけではない。いや、むしろは完全は数多くの多様と融和の不同から成り立つのである。

 しかし『言論・出版の自由』刊行の16年後、1660年、王制復古の声が全国を覆い、共和制崩壊が目前に迫る。この中でミルトンが書いた『自由共和国建設論』も本書に収録されている。

 国家大権を初めて行使する議会が国民主権者の代議でなく、議会主権であるというのは、議会民主制の矛盾を鋭く突いている。ミルトンが議会改革のために提案したのは、衆愚制を防ぐための議会と執行機関の統合と終身制であった。このためミルトンは反民主主義者、独裁論者として非難される。

しかしプラトンが警告したとおり、議会民主制は僭主独裁に傾く。それはワイマール憲法下でのナチス政権奪取にも明かだろう。日本帝国主義における、象徴天皇制とパラレルになった世襲制象徴民主制もまた然りである。訳者解説のいうとおり、「不幸な時代には、自らすすんで圧制を求める魔力が多くの人々を動かす。本書と並行して口述されていた長編叙事詩『失楽園』の中にこの魔力は現われる」のである。

 18世紀以降、キリスト教が個人の内面的な慰めになり、寛容が心がけや道徳になり、自由が脱批判・非抵抗、ブルジョアジーの特権となっていく中で、ミルトンの影は薄れ、時代からずれ、「死せるモニュメント」になってしまった。しかし一周回って、今日の民主主義の危機を考える意味でも、ミルトンの言葉は示唆深に富んでいる。久しぶりにスピノザの『国家論』やロックの『市民政府論』を取り出して、眺めたりしている。


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