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さらぎ徳二とその時代(3) 第二次ブント再建から分裂まで

2021年05月06日 | 革命のディスクール・断章

『世界暴力革命論』の本文最終ページに、近刊予告がある。

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-破防法弾圧下・獄中より贈る---
 共産主義者同盟議長 
 さらぎ 徳二 著

先行性ファシズム論
 安保決戦に向けて、日本帝国主義権力の本質と動向を明らかにする権力論


 九月中緊急刊行予定!!
[但し、著者は重傷を負って獄中にいますので、やむを得ず遅れることがあるかもしれません] 

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赤字のタイトル部分は、赤インキで刷った見出しの別紙を糊付けしている。まだオフセット印刷が普及せず活版が主流だった時代の本には、活版で刷った本文用紙に、カラーで刷った写真や図版を切って貼り付けた本も見かける。スミのインキが乾くのを待ってもう1回印刷機で赤を刷り込むより、安上がりで早かったのかもしれない。

『世界暴力革命論』の第一刷は1969年5月22日で、当時さらぎさんは地下に潜行していたが、私が所有する同年8月の2刷の時点では、この広告にあるとおり、負傷して獄中にあった。7月6日の赤軍派の襲撃で重傷を負い、現場に取り残されたところを警察権力に逮捕されてしまったのである。

なぜこんなことになってしまったのか。千葉正健氏との出会いから第二次ブント再建、分裂までの過程を追ってみたい。

千葉氏率いる青年労働者の組織は、学生運動を中心とするブント再建の展開からは無視された存在だった……とさらぎさんは振り返る。革共同に移行しなかった電通労研の松本礼ニ氏(田川和夫の港地区委員会の同盟員だったようだ)らとともにマルクス・レーニン主義派(ML派)への参加を選択。第二次ブント再建への第一歩だった。ちなみにML派には、東大安田講堂突入占拠闘争を指揮した今井澄がいた。ML派は古式ゆかしいオールドボリシェヴィキで、所感派で武装闘争に従事した筋金入りの闘士だったさらぎさんにはいちばん「水」が合ったのかもしれない。

このML派は、「世界資本主義」論を掲げた宇野弘蔵の直弟子にして鬼子である岩田弘を信奉するマルクス主義戦線派(マル戦派)に対抗する形で結成されたという。ML派は最初64年頃、渚雪彦氏が主導したが、さらぎさんが次第に影響力を強めた。

この他、sect6系と社学同書記局派系の流れをひくグループとして独立派があった。中央大学の三上治らは吉本隆明、東大の古賀暹、明治大学の篠田邦雄らは廣松渉氏の影響が強かったとされる。最後の潮流が関西ブントである。関西ブントは革共同に移行した北小路敏氏が「脱落」した他は、組織がほぼ無傷のまま残っていた。

1965年3月、ML多数派と独立派が統一して、社学同統一派を結成、5月3日に労働者も参加して共産同統一推進フラクを形成する。東京での統一準備が整い、65年6月に関西ブントと統一。66年12月17日に第二次ブント再建が成る。

しかしさらぎさんはこの第二次ブント再建を「暗い門出」と振り返る。

〈達成感の中における失望と悲観とでも言った心境でしょうか。確かにブントは再建できたという達成感はありました。しかし、六年間もかけて再現した第二次ブントの政治路線が全くと言ってよいほど私の考えと違った路線になったという失望と悲観だったのです。〉(『革命に生きる』 『情況』1997年7月)

ブントが再建したこと自体は嬉しいことだった。生まれたばかりの第二次ブントには期待が寄せられ、勢いがあり、マル学同(中核派)、反帝学評(解放派)、社学同(ブント)による三派全学連を生み出す原動力となる。

しかしブント統一過程で、マル戦派の岩田理論一色に染まった議案を大会で承認採択せざるを得なかったことは忸怩たるものがあったようだ。

〈東京統一派幹部の無責任さと体たらくと第一次ブントの崩壊以降も分裂闘争に免疫のない関西ブント幹部の鈍感さと対応の遅さを目の当たりにし、半ばあきれながら、でもまた政治路線の自己主張をなしえなかった自責の念にかられ、私個人の心には「暗い門出」と映ったのです。〉(『革命に生きる』 同前)

『世界暴力革命論』の本文全286ページ中、「本論」というべき「第四編 革命軍事戦略論序説」がわずか42ページで、残り8割が「方法論」「普遍本質論」「史的戦略規定論」と宇野経済学批判に当てられているという、全くバランスに欠いた構成になっているのも(失礼な言い方になるが、これでは「タイトルに偽りあり」だ)、旧マル戦派の岩田理論との理論闘争・思想闘争が背景にあるのかもしれない。ちなみにこの稿を書くにあたって参照にした宇野学派の経済学者の高杉公望氏は、〈第二次ブントの「三ブロック階級闘争論」は着想どまりだったが世界システム論の先駆をなしていた〉と一定の評価を与えている。

◆ロシア革命の幻想と「68年革命」論の虚妄(高杉公望氏)

ここでまた、『さらぎ徳二著作集』のプロフィールより。

「1968年12月の第八回大会で議長に選出。1969年4月28日の安保・沖縄闘争を前に、破防法を発動され地下に潜行するも、同年7月6日の拡大中央委員会開催時に赤軍派に襲撃され受傷・被逮捕。」

最年長で、武装闘争も含めて20年以上の闘争歴を持ち、理論的な重鎮だったさらぎさんが、再建ブントの第三代議長に押し出されるのも、当然の流れだったと思われる。しかし、第二次ブントは再建からわずか3年で瓦解に至る。

東京統一派には第一次ブント崩壊の確固たる総括がなかったとさらぎさんは語る。関西ブントには「政治過程論」という60年安保闘争の総括があり、これが関西派を組織的に団結させるイデオロギー支柱になっていた。東西ブントの統一はこの「政治過程論」を踏まえて路線的統一を図るものではなかったのだ、と。

関西ブントは関西ブントで、危機に直面していた。以下はさらぎ議長を襲撃した赤軍派に属した高原裕之氏の、「塩見孝也お別れ会」を実行する過程で発表された「7/6事件 謝罪と報告」(2018年9月14日)に基づく。

◆7/6事件 謝罪と報告(高原裕之氏)

1968年11・7闘争においては、のちに叛旗派・情況派を形成するグループの反対を抑えて「霞が関中央闘争」を貫徹、敗北。「中央権力闘争」のエスカレートと相次ぐ敗北の中で、塩見孝也はブントの指導権の奪還をめざして赤軍派を結成する。7・6の会議をブント中央委員会と考えた塩見グループはテロを実行する。以下、高原氏の文章を引用する。

〈「内ゲバ」を超えた「リンチ」であった。日和見主義とみなして憤激し攻撃を加える動因はあった。しかし、それを超え、組織を統制し、指導部の指導権を維持する動因があった。この最悪の動因で過酷に暴力を行使してしまった。武装蜂起、革命戦争を非現実的と感じても「武装闘争の否定=転向」の論理からも抜け出せず、結局は連合赤軍事件まで行って初めて止まった。〉(「7/6事件 謝罪と報告」)

さらぎさんはいわゆる「内ゲバ」のたんなる被害者ではなく、加害者でもあった。再建ブントの分裂集会後の旧マル戦派の幹部・望月彰氏に対するテロ・リンチをこう自己批判する。

〈旧マル戦派の幹部に対するテロ・リンチについて体をはって阻止せず、黙認した以上、政治局員と幹部には、直接手を下したものと同じ責任があるのです。(中略)
このリンチという手法は、次に赤軍派が、破防法で権力から追われる私に行使した七・六事件へとエスカレートし、その思想的総括がないままついに連合赤軍による十二名の同志殺害に至ったと私は思っています。私に暴力を集中した田宮は既にピョンヤンで死亡し、高原は愛妻の遠山さんを永田に総括され殺されました。生と死の境を彷徨して生還した私なればこそ総括が不可欠なのです。(中略)
連合赤軍のリンチによる同志殺人や、これとは異質であるが、中核・革マル戦争が、学生や労働者の新左翼に対する心を遠ざけたことも認めざるを得ないでしょう。私の総括はまだまだ終わりそうにありません。〉
(『革命に生きる』 『情況』1999年7月)

当時はブントに限らず、新左翼も日共民青も、党派闘争や党内闘争を暴力で決着つけることが常態化していた。当時は親や教師が子どもを殴ることも当たり前だったが、左翼の世界も暴力で他人を支配し序列化する家父長制イデオロギーから自由でなかったし、大衆の前衛たる左翼であるというエリート意識ゆえに、内なる反革命と向き合うことなく、否定し乗り越えなければならないはずの敵階級のイデオロギーを温存してしまう。この中からカクマルのように他党派の解体・再編を組織づくりの自己目的化したカルト組織も生まれてきた。革共同両派の「反スターリニズム」の下で本家日共より愚劣で悪質な「スターリニズム」が拡大再生産された。

昨年亡くなった蔵田計成氏がさらぎさんに送った手紙が、学生運動や新左翼運動の歴史を知る上で欠かせないれんだいこ氏のサイトで公開されている。このページには、さらぎさんのインタビュー『革命に生きる』も文字起こしされているので、ぜひ参考にしていただきたい。


◆【追悼・第二次共産主義者同盟議長さらぎ徳二、寄稿「旧き友への手紙(蔵田計成)」】

〈故人は他の誰よりもブントの根底的総括の必要性を悲痛な思いを込めて叫び続け、「階級闘争の冬の時代」(故人)をもたらした内ゲバや粛清問題の歴史的解明の責任と決意を、そして、その総括が未だ十全でないことの無念さを死の瞬間まで抱き続けたはずです。〉

蜂起派のさらぎさんは党派テロリズムについて自己批判したが、昨年51年振りに公然登場した革共同の清水丈夫議長はどうお考えだろうか。「前進チャンネル」にでも出演して全学連の若者たちと討論したり、人々の批判や質問に誠実に答える義務があるのではないか。

権力と対決していくうえで暴力は避けられないと私は考える。しかし革命にとって暴力が必然なら倫理もまた不可避なのだ。過去を隠蔽し偽るものは、未来への扉を開くことはできない。現代日本においては、革命的暴力の復権のためには、まずは労働者階級のストライキの復権から始めなければならないと私は考える。労働者大衆の信と期待に応えられなければ、現在の社民路線さえ貫徹できまい。

最後に『さらぎ徳二著作集』のプロフィールより。

「共産同分裂の過程で蜂起派を結成し、破防法公判闘争を闘いつつ指導する。1968年、破防法公判闘争の途中で地下に潜行、以後二〇年にわたり、非合法非公然活動を地下から指揮しつつも、公然活動として機関紙発行等を通して、階級深部での闘いを指導し、建軍建党を追求。
1994年1月、肝硬変の悪化により倒れ、組織防衛措置の後、被逮捕・収監。治療保釈後も破防法闘争を闘いつつ、革命運動に献身するものの1998年共産同蜂起派を離党。第三次ブンド再建に執念を燃やすも2003年4月13日死去」

1998年の蜂起派離脱は、お亡くなりになった後に知った。組織内対立とのことだが、詳細は知らない。いずれは『我かく闘えり―破防法闘争三二年』も手に入れて、蜂起派結成後のさらぎさんの闘いも追ってみたいと思っている。




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