「御前の池に」というキーワードで、このブログをご訪問される方がいらっしゃる。
確かに、その一言だけでも、たどり着けてしまうのだ。何だろうと思ったら、次のエントリだった。
紫式部日記 (里帰りの述懐)
「世にあるべき人かずとは思はずながら、さしあたりて恥づかし、いみじと思ひ知るかたばかりのがれたりしを、さも残ることなく思ひ知る身のうさかな。」
勝手な私訳なので、渋谷栄一先生のサイトより、学術的に正しい現代語訳を例にかかげておく。
「わたしなどこの世に生きている価値のある人だとも思わないものの、さしあたっては恥ずかしい、つらいと思い知らされることだけは逃れて来たのだが、宮仕えする身となって、こんなにまで、恥ずかしい、つらいという思いのありったけを思い知るとは、なんとも辛い身であることよ」
当時、源氏の本を作りながら、「一期一会」ということを考えていた。仮に読者に想定したのは、職場体験で教える中学生たちだった。大半は、源氏なんて読むのは、学校時代の教科書が最後だろう。しかしこれがきっかけで大学の文学部などに進み、原文にチャレンジする若者もいるかもしれない。最初も最後も、一度きり。どちらも同じように大事だ。
私も思い切って現代風に超訳してみた(誤訳ともいう)。
「私にはこの世界に生きる資格があるなんて思えなかった。しかし物語に夢中になっている間だけは、大人になれない自分の惨めさを忘れることができた。でも完膚無きまで思い知らされたわ。もうどうだっていいの。」
「宮仕えで恥ずかしい・辛い思いをする」=「大人社会にとけこめない」=「大人になれない」という意味でとらえた。仕事バリバリのキャリアウーマンなのに、どこか子どもっぽい、少女の部分を残した人たちがいる。紫式部もそうだったのではないか。
「さも残ることなく思い知る」で、いったんハサミを入れた。「身のうさかな」を、「もうどうだっていいの」と訳すのは、いかがなものかと思いながらも、もう生きているのなんて鬱陶しい、いやだいやだ、ということだね。
不幸は忘れることができても、決して打ち消すことはできない。しかし救いのない世界で、絶望にうずくまりそうな時、人間を根底から立ち上がらせるのが、文学でありことばの力である。そういうことが中学生たちに少しでも伝わったのならいいな。明日はメーデーだ。
力をも入れずして天地を動かし
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ
男女のなかをもやはらげ
猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり
(古今和歌集 仮名序)