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難波宮と古代ヤマト 永続敗戦レジームの始まり

2019年08月31日 | 大阪
 読書と旅は似ている。古い自分の殻、凝り固まった考えや物の見方が打ち壊される、未知との遭遇、新しい世界の広がりが、読書や旅の最大の楽しみではないだろうか。

 栄原永速男編『館長と学ぼう 大阪の新しい歴史 I』も、私にとって、そんな新しい知見をもたらしてくれた本だった。栄原さんは、最近、何度か話題に出てくる大阪歴史博物館の館長さんだ。

 前期難波宮は、完成に際して、「その姿はことばにできないほど素晴らしい」と『日本書紀』は記している。そのスケールの大きさは、発掘調査でも裏付けられている。桁行(けたゆき)7間(12.73メートル)の巨大な門、八角殿(平面が八角形の建物)、建物群を取り巻く複廊(ふくろう・通路が二筋ある回廊)など、他の宮殿では類を見ない特徴的なものだ。

 八角殿では、河内湾を見渡す宴会が宴会が開かれたというが、柱穴から推測する限り、そこまで高い建物ではなかったらしい。しかし全高は10メートル前後はあった。だいたいマンションの3階から4階の高さである。

 前期難波宮からは、宮殿としては最古級の白壁が見つかっている。これは、同時期に完成した山田寺と類似し、寺院建築の技術を応用したもの。先行する事例が高句麗にあり、大陸系の手法をもとに建てられたものだという。桁行七間の大型門は、高句麗の首都・安鶴宮(あんかくきゅう)に、八角形建物は高句麗の寺院建築に見られる形式であるとされる。安鶴宮(あんかくきゅう)は、現在の北朝鮮の首都・平壌の郊外にあった。

 前期難波宮には、このように、大陸伝来の「国際規格」である、新しい建築類型(ビルディング・タイプ)が採用された。桁行9間の内裏(だいり)前殿、桁行7間の内裏南門、東・西八角殿、複廊も、その多くは日本で初めて出現するものだった。桁行9間(16.36メートル)の大型正殿は、のちの大極殿と同じスタイルであり、桁行き7間の大型門も藤原宮に踏襲される。それは古墳時代からみると隔絶したスケールの、新しい宮殿のスタイルの誕生であった。

 そして、都の造営には、渡来系の倭漢(やまとのあや)氏に属する荒井田直比羅夫(あらた いのあたい ひらふ)も携わっている。比羅夫は、大化3年(647年)、工人として溝涜(うなて・田の水路)を誤って難波に引き、掘り直しとなり、百姓(人民)を苦しめたという失敗があったにもかかわらず、白雉元年(650年)、難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)造営のため、将作大匠(しょうさくたいしょう)に大抜擢されている。これは大陸的建築技術に長けたものを重用する必要があったことを示している。

 ただし、難波宮の建築技法には、「堀立柱」(ほりたてばしら)という、昔ながらの在来技法も用いられている。これは地面に大きな穴(堀形)を掘り、そこに柱を入れ込んで立柱するという、縄文時代から使われている素朴な建築技法である。前期難波宮の建物は、すべてこの掘立柱で建てられている。

 従来のヤマト古代史は、随唐からの影響を中心に語られてきた。しかし前期難波宮の造営も、中国を直接模倣したものではなく、朝鮮半島を経由して技術導入されたものであり、そこには在来技術も用いられていた。

 特に高句麗との類似は注目される。高句麗の王室と百済の王室には、同祖だという伝承もある。高句麗、百済、ヤマトの三国は連携して、唐と新羅に対抗するが、結局、百済も高句麗も滅ぼされてしまう。東アジアで唐帝国に対抗するのはヤマトのみとなる。天智2年8月(663年10月)の白村江(はくすきのえ・現在の錦江河口付近)の戦いでの敗北は、ヤマトの歴史において、第二次大戦敗北によるアメリカ占領とならぶ、国家存亡の危機だったといえるだろう。

 この白村江の敗戦で、「倭」あらため「日本」という新しい国家が建国される。それはかつての敵国である唐をモデルにした「ミニ唐帝国」であり、白井聡風にいえば「永続敗戦レジーム」の始まりだったといえるかもしれない。前期難波宮の発掘調査結果は、現代につながるさまざまな問題も示唆しているように、私には思える。


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