新・私に続きを記させて(くろまっくのブログ)

ハイキングに里山再生、れんちゃんとお父さんの日々。

寂聴さんの思い出 忘己利他の人

2021年11月18日 | お悔やみ
瀬戸内寂聴さんが、2021年11月9日、永眠した。享年99。

葬儀は近親者のみで執り行われたという。私もご遺族と寂庵のスタッフの方々のご希望どおり、静かに寂聴さんを見送ることにした。

最後にお目にかかってから、もう10年が経過している。私が書いた源氏物語のダイジェスト本をご覧いただいたのがご縁となり、寂聴さんにご招待いただいたのである。しかしこの日が初対面ではなかった。平和運動や人権運動の現場でお目にかかっている。

寂聴さんは本の著者を女性と思われていたようだった。しかし寂聴さんが呼びかけ人のひとりだった平和団体のメンバーの過激派崩れが、スーツ姿で現れたのには、さすがの寂聴さんも面食らっておられたようだ。

寂聴さんにお目にかかる直前に、同志永田洋子が獄中死した。大きな過ちを犯した彼女に対して惜しみないご支援をいただいことに、ひとことお礼を申し上げたいと考えていたので、この日はよい機会になった。凶刃にたおれた同志本多延嘉書記長の葬儀に際して、危険をかえりみず御読経をいただいた恩義も忘れがたい。

私は、寂聴さんのスケジュールに合わせ、取り巻きの女性たちとのお茶会に闖入したような形で、結局、寂聴さんとみなさんの聞き役に徹していた。寂庵のある嵯峨の祇王寺では、祇王とその母や妹、かつてのライバルの白拍子も、四人仲良く念仏三昧の余生を送り往生を遂げたというが、こんな感じだったのだろうかと思った。

コーヒーにケーキを出していただいた。私がいつものようにコーヒーをブラックのまま飲もうとすると、
「まあ、お砂糖もミルクも入れないの?」
と、不思議な生き物を見るように円らな瞳で尋ねられた。コーヒーには砂糖とミルクが、寂庵でのルールなのであろう。私は寂聴さんに勧められるままに、カップに添えられた角砂糖とミルクを入れた。豆がいいのか、淹れ方がいいのかはわからないが、なるほど、砂糖を入れると、コーヒーの苦味からえぐみが消え、コーヒーの旨味をベストの状態で引き出すように感じられた。いままで飲んだコーヒーで、いちばん美味かったのは、寂庵で飲んだあのコーヒーだ。

寂聴さんにお会いした直後に3・11があった。あの年の冬、寂聴さんはお風呂で転倒して骨折され、私がお目にかかったときも車椅子の痛々しい姿だった。しかし、福島原発事故を聞いて、足がシャンと立ったという。灌仏会に合わせて開かれたチャリティーでは、私もささやかながら協力させていただいた。

その後、反原発集会でお見かけすることもあった。元過激派がそばをうろついたら迷惑だろうと思って、近づかないようにしていたが、いまは挨拶に行けばよかったと少し後悔している。

冤罪事件の徳島ラジオ商殺し事件の富士茂子さんや、同志永田洋子への支援、死刑制度反対運動、改憲阻止運動、寂聴さんは常に平和を願い虐げられた人びととともにあり続けた。『美は乱調にあり』の大杉栄・伊藤野枝の評伝、『遠い声』の管野スガの評伝など、左翼反体制運動の記録者としての功績も大きい。

2014年の東京都知事選では、寂聴さんは吉永小百合さんらと細川護熙を応援した。私は宇都宮健児さんを支持した。

これが3・11以降の反原発運動のひとつの転換点になった。2014年都知事選以降、反原発・脱原発運動は失速し、その昂揚の予熱は、安保法案反対運動に引き継がれていくが、既成左派・リベラル陣営は2016年の東京都知事選には鳥越俊太郎を擁立するなど迷走を深めていった。2021年、自公を政権から追い落とす最大のチャンスを活かせなかった日共やリベラルの限界は、この頃すでに明らかであった。

この頃を区切りに、私は寂聴さんのことを思い出すこともなくなっていった。貧困と格差の拡大が進むなか、アベノミクスやら、維新の「改革」詐欺やら、幻想にすがらざるをえない人民大衆の本音とハートに立脚しない限り、左翼の再生などありえない。文化人やエリートを頼るのではなく、労働者や生産者自らが生産拠点、生活拠点に根拠を築いて、地べたを這う地道なたたかいのなかにしか未来はない。私は3・11を契機に始めたコミューン事業、農業事業に軸足を移していった。

ただ、ご支援者にも、寂聴さんに激賞いただいた源氏本がご縁になった方もある。岡田嘉夫画伯との出会いもこの本があればこそだった。そのことにはいまも恩義を感じている。そして私の本も、特に「宇治十帖」をクライマックスとする「女人往生」のテーマは、瀬戸内源氏に多くを拠っている。

寂聴さんによれば、『源氏物語』は女人往生の思想をベースに、女性たちが「生」でも「死」でもない「出家」という人生のリセットボタンを押して、男たちを捨てて自由に生きる道を指し示した文学だった。突然打ち切られる『源氏物語』の向こうからは、「男なんて、せいぜいこの程度のものよ」という紫式部の哄笑が聞こえるという。

たかが男、されど男。恋愛沙汰はさすがにもうなかっただろうが、寂聴さんは井上光晴のことは死ぬまで好きだったろう。
私の顔をしげしげみて、「あなたもいい男ねえ」と寂聴さんはお世辞をいい、
「でも男のかわりにいまは仏さまにお金を貢いでいる」
と、いって、楽しそうにカラカラと笑った。

古代仏教は女性を穢れた存在だとして、仏になることはできないといった。この女性差別を逆手にとって女性解放の思想に止揚したのが、寂聴さんの生き様だったのではないか。
中世には、紫式部は狂言綺語を記して好色を説いた罪で地獄に落ちたと信じられた。能の「源氏供養」はその信仰から生まれた。中世の人が信じたこの罪と欲と業にまみれた紫式部像を、寂聴さんは生きながらにして体現するような人だったといえる。不倫の末に娘を捨てて出奔し、こころの命じるままに自由奔放に生きた「瀬戸内晴美」をリアルタイムで知る60代以上の女性にとっては、まさにそうだったろう。
煩悩まみれ、欲望まみれでいい。不倫したっていい。罪を犯したっていい。汚れたっていい。自分の心の命じるままに自由でありたい。寂聴さんが女性たちに与えた希望と勇気は、そういうものではなかっただろうか。

労組の事務所には「忘己利他」(もうこりた)と書かれた寂聴さんの揮毫を飾っている。最澄のことばだそうだが、「男はもう懲りた」の洒落だそうだ。しかしほんとうは懲りてなどいなかったと思う。寂聴さん、恋に革命に文学に、最後まで懲りずに、お疲れ様でした。男も締め切りもない久遠の世界で、ごゆるりとお休みください。

 


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