九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

出直しヴァージョン 鎌倉時代  中原景経から再考してみる (1) 

2024-07-05 | 九里バラバラ情報
もうそろそろこのブログも終わるのか?と思い始めた時に、驚くべき失敗が発覚された。もちろん、私の失敗である。




賢清には「中太」と註がある。中原太郎の略である。
つまり、長男であったであろうと思われる。

景経が長男
経任が次男 となる。

この中原景経に関しては、井ノ口日吉神社書中のその名を記す一節があり、今は損失した「富永荘御鎮守新日吉神社 文永五年銘の写し中に、願主の一人として「御庄奉行人仲原景経」の名がある。 (佐野静代 水と環境教育の論文紀要より )1268年 → いつのまにか写し自体が文永五年と読み間違えていたようだ。


これは大変な失敗と思う。
文永5年基軸に考え直さなくてはいけないと思う。

1268年迄生きていたという事になると、90歳まで生きていたとしても1178年には生まれている。その弟の息子が経久である。1175年に生まれたと思っていた経久だが、そのようにはならないことが分かった。
という事は、片岡経久ではないことが確実になる。

景経は70歳まで生きていたかもしれないし、確実性はないのだが、軸がズレた事は間違いないと思う。

ヤレヤレ‥‥

考え直そう。
真実は一つなので、それに近づかなくては意味がない。
考えようによっては、修正されなければならない箇所が発見されたのである。


1244年には文書が残っている。


景経は、幅を持たせて考えるが、1178-1204年辺りに生まれた可能性。
1244年の頃、40歳と仮定してみた。
1268年の頃、64歳である。

経任(景経の弟)は、1180-1206年あたりに生まれた可能性。
経久の生まれは、1196年ー1215年となる可能性が大きい。
という事は常忍が1216年生まれなので、兄弟、叔父甥の関係の可能性。(法然の弟子という説はほぼ無くなる。

復習を兼ねると…
丹波国河守庄地頭職、因幡国国衙官人・冨城郷地頭職、そして、肥前国高来郡深江郷領主相伝…(ここは、そのまま保存しつつ進めてみようと思う。)
何れも文書に残されているのが 1239・1247・1249年である。



1239年が一番早い。この頃【沙弥蓮忍】である。
1250年あたりに関東に戻り、常忍が千葉氏の許で働く。1249年には【蓮忍入道】である。
蓮忍は50歳あたりに任務を終えたことになる。

という事は、1185年に生まれた富木常忍の母は、経久の姉に当たるようになるのかもしれない。若しくは、常忍の母は経久の母でもあるのかもしれない。

今までの想像は、崩れ、もう一度一から考え直さなくてはいけないと思う。
ただ、文書に残っていることはそのまま使えると思う。

藤原頼経・藤原頼嗣の時代である。

頭の中はまだ混乱している。

memo 1327年・1333年唐崎合戦 佐々木時信
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少弐氏 と 宇都宮氏(2)宇都宮信房

2024-05-27 | 美濃源氏
武藤氏(後の少弐氏)が九州にやってきた時代は、実は宇都宮氏が九州に来た時代と重なっているのではないだろうか?

宇都宮宗房=中原宗房が、
『豊前宇都宮氏の祖』とも言われているというが、
宇都宮・中原信房も祖と言われているようである。

宗房の兄は宗綱で、寒河尼の父ではないかと言われている。
寒河尼は頼朝の乳母でもあった。

今回は、豊前宇都宮氏の九州における活躍等を見ていきたい。
wikipediaには、
文治3年(1187年)9月、鎮西奉行として鬼界ヶ島(貴海島)の平氏残党討伐で功績を挙げた。建久3年(1192年)には豊後国・日向国内において所領を与えられた
晩年は仏教に帰依した。天福2年(1234年)8月2日、79歳で死去した。

とある。
息のうち、三人には、九州での所領を冠した苗字がついているようである。
  • 男子:宇都宮景房
  • 男子:笠間有房
  • 男子:如法寺信政
  • 男子:麻生国弘
  • 男子:山田景長
横道にそれてしまうが、今回『深水』という苗字を宇都宮信房の兄弟に見つけたが、これは、秀郷流の片岡氏が近江蒲生郡に移り住んできた際の場所の【深水】と同じなのではないか?と思った。

宇都宮信房の兄弟・中原宗隆、野仲重房、山田政房、深水興房、西郷業政、廣澤直房、那須有家、江里口業俊


話を戻す。
以下の本に、天野遠景のあとに武藤氏が筑前・豊前・肥前の守護職となり、その後太宰少弐となったとある。大友氏は豊後・筑後・肥後の守護職である。
宇都宮信房は、はじめは平氏亡き後の没官領の地頭職であったようなのだ。
これは、意外であった。守護職だったのかと思っていたので…
では、有間氏との接点はあったのだろうか?










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刀伊入寇 と 平為賢(大村氏・有間氏の祖と思われる) 

2024-05-12 | 九里バラバラ情報
「光る君へ」のドラマと被ってくるこの辺り。
刀伊入寇で活躍したメンバーの一人が平為賢という。




【伊佐為賢】のことである。
兄弟には【那珂国幹】もいて、やはり大中臣が登場してくる。
常陸の国が本拠であるので、常陸平氏ともいう。


*****

深江蓮忍は、少なくとも有間朝澄の子息、親戚、または婚姻関係者である。(相伝の文書による)宝治合戦後、その日に文書が書かれている。その点が気にかかっている。

有間朝澄は、下河辺(小山)政義の息で野本氏に養子に入った時員と義兄弟か叔父と甥など、なんらか関係があるはずである。(串山荘の文書による)

*****

此の平国幹を検索すると戦国時代になってしまうのであきらめかけたが、その戦国時代の国幹は、居城が行方の芹沢城と言い、片岡氏と関係のあった橘郷(現在の羽生あたり)のすぐ近くとなる。


そこでもう一度片岡経春に戻り、調べてみようと思った。

国立国会図書館のwebに「栗里先生雑著」が出てきて、片岡経春は
中臣片岡連から出た片岡…とあり、大中臣と同祖であることが書かれ、
佐野静代氏の論文によると「近江国湖北の伊香の片岡郷が中臣方岡連の本貫であろうという説もある」という事がわかった。

近江国湖北の伊香郡片岡が中臣方岡連の本貫であり、そこより東国へ向かい鹿島宮の神祇官となっていた片岡氏であったのかもしれない。

そう思うと、伊香郡の郡司までも務めた(近江国御家人井口中原系図)
俊光や、郡司判官代となっていた経行とつながりが出てくる。




この中臣方岡連の裔と共に、東国に出てきた中原氏がいたのであろう思われるのだ。婚姻関係もあったであろうと思う。

鹿嶋宮の片岡となり、片岡経春の「その弟か義兄弟・経任(経政とも)」の息か養子である「経久」が九里太郎経久蓮忍入道となり、祖父か父?の中原久経の影響から宇都宮氏の中原氏(小山・下河辺)、藤原秀郷流、そして片岡経春の影響から大掾氏・海上常衡、千葉氏とのつながりも出来、幅広く繋がっていたように思うのだ。

しかも、千葉氏は、経久の母であったか、叔母であった可能性もありそうに思う。
というのも、法然の一周忌に蓮仁が集めた交名に千葉一族が多く見られるのである。この蓮仁が後に「蓮忍」になったのではないかと思っている。

有間氏との関係は、宇都宮氏であろうと思う。その当時は横田頼業・宇都宮時綱等。其の時綱が宝治合戦で自害する。

そして、肥前国高来郡串山庄の件で、下河辺時員(野本)が朝澄の親戚であり、一期を朝澄が相伝した後には荘園の権利を戻さなくてはいけない…と云うからには、そこにも宇都宮氏(中原)の影が見え、宇都宮氏と有間氏に婚姻関係があったと見えないだろうか?

…というのが、ここ何週間か有間氏に関して調べてきた私なりの結果であった。

大掾氏は鹿島氏と呼ばれる一流が出るほど鹿島に縁が深いと思うのだ。

今回、この大掾氏を調べたことで、今まで以上に片岡氏に近づけたのではないかと思う。

伊香郡片岡郷の片岡氏と鹿島宮の片岡氏が、私のなかでも繋がってきたのである。

近江国伊香郡における式内社と氏族  佐野静代 著 


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大掾氏と大中臣氏に婚姻関係有り! 伊佐氏となった為賢の母は【伊勢大輔の娘】でもある。

2024-05-09 | 九里バラバラ情報
為賢の系が伊佐氏につながっている。
(有間氏も平為賢の子孫という説がある。)

その為賢の父、維幹に注目してみると、
(京の)邸宅が大中臣良岡の隣であり・・・と書かれている。





その大中臣良岡とは、尾張守・越前守・土佐守など歴任している人物である。
良岡の娘を見初め、なんと常陸にまで連れてくる。
娘の母は伊勢大輔である。
(伊勢大輔は高階成順の室という説もあり、私にはよくわからないが…。)

さらに、維幹の子孫には源頼義の室となり、清原成衡の母となった人物がいる。
そして、更に子孫に源義業妻となり、佐竹昌義の母となった人物にも繋がっている。

つまり、大中臣氏・清原氏・佐竹氏とも繋がる。
有間氏が大掾氏の庶流の伊佐氏となると、片岡氏とも近いところにいたことになるのである。片岡春は佐竹昌義の息である義政の娘を室としている。













系図のさらに先を見ていくと、平長幹の母が千葉常胤の娘であると註がある。



千葉常胤の母は、平為賢の兄である為幹の孫の鹿島政幹の娘である。
さらに、千葉常胤の娘が平(真壁六郎)長幹の母であるそうだ。(平直幹妻)








ここで、千葉氏とも繋がることが分かった。
さて、大村・有間氏はどのあたりにいるのだろう。
伊佐氏の中にいるようなのだが、系図の出ていた本には記載はなかった。


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小山氏・野本氏・有間氏と宇都宮中原氏(3)平姓の有間朝澄

2024-05-06 | 九里バラバラ情報
小山政光は藤原秀郷流
下河辺も政光の弟行義であり、秀郷流となる。

野本時員は下河辺政義の実子であったが、野本基員(藤原時長流)の養子となる。
(政義は行義の息)

宇都宮氏も藤原道兼流であり、有間氏以外は藤原氏である。

有間氏は大村氏から出ているとすれば、大村氏の祖は平直澄という事で、平姓となる。

もと稲毛庄内の有間に居し肥前国高来郡深江浦の有間朝澄。
その相伝者となった入道蓮忍と、
皇嘉門院の領であった三崎庄。その地頭であった片岡経春の甥であった片岡経久

どこか線でつながるような気もする。

「有間」となる前の朝澄は平姓で、かつ稲毛庄内の有間に住んでいた‥‥というのがヒントであろうと思う。

下と関係しそうである。伊佐氏(伊作氏)である。

しかも【河辺氏】が登場する…ここで出てくる河辺という苗字!
河辺清兼の「中・河辺」なのだろうか。



【肥前伊佐氏】
肥前国鹿島に土着した鎮西平氏流伊佐氏を肥前伊佐氏と呼ぶ。肥前伊佐氏は、桓武平氏繁盛流大掾氏族である常陸国伊佐郡を本貫とした多気氏の庶家で、伊佐為賢を祖とする。下向前の本貫地は常陸伊佐氏と同地である。


肥前伊佐氏一門においては、肥前国鹿島藤津荘(仁和寺領、現在の佐賀県鹿島市納富分2011 新義真言宗大本山誕生院)の総追補使伊佐平次(平治)兼元の子で藤津荘で生まれたのが後の根来寺覚鑁上人(1096年生)と伝わる。
『歴代鎮西誌』によると、兼元は為賢の孫と伝わる。


この時代、薩摩の土豪と肥前伊佐氏との間で盛んに婚姻、養子や猶子縁組がなされていた。伊佐平次兼元と共に伊作良道も伊佐為賢の子孫の一族であるとする説があり、さらに兼元と良道が同一人物ではないかと言う説や、兼元の武功は、後の時代に為賢の武功(すなわち刀伊の入寇)と混同され伝わった(『今昔物語』等)のではないかと言う説もある。
☆肥前伊佐氏からは他に平経澄(伝肥前有馬氏祖)を輩出。

概要
島津荘を開墾した平季基も同族であり、伊作良道(平良道)の子らは河邊一族と言われ(良道の長男道房が河邊氏を称したため)、各地を支配し権勢を誇った。南北朝時代には南朝方として北朝方の島津氏等と激しく争ったが、後に敗北し臣従した。



伊作・河邊一族
河邊氏
伊作良道(平良道)を祖とする。良道は薩摩国伊作郷(現在の鹿児島県日置郡吹上町)の地に下向、田中城を構え土着し、伊作姓を冠した。河邊は河辺、川辺とも書き、良道の子孫は河邊一族とも呼ばれた。


【伊佐氏(いさし)】


諸説あり、どれが当てはまるかはわからないが、下河辺氏とする説もあるという。

ならば、常陸平姓でありながら、常陸藤原氏でもあったという可能性もあるか…

常陸伊佐氏ならば、常陸藤原氏と桓武平氏からの大掾氏が重なり合う事もありそうである。



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皇嘉門院とその荘園(1ー3)肥前国 と 有間氏 

2024-04-21 | 九里バラバラ情報
有間朝澄、吾妻鑑に登場していた人物であった。びっくり・・・
寛元二年六月二十七日・寛元四年三月十三日

何れも、所領の件である。







ここで分かることはこの朝澄は鎌倉かその周辺に居たのである。
(肥前からやってきたのかもしれないが…)
有間(ありま)という苗字は上野国にも、紀伊国、摂津国にも、あちらこちらに見える。

宇佐宮とも関係があるようなので、その関係で大中臣の(中原)蓮忍入道が養子に入るなり、何かしら相伝の対象となったのかもしれない。蓮忍は短い間であった。
建長六年(1254年)四月四日には蓮仏から「もちすみ」に渡っている。

深江郷は、その後、野本氏や安富氏に狙われ、やがて安富氏が深江氏を称するようになってしまう。(1265年)

上野国の有馬氏であるならば、上野国の片岡氏と懇意であったかもしれないし、婚姻関係もあったかもしれない。

上野国の野本氏(上原氏)を調べてみると、なんと系図の中に河辺氏がいた。
野本知詮の妹が河辺兵衛尉道家の妻となったようだ。(1300年のこと)
野本行員のと関係があるのか、野本知詮の父は家員という。
つながりがあったかもしれない。


吾妻鑑に朝澄の養母・・・という表現があったが、朝澄は養子であったということか。

大掾氏の平為賢の裔か、藤原純友 の裔か…という説もあるようである。

平為賢は刀伊の入寇で活躍し、肥前国を賜ったという。

片岡経春も海賊のようでもあるし、藤原純友も海賊を率いていたとも言われ…。

藤原純友の祖父は藤原遠経であり、祖母は丹墀門成の娘である。
丹墀門成は武蔵国司でもあり、本当に赴任していたそうである。
地方の国をまとめるのが上手い人物であったようだ。

蓮忍入道の個人に関してまとめると、
丹波国河守庄地頭職、因幡国国衙官人・冨城郷地頭職、そして、肥前国高来郡深江郷領主相伝…となるのだろうか?
何れも文書に残されているのが 1239・1247・1249年である。





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皇嘉門院とその荘園(2)三崎庄(海上庄) 藤原定家 

2024-04-20 | 九里バラバラ情報




皇嘉門院から紆余曲折を経て九條良経(妻が一条能保の娘)にわたり、良経から三崎庄所職を頼まれた藤原定家

片岡経春から千葉氏(東胤頼)に渡る間に定家がいた。ここに、中原経久が居たのかもしれないとも思える。
一条能保の家司に中原政経がいて、九條兼実の家司に中原有安がいた。
片岡経春が歿し、大中臣の片岡氏(経任)がはいり、その息に経久がいたのではないだろうか?
そして、定家から東氏に交代になる際も上手く引き継げるよう取り計らっていたのではないかと…それがひいては経久の息か甥か孫の常忍が千葉氏の執事的な仕事につくきっかけとなったのではないだろうか?

其の藤原定家のつい先日の情報。
古今和歌集の注釈書「顕注密勘」の自筆原本が見つかったそうだ。
下記に情報を集めてみた。







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九里領を六角支配より切り離し、将軍家直領として九里家へ永代御預けされ、将軍御直臣となって京邸も賜ることに相成る。

2024-04-19 | 九里バラバラ情報
 九里領を六角支配より切り離し、将軍家直領として九里家へ永代御預けされ、将軍御直臣となって京邸も賜ることに相成る。
近江八幡人物伝 江南良三著



日野川中流域 や、沖島、そして旧 九里領たる湖東沿岸の船木荘等、六角政権期以来の水運の要衝地である。史学雑誌106号 



本日一番気になったのが、皇嘉門院領であった「いなけ本庄」(武蔵国・橘樹郡中原あたりか?)

皇嘉門院譲状…に記載があったのが、武蔵国稲毛下総国三崎能登国若山であり、
何れも、中原・九里氏と関係のありそうな場所であった。

最後の極めつけは、この「稲毛庄」と「肥前国高来深江」が交換になる事であった。
では、深江蓮忍は、九里太郎の蓮忍入道のことだったのではないだろうか?
しかも、同じく高来の東郷の野本行員は、肥前には赴いていなかったようだ。



東郷は地頭行員とあり、野本越中行員と思われる。

皇嘉門院領は九條家に渡った領もある。
もしかすると、九條家に渡った後のことであったかもしれないが、中原のある稲毛庄に、片岡経春のいた三崎庄、そして久能利が日野氏被官となって働いていた若山庄。
この符号は見落とせない!と思った。

皇嘉門院とは?という処から学んでいかないといけないが、この角度から調べてみると、何か新しい私的発見があるかもしれない。




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鹿嶋宮 大中臣流片岡氏(4)鹿嶋宮の担当の三氏 中臣・大中臣・片岡  大中臣親継 

2024-04-13 | 片岡氏


                 
『鹿島神宮は宮司・禰宜・祝・物忌各一名の定員で、六年毎に、朝廷より補任された』







鎌子(中臣鎌足)と父の長子御食子とともに神官で鹿島宮司 とある。

中臣・大中臣・片岡の三氏が宮司となっていたそうだ。

ここにも、義経の家臣となっていた片岡のことや、親鸞の弟子となった片岡氏に触れられている。

片岡八郎とは経春のことと思われる。
父が八郎であったため太郎ではなく八郎を称していたと、何かの本に書かれていたと思う。
下記は日本城郭全集




神社関係の方々の中では、片岡経春も宮司家の片岡氏という認識なのだ。

ここまで、片岡氏を調べてきて、経久(1175年生まれ)も見つけて、だが、此処で暗雲が垂れ込めている。

*****

暗雲…真実に近づいているのなら、それもやむなし。
私なりに可能性を探りつつの実況中継のブログなので、どのような「えっ、まさか?」も飲み込み、考え直さなくては…と思う。
その過程を書き続けることで、間違いの箇所も見つかるだろうと思う。
そのためのブログ!と思っている。

*****

次回に書こうと思うが、中原経久の息である中原経重が伊勢守になっていたのを見つけたのだ。
これが、とんでもない波乱となりそうで、

まぁ、一から考え直そう!と、やっと思い始めることができた。





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鹿嶋宮 大中臣流片岡氏(3)片岡信親と信広  近江国蒲生郡日野出身の日野左衛門尉頼秋

2024-04-10 | 片岡氏


兄信親が朝廷の命によって鹿島神宮の大宮司となったため、弟の親綱が片岡の家名を継いだ。

この【朝廷の命】という部分がひっかかります。

だいたい順信は信親と信広のどちらの法号なのだろうか。
本によっては見解が分かれており、前回のblogに挙げた系図の書き方から見ると信親が親鸞の弟子となったように見える。しかし、順信の名は見えないという事になっているのだ。

【片岡信親=順信房】





【順信の父=片岡信親】


【片岡信親の息ふたり=順信房と乗然房】



【順信=信広=信親の息】



以上が順信は誰か?と言う事で調べたが、様々な意見があるという事であった。

乗然房(親綱)は信親の弟であったのか、息であったのか?も調べるうちに、分からなくなった。

*****

次に、常陸国枕石寺を創った「日野左衛門頼秋」
この人は近江国の蒲生郡の出身だそうだ。

近江国蒲生郡日野出身の日野左衛門尉頼秋は、北面武士であった。
驕慢な振る舞いが多く常陸国に配流となった。
のち1207年(承元元年)には赦免されたが京には戻らず、そのまま久慈郡大門に居ついた。常陸国に土着した頼秋は、盗賊をしていたともいわれる。

…と問題のある日野頼秋だったのだが、親鸞も日野氏なので、もともとお互いに名前だけでも知っていたかもしれない。
頼秋は道円となる。

*****

一番上に貼った情報に「片岡経春も鹿島の人にて神主の族人」とあったことや、片岡親綱が上野国にいたこと等を合わせると、上野国の片岡氏と鹿島宮の片岡氏は同じ一族であろうと思われる。

朝廷のを調べなくては!と思う。


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