九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原友景 (2)

2023-05-05 | 中原氏バラバラ情報

一昨日の記事に書き忘れたことがあった。

中原光氏は将軍頼経の仰せで、狛氏の猶子となっていた。(1233年 天福元年)

その兄弟となる『中原友景』が本日の主人公。

働き者・有能であったようで活躍も幅広く、117件もデータベースに挙がってくる。

一つ一つ、見ていこう。

建久九年(1198年)内記

寛喜元年(1229年)左兵 

寛喜三年(1231年)1月~7月 強盗を捕まえたことによる賞を賜った。

  

防鴨河判官・左衛門少尉

天福元年(1233年)には検非違使になっている。

  

暦仁元年 天武天皇陵の盗掘をした者を逮捕する。

建長二年(1250年)前石見守中原友景‥‥石見守に補任された際の文書はないのだろうか?

建長二年には東京大学DBでは14の文書が出ている。神護寺文書が多い。2/20~2/29に集中している。

相論があったための、解決策を探しているのかもしれない。

 

石見守は1193年から1200年は佐々木定綱が務めていた。

空白の間、仮に石見守になっていたのであろうか? 中原友景。

 

*****

 

神護寺

http://www.jingoji.or.jp/enkaku7.html

 

googlebooks内の宗像大社文書では、

石見前司友景朝臣『葉黄記』寛元四年(一二四六)正月廿九日条に「御厩案主、後院之時、前石見守友景也」とあ

『明月記』(1235年迄)にも中原友景として散見(今川文雄氏『明月記人名索引』一三四頁、初音書房、昭和四十七年三月)。

とある。

*****

寛元四年(1246年)太政大臣実氏の使者として、関東に下向す。(2回あり)

宝治二年(1248年)

建長六年(1254年)河内国高連御牧関連文書 六波羅御教書案  佐治氏とのやり取りも含まれている。

 

1198-1254年 その他にもあるかもしれないが、今回調べた範囲ではこの辺りが活動期であったと思う。

56年間働いていた中原友景!

無事に息の範景にバトンタッチできたようである。

 

 

 

 

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中原景安(景康)ー 友景 ー 宗景 ー 景氏 ー 孝景

2023-04-30 | 中原氏バラバラ情報

先日、佐治重家と中原友景(西園寺家の後見と言われていた)のことを調べていて、友景を中原景安の息と位置付けたが、近江国御家人井口中原系図の中では、

 

景康ー友景…とあり兄(弟)にあたる光氏が見えない。

また、鎌倉幕府に仕えた楽士の系図を見ると、景安ー光氏とあり、(兄)弟にあたる友景が見えない

 

中原有安の養子となった景安は、東国に光氏の系を残し、

有安の養子となる以前なのか?景康の次男友景からつづく系は、近江国の中で続いていたと思われる。

特に中原友景は、院の下北面の武士、又、西園寺家の武家との申次の役を担うものとして重要な立場にいた。

 

が、あくまでも景安=景康という、想像である。

 

景安・と景康が『別人』であった可能性もあると思う。

が、友景、下記の系図からもわかるように石見守となっている。

その部分が、私には清原氏と中原氏の接点でもある有安が関係している証拠と見ているのだが、どうであろうか。

*****

さて、後嵯峨院の許で北面武士となっていた友景は、1217年修明門院の下北面を皮切りに、検非違使、案主、等を務め、後嵯峨院にも仕えていたようである。

小中次なので、次男と思う。 景康の註には藤堂中太とある。

 

 

最後の孝景、高山公実録 藤堂高虎伝に

「能登守仕足利義輝弘治二年叙從五位下藤堂孫二郎中原朝臣高景父八從五位下藤堂因幡守中原景保属佐々木京極家賜高字怎子孫為 ...

三井出羽守二男「高虎にあらす又系図によるに景氏の子二人あり兄を孝景といひ弟を政景といふ高信君は政景の統にして孝景 ...」

三井高信。

 

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波多野宣時・佐治重家・佐分親清 情報収集

2023-04-27 | 佐伯・波多野氏

波多野出雲五郎左衛門宣時

以下は、googlebooksで集めた情報である。

祇園社の南、五条橋に通ずる道路に面して北六波羅探題が存在し、付近に波多野宣時の館があった。出雲五郎左衛門尉

 

波多野五郎秀賴

 

佐治重家・宣時・佐分親清等は、出自や辿ってきた道はそれ異なるが、建長頃には大きく見れば似通った立場に属する人々である 。

彼は「波多野出雲氏」とも呼称される波多野氏で、普通は「宣時」と表記される、波多野五郎左衛門尉宣時のことである。

 

出雲五郎左衛門入道名は宣時、波多野義重の子で、のち、出家して道覚と号した。義重の子宣茂(重)、孫宣通は、ともに六波羅評定衆として在京している。波多野氏の本貫は相模国大住郡南波多野荘。京都に在住した武士で、浄阿弥陀佛の有力な樓越。

 

義重は当時の六波羅探題、即重時の被官であったことが解るのだが、のみならず重時の女を妻にしており、その間に宣時と弟時光が生まれる。更に佐治重家と同じように、六波羅探題への訴訟取次ぎ等の役等に ...

 

*****

佐治重家・波多野宣時・佐分親清

この佐分親清という名、聞いたことがある。

「高島郡と若狭・越前の関係は深く、平安末期には本佐々木氏の船木時家が高島郡船木から若狭に進出して佐分氏を名乗り、若狭国御家人となっている(のち佐分氏には桓武平氏高棟流の加賀守親清が養子に入り、六波羅探題北条重時の若狭守護代になっている)。また高島七頭のうち田中氏と山崎氏は越前に進出している。」朽木氏の系譜 より (佐々木哲学校)


http://blog.sasakitoru.com/201011/article_1.html

 

佐治重家:重時の側近としての活動は1233年から見られる。重時の守護国である和泉国の守護代を務め、重時の子長時時茂が六波羅探題に在任していた時期には奉行人として彼らの業務を支えた。

建長3年(1251年)には閑院内裏の作所奉行人を担当。朝廷との交渉でも手腕を振るった。

 

波多野宣時六波羅探題の評定衆

 

佐分親清加賀守(本佐々木の船木氏に養子として入る)若狭守護代

 

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北条重時の娘 波多野義重の妻となり、波多野宣時(出雲五郎左衛門)・時光の母となる。

2023-04-26 | 佐伯・波多野氏

googlebooksで、波多野宣時に関する情報を集めてみた。

調べようと思ったきっかけは「六波羅探題の研究」森幸夫著作の註に『佐治重家と  波多野信(宣)時は幕府が造営した閑院内裏の作所奉行人である。』とあったためである。

 

波多野宣時は波多野義重(1258年歿)の息であり、忠綱(経)の孫に当たり、波多野義通の曾孫である。

 

九里氏に当てはめると、

中原久経の母が義通(1107年生-1167年歿)の妹か義妹とすると、久経(1145年以降生ー)と忠綱が従兄弟、義重(1258年歿)と経任が同世代、九里の祖の経久と宣時が同世代となりそうである。

 

・・・とすると、相対的な関係からすると、1175年生まれの片岡経久は年代的に見て九里太郎経久ではないことになる。

もしかすると富木常忍の母(1185年に90歳)の弟あたりの年代か、同母の息子で常忍の兄か‥‥が妥当となってくる。

 

*****

 

波多野上野前司宣通とはどなたのことなのだろうか? ↓

web情報によると、

http://www2s.biglobe.ne.jp/tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/ha.html#nobumiti

相模国・波多野(秦野)を拠点とした波多野一族の武士。左近将監となった波多野宣茂の子で、六波羅探題の評定衆をつとめていた。

元徳3年(元弘元、1331)8月末に後醍醐天皇が宮中を脱出して倒幕の兵を挙げると、六波羅探題は当初後醍醐が向かったとされた比叡山延暦寺を攻撃、このとき東坂本(琵琶湖西岸)に出陣した武将の中に「波多野上野前司宣通」の名がある(「太平記」「光明寺残篇」)。『太平記』によればこの戦闘で波多野の郎党十三騎が戦死している。

笠置山が陥落して後醍醐一派が捕えられると、三条公明洞院実世の身柄を佐々木時信と共に一時預かっている。

 

波多野義重ー宣時―宣茂ー宣通 という系図になるようである。

 

この元弘元年と思うのだが、唐崎合戦で九里彦八郎が討死している。

佐々木時信・目賀田氏・伊庭氏らと共に九里も参加していたと思われる。

「太平記」師賢登山の事付唐崎浜合戦の事

https://santalab.exblog.jp/20768914/

花山院師賢

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B1%B1%E9%99%A2%E5%B8%AB%E8%B3%A2

 

 

 

 

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佐治左衛門尉重家 河内国高連御牧関連文書(書陵部)と 中原友景 周辺

2023-04-25 | 小堀氏

佐治重家は探題北条重時の被官である(佐藤進一氏『増訂鎌倉幕府守護制度の研究」東京大学出版会

 

河内国高連御牧関連文書 (宮内庁の資料紹介)

https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/000/kiyo061a082.pdf

 

佐治重家…北条重時、長時の使者として公武間の連絡担当、幕府側の窓口とある。

中原友景…朝廷側の窓口、西園寺実氏の後見と目される人物。

 

高連御牧…今出河尼御前(西園寺公相の娘)の本所

 

今出河尼御前…亀山上皇の中宮・今出河院西園寺嬉子(西園寺公相の娘)

       嬉子の母は中原師朝の娘八十前

八十前の生母は琵琶西流の藤原孝道の娘・讃岐局

 

【亀山の母今出河院を猶子とした大宮院西園寺姑子(西園寺実氏の娘)】

 

中原友景の周辺の情報

 ↓

母は中原友景女‥‥中原師益(=師孝)

中原師益(母・中原友景女) 佐渡守(=師孝)
中原師孝(=師益) 弟・僧安楽(法然弟子)=遵西 … = 中原師秀の息

中原師秀 ↓ 

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%B8%AB%E7%A7%80

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%B8%AB%E7%A7%80%E8%AA%AC%E8%8D%89

中原師朝(妻・尾張守藤原孝道女-七条院女房讃岐局) 

     女・西園寺公相妻、室町実藤妻、今出川院嬉子(亀山院中宮、西園寺公相養女)

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前石見守中原友景 と 佐治左衛門尉(重家)殿 

2023-04-24 | 小堀氏

だんだんと、九里氏に近づいている佐治氏。

中原友景が佐治重家に進上している書状が残っている。

中原友景といえば、コトバンクによると ↓

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E6%99%AF-1136289

鎌倉時代中期の官人。建保5(1217)年に修明門院下北面(院に仕える侍),嘉禄2(1226)年に使宣旨を受け,その後10年ほどにわたって検非違使として活動の所見がある。西園寺実氏の後見といわれており,武家との申次 をつとめるなど,同家において重要な立場にあったらしい。後嵯峨院の下でも,下北面の所司・御厩案主に任じられている。西園寺家の興隆を下から支えた人物のひとりといえよう。

(本郷恵子)

 

西園寺実氏の母は、一条能保の娘全子であり、一条家には中原政経が家司として仕えていたことがわかっている。

更に友景は前石見守として登場しているので、それは清原出身の有安の系が混じっていると思われる。

 

中原有安(有康)・中原景安(景康)…と云う事は、景安の兄弟あたりの年代かも知れない。

 

九里氏の祖となる中原氏石見国関係の久利氏の祖となる清原氏の接点となる人物、それが中原有安とその息たちなのではないだろうか。

 

そう思えば、石見国の清原系の中原友景(鎌倉と京を行き来)が近江へやってきて九里氏と名乗っても、おかしなことでもない。

 

その中原友景が、佐治重家に書状を出している。

この中原友景は、一通の書状では中原友重ともなっており、同一人物のようである。(息かもしれないとも思うが、北条重時から一字を賜わってのことかもしれない。)

 

 

さて、佐治重家とは、どのような人物だったのだろうか?

調べてみると因幡国の佐治重貞の息子であった! 

北条重時の側近である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E6%B2%BB%E9%87%8D%E5%AE%B6

 

https://kotobank.jp/word/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%87%8D%E6%99%82-132148

 

中原友景は大中臣姓も名乗っていたことがあったはず?(memo)

光氏と兄弟だった・・・と自分のブログ内検索で調べると出ていた。(笑)忘れていた。

二人友景がいた…とその時は判断したが、今は違うような気もしている。

 

 

 

 

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佐治一成 の 周辺  岡田氏 

2023-04-23 | 小堀氏

 

知多郡の大野城岡田村は徒歩圏である。

 

この岡田村にいたのが大和宇陀松山藩と柏原藩にいた岡田氏のいた場所となりそうである。

つまり、佐治氏の隣に岡田氏がいたことになる。

岡田氏となる以前には山田氏で、尾張国山田郡菱野村(瀬戸)という場所にいた。それが以下の場所となる。

web 情報によると、

http://www.oshiro-tabi-nikki.com/hisino.htm

菱野城は、平安時代末期に山田重定によって築かれた。文治年間に至り同族山田重忠は、山田庄の長となり、重忠の曾孫山田泰親は上菱野、その弟山田親氏は下菱野の地頭職に任じられた。

 

上段 ↑ 泰親 山田三郎 ・下段に重政(岡田村に移ってきた人物)

 

 

 

 

重頼が岡田與九郎(与九郎)であり、織田信秀に仕えていたという。つまり佐治信方と同時代を生きた人物である。

息の重能もまた織田信秀・信長・信雄に仕えたという事から、佐治一成と同時代となろうと思う。

しかも、この重能(重善・直教)から尾張の星崎城に居城していた。天正十一年3月26日歿)

 

尾張群書系図と柏原織田家臣系譜では系図が違うので、何が本当かはよくわからないが、

上記に貼った尾張群書系図では重能(重善)の息直孝が天正十二年3月3日に誅されている。

柏原の系図では、重善が直重孝)と同一人物となっている。しかも、重頼を入れて6代目に信長に生害された重善と記載されている。

尾張系図の方は重頼の孫に信長に生害された直孝、となっている。

 

どちらも間違いかもしれないし、ココでは佐治氏のことなので、これ以上は踏み込まない。

今回は、いかに岡田氏近いところに佐治氏がいたのかがわかったことが収穫であった。

   
   

 

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尾張国 佐治氏 情報収集 信長の妹於犬殿の息 佐治一成

2023-04-22 | 小堀氏

尾張国の佐治氏。

知多郡にある大野城の佐治氏のことになろうと思うが、尾張氏が祖という説もある佐治氏なので、それ以前にも尾張国にいたことがあったのかもしれない。

 

姓氏・姓氏研究の決定版 丹羽基二 著

『子孫に熱田神宮社家氏人の一族がある。

広畠、橿園、望月、篁岡、... 主なものは、荒木田姓(伊勢内宮祠官)、藤原南家真作流(美濃)、清和源氏斯波氏族(美濃)、織田氏族(美濃)、桓武平氏佐治流(尾張)、清和源氏多田氏族(摂津)、三善族(石見)など。』とある。

 

知多郡は『熱田神宮領』の多いところとのことが関係するのかもしれない。

 

さて、佐治一成の周辺を調べていこうと思う。

この佐治氏は柏原藩の『柏原織田家臣系譜』の中に名が挙がっていた。

また、尾張群書系図部集には佐治氏がかなり載っていた。

https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%B0%BE%E5%BC%B5%E7%BE%A4%E6%9B%B8%E7%B3%BB%E5%9B%B3%E9%83%A8%E9%9B%86/nWc3pUoc9XsC?hl=ja&gbpv=1&dq=%E4%BD%90%E6%B2%BB%E3%80%80%E7%B3%BB%E5%9B%B3&pg=PP466&printsec=frontcover

 

下は、徳川諸家系譜より

尾張国大野城主佐治為景の嫡男が佐治信方で妻が信長の妹お犬の方大野殿または大野姫である。

信方21歳で討死している。

お犬の方は二人(佐治一成・中川秀休)を産み、信方没した後に実家にいったん戻る。

信方没して三年後に山城槙島城主細川昭元に再嫁。

 

信方の息であった佐治一成の妻は浅井長政の娘お江で、後に離縁し、

織田信長の娘於振(お鍋の方の娘)が嫁いでくる。

この於振は、初婚は水野忠胤で三人の子どもがいた。(水野勝信と南條宣政室・丹羽氏信室)その後佐治一成に再嫁し、為成を産んだか、または、養子として取ったかである。

(為成が、秀休の息となっている系図があったので。)

 

この、佐治一成は織田信雄の家臣であったという。

そして、その後 岡田重考 に加担して、信雄に追われたそうである。

しかし、佐治一成は、織田信包(のぶかね)の家臣として初代藩主の信包について丹波柏原藩に入っているはずである。

(その頃、我が系の九里(岡田)氏は、まだ大和宇陀松山藩にいた。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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甲賀国 佐治氏・小佐治氏 情報収集

2023-04-21 | 小堀氏

 

知多市史 本文編 によると、

佐治氏は南北朝のころは丹波国に住し、のち近江国甲賀郡佐治郷に移って佐治を称するようになった。

甲賀郡の飯道山の岩本寺に居たこともあり、飯道山の修験道から身を立てたものともいわれる。

 

(飯道山の岩本寺…九里が鎌倉時代後期~紀伊熊野に移る前までいた場所でもある。)

 

佐倉市史

康平五年近江国甲賀郡小佐治郷に補任し佐治殿と称されたと伝う(佐治氏由緒書)。以来、江州甲賀郡の古士三十一人衆の中に列した。

 

佐治氏の本質は近江国甲賀郡佐治之郷

佐治城は、甲賀衆の佐治氏の城とされる。

康平5年(1063)に平業国伊豆から移り佐治城を築いて佐治氏を名乗ったという。

 

尾張國諸家系図によると、

國香流一北條氏族佐治氏系図(一)系図七十一佐治氏発祥;近江国甲賀佐治庄発祥八郎与九郎信吉爲興佐治駿河守上野介宗貞爲貞家紋丸木骨開扇子長兵衛-爲忠-女嫁水野藤次郎——藤十郎示相國寺-陳西堂善応院住職-女二人姉嫁大沼三郎九郎妹同寺本城主花井勘八-女 ...
264 ページ
佐治氏系図尾州知多郡大野村(現常滑市大野町)宮山城主。『尾州諸家系図集』所収近江国甲賀佐治庄発祥は桓武平氏国香流北条氏族。佐治宗貞駿河守。大野村宮山城主。「享禄三年九月七日卒、法名前駿州大守斎年寿山大居士。」佐治爲貞杉王丸。
 
花井勘八(土岐氏守護代)とweb情報にはある。
花井氏は紀伊の九里氏系図の中にその名が一名だが挙がっている。
 
 
皆どこかでつながっているような…同じ佐治氏が別れて住んでいただけなのだろうか?
 
前回の『出羽中条家』
 
八田知家の養子となり、藤原北家道兼流と称していた。出羽守であったので其の出羽中条家と思うのだが、
1318年に佐治氏の佐治郷が川を挟んで北と南に分割されたのだろうか?
曳田という名前になった方の佐治氏だろうか?
 
曳田は、斉藤・(清原)・大江氏と関係の深い疋田氏にも通じているような気がしているが、まだシッポを捕まえていない。浄円あたりか?
 
 
 
 
この他に、近江国では蒲生から佐治となる。(近江蒲生郡志)説もある。
儀峨氏と同じ祖 蒲生俊光を持ち・馬渡氏とつながった。
 
一方、平業国の子孫とある。
 
此の平業国とは、近江名跡案内の本によると、平維時の息であるそうだ。
なるほど、北条時政の高祖父が維時なのだそうで、しかも維時の息は直方で、直方の娘は源頼義の室となっているので、佐治氏の立ち位置と近いのではないだろうか。
 
 
 
佐治一族は武門である平氏の平業国が佐治荘を領したのが始まりの名門である。分家が尾張国知多半島の大野に移住し大野佐治と呼ばれるようになるが、諸国への売薬や東三河の設楽との間を往来する大原一族とは水運でも縁が深かった。(家康と甲賀忍者 大原一族 太伴原甲賀著) ↓ (小説)
 
 
 
佐治氏も鈴鹿山警固で入った‥‥という説もあり、山中氏・深尾氏ともつながってくる。
深尾氏の一族の浅小井氏もまた、北条とつながる処を見ても、似ている。
 
 
 
右の白抜きが小佐治周辺。
左 貴生川の小学校付近に飯道寺がある。
 
鎌倉時代後期から 九里氏もそこにいたことがある。(系図にはたしか飯童寺…と書かれていた。)
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因幡国 佐治氏 情報収集

2023-04-20 | 小堀氏

因幡国の佐治氏に関して調べてみた。

 

長田氏は高草郡高庭庄の開発領主として発展した。高庭庄は奈良時代に発生。たかばながた遺文』)」に、「因幡国御家人佐治四郎重貞申、佐治郷司地頭等職事」(系図研究の基礎知識 第二巻 近藤安太郎著)とあるそうで、長田氏の文書の中に此の佐治氏が登場している。

また、「建暦三年(一二一三)の「関東御教書案」 (『鎌倉遺文』)に「因幡国御家人佐治四郎重貞申、佐治郷司地頭職事」(歴史と文化を探る日本地名ルーツ辞典)

 

因幡国佐治谷の開発領主佐治氏の所領支配についての研究もある(仲村研「中世地域史の研究」高科書店)

 

鳥取県史第2巻第一章にも、佐治氏に言及されており、佐治重貞の父は道貞、重貞の兄は安貞であり、この兄は『曳田大夫康貞』であるそうだ。

 

曳田氏が、疋田氏と同じであるならば、斉藤氏・大江氏と関係があると思ったのだが、、、、

実は因幡国八頭郡の八上村の曳田郷からきた名字だそうだ。

 

上記から『長田氏』とつながりがあったとすれば、九里の祖、近江国の中原氏から九里氏となった者たちとも近いところにいたにちがいない!

しかも御家人とある。さらに本姓は尾張氏という。

 

1213年(建暦三年)弁官補任裏文書にある内容は、wikipediaにもあるように

「佐治郷を継承した弟・佐治重貞は当時幼少であったため、康貞が長らく佐治郷司職の代行をしていたが、弟の成人後も所職を返還せず、実子・重久に譲渡してしまったために鎌倉幕府に訴えられた。建暦3年(1213年)11月、争っていた重貞が和田合戦で功を為したのが後押しとなり、訴訟に敗れ所職を返還した。」

 

重貞と兄安貞の父とは佐治道貞のことである。

道貞は「本姓を尾張氏といい、八上郡司の尾張氏の一族であり、佐治郷司を務めていた。」とある。

 

 佐治郷周辺  同地図に冨城郷(地頭冨城中太蓮忍)・岡益の碑・若桜城付近(矢部暉種あきたねの城周辺)も載っている。

出羽中条家文書に何故因幡国の地頭職の文書があるのか。

 

なぜ出羽中条家文書に『因幡佐治郷北方地頭職和与状案』とあるのだろうか?

謎である。

 

 
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

 

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