一昨日の記事に書き忘れたことがあった。
中原光氏は将軍頼経の仰せで、狛氏の猶子となっていた。(1233年 天福元年)
その兄弟となる『中原友景』が本日の主人公。
働き者・有能であったようで活躍も幅広く、117件もデータベースに挙がってくる。
一つ一つ、見ていこう。
建久九年(1198年)内記
寛喜元年(1229年)左兵
寛喜三年(1231年)1月~7月 強盗を捕まえたことによる賞を賜った。
防鴨河判官・左衛門少尉
天福元年(1233年)には検非違使になっている。
暦仁元年 天武天皇陵の盗掘をした者を逮捕する。
建長二年(1250年)前石見守中原友景‥‥石見守に補任された際の文書はないのだろうか?
建長二年には東京大学DBでは14の文書が出ている。神護寺文書が多い。2/20~2/29に集中している。
相論があったための、解決策を探しているのかもしれない。
石見守は1193年から1200年は佐々木定綱が務めていた。
空白の間、仮に石見守になっていたのであろうか? 中原友景。
*****
神護寺
http://www.jingoji.or.jp/enkaku7.html
googlebooks内の宗像大社文書では、
石見前司友景朝臣『葉黄記』寛元四年(一二四六)正月廿九日条に「御厩案主、後院之時、前石見守友景也」とあ
『明月記』(1235年迄)にも中原友景として散見(今川文雄氏『明月記人名索引』一三四頁、初音書房、昭和四十七年三月)。
とある。
*****
寛元四年(1246年)太政大臣実氏の使者として、関東に下向す。(2回あり)
宝治二年(1248年)
建長六年(1254年)河内国高連御牧関連文書 六波羅御教書案 佐治氏とのやり取りも含まれている。
1198-1254年 その他にもあるかもしれないが、今回調べた範囲ではこの辺りが活動期であったと思う。
56年間働いていた中原友景!
無事に息の範景にバトンタッチできたようである。