九里 【九里】を探して三千里

姉妹編【九里一族】に出会う旅に出かけよう!http://blog.goo.ne.jp/kunorikunori2
  

中原氏を再考してみる。頼季が二人か?

2019-03-01 | 中原氏バラバラ情報


この系図の中に二人の頼季がいる。
もしかすると養子などでの同一人物かとも思えるが、どうなっているのだろう。

貞清ー頼成ー頼季ー康頼ー頼基ー清基
           |
           -仲康(頼基の弟)

中原頼成=従四位下中原貞清の男。母、従五位下林重親の女。

貞清は1027・1031年などの文書に「主税頭中原貞清」のその名がみえる。
ところが、1149年にも「主税属中原貞清」として見えるのである。

同じ名前・同じ役職が二名いるらしい。これが混同されているようである。

康頼が1146年生まれで、1177年に鹿ヶ谷事件で配流されることを考えるに、
頼季は1120年と仮定。
頼成は1095年と仮定。
貞清は1075年生まれ位となるはずである。

中原広能の息頼季は
大江広元が1148年うまれであるため、広能が年がぐんと離れていた義兄として1128年年に生まれたとして、頼季は1150年生まれとなる。(広能は義理の弟かも知れないが、それでも同じ結果になる。)
さらに康頼は1170年以降の生まれとなり、鹿ヶ谷事件は無理であろうと思われる。
(いい加減な計算かも知れないが。)

つまり、私の考えでは1075年あたりに生まれた中原貞清が康頼につながってくる系となる。

貞清の系が平康頼につながり、
貞親の系が広忠ー親盛(忠順)…広元や親光、また厳島神宮の親実につながっていく系である。



話を因幡国に戻すと、この親実の息に親氏がいたのではないか…という事なのだが中原氏系図には見ることができず、はやり厳島神宮と関係のない藤原親実とその息親氏が因幡守だったのだと思う。

そこで以前広橋氏と関係のある親実が中原氏ではないかと思っていた節があったかもしれないが、どうも間違っていたようだ。

正しくは、広橋経光の妻は(父:大宰大弐 藤原親実)である。

で、中原範兼の使用していた紙が、広橋家の物であったわけだが、それも「中原親実」が関係していたわけではなく、範兼が広橋家や藤原親実家の家司であり、身近にその紙があったためと思う。




今気になっている二人↓

中原基政 中原基兼



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富木蓮忍入道、1221年以降に因幡国に赴任したと仮定する。(2)

2019-03-01 | 九里バラバラ情報

一人目の因幡守の候補が「藤原親実の息親氏」であった。

そして1240年に因幡守が変わる。
仁治元年閏一〇月二八日には橘業朝が因幡守に補任された。
同二年正月八日に知行国主としてみえる堀川具実のもとでの国守であろう。

業朝は貞永元年閏九月に二二社奉幣使が派遣された際には日吉社に派遣されている。
(下記のアドレスの記事よりです。参考にしています。)
~~~*~~~

九里の祖である蓮忍、九里氏の祖の一代前の経任が中原氏から橘氏に改めていた。
その橘氏と関係があるのかもしれない。

http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1019.html


上記の記事にあるように、橘業朝とさらにその上に因幡国主堀川具実がいるようである。
『堀川具実』の父は堀川通具であり、祖父は源通親である。
通親の猶子には証空(1177-1247)、そして大江親広(?-1242)- 大江広元嫡男がいる。

橘業朝について行った九里蓮忍入道だったのかもしれないし、藤原親氏のころから因幡国にいて、在庁官人としてそのまま橘氏に変わっても事務方としてそこにとどまっていたのかもしれない。

この系の橘氏は大江氏の養子となったりと、つながりがある。
橘親長ー業長ー業朝ー…


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中原氏と藤原氏のつながり

2019-03-01 | 中原氏バラバラ情報




中原頼成(淡路守)の娘と藤原保房(長門守)(父:藤原隆佐・祖父藤原宣孝で紫式部の夫)
この系図で分かるように、やはり頼成ー頼季―康頼である。

~~~*~~~

鹿ヶ谷の事件の後島に流されていた平(中原)康頼だったが、
「雙林寺(京都 東山)には康頼の伯母が尼となっていた」ため、そこに寄寓する。

★かつて尾張に目代として赴任した際に、尾張野間庄(愛知県知多郡美浜町)にある草ぼうぼうになっていた源義朝の墓を整備したことに感じた源頼朝によって阿波国麻殖保(おえほ)の保司(ほじ)に補任される。(『吾妻鏡』文治二年(1186)閏七月二十二日条)

★康頼の嫡男・平清基は承元年中に保司職を継承した。

★清基は、叔父の『中原仲康』が、和田朝盛と朋友であったから対面したが、…

この3つをまとめて、私は中原頼季の弟であろうと勝手に想像したのだが、この清基の叔父の意味は、もしくは母親も中原姓であったのかもしれない。

~~~*~~~

頼季には、源頼季もいて、頼信の息であり、信濃源氏・井上氏の祖となっている。
さらに、前々の記事で平忠常との戦いになりそうな今昔物語をご紹介したが、まさにその場面が以下のようなことになっているのである。

源頼季は、当初近江国に本拠を置いていた。しかし、長元元年(1028年)、下総国で平忠常の乱が勃発。

父・頼信は、乱を平定して東国に勢力を張った。
その功績を以って兄・頼清と共に頼季も信濃国に所領を得て、
嫡男・満実と共に長久年間に高井郡井上に移住し、
地名をもって名字とし井上頼季と名乗り井上氏の祖となった。

~~~*~~~

なんか、混乱しています。。。

中原氏だから、平氏も源氏もいるのです。





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富木蓮忍入道、1221年以降に因幡国に赴任したと仮定する。

2019-03-01 | 九里バラバラ情報

富木蓮忍が因幡国 国衙 目代の事務方(在庁官人)として1221年以降に赴任したとする。
そこで、一体どなたの下で働いていたのか、ここが知りたいのである。

以前の佐々木哲氏のメルマガより 関係部分を書き出すと、

国衙(国役所)で常勤していた在庁官人であったと推定できる。彼らは国司が派遣した目代の指導の下で事務を勤めていたが、必ずしも一方的に国司に従っていただけではなく、ときには反抗することもあった。江州中原氏は在庁官人であり、諸国の中原氏の中にも十市首流中原氏ではなく江州中原氏がいた可能性がある。

因幡の守源通具(権中納言通親卿給)1186年(吾妻鑑)

~~~*~~~

ここでweb上にある、因幡国史に関する記事に助けてもらおう。
http://www.megaegg.ne.jp/~koewokiku/burogu1/1019.html

この中にいる「藤原親実」とその息「親氏」が、まず関係がありそう。
この藤原親実=中原親実=大江親実は大江氏中原氏の系図にも出てくる。
さらに秀郷流の大友の系図「魚名流藤成子孫(秀郷流)」にも能成の息として、また中原親能の為子と書かれている。

藤原氏系図では魚名流魚名流末茂子孫の中に「藤原親実[ 仁安3(1168)年 ~ 建保3(1215)年8月 ]成親男。母源忠房女二条院女房。
元久2年正月5日(ユリウス暦:1205年1月26日)叙従三位。正三位・非参議。」とある。息に確かに親氏がいる。

大江氏系図では、忠順の息であり、周防守である。親実の息に親氏はいない。
中原氏系図も同様である。

やはり二人いたのだろうか。
一人は魚名末茂流の親実。息は親氏 中将。正四位下。1231年(寛喜三年)因幡国主となる。
もう一人は大江・中原・大友の親実。(広橋氏にも近い関係)

親氏のことを考えるに因幡国知行国主は魚名末茂流となると思われるが、
富木蓮忍との関係性で見るに、大江中原の親実となる。

悩ましい。。。

しかし、末茂流藤原親実の父は成親で鹿ヶ谷の事件のために「備後国」に配流されており、何らかの影響があって、その後大江・中原氏の中に入ってきたのかもしれない??

もしかすると同じ鹿ヶ谷の事件の関係者ということで、だろうか?

事件の概要はどのようだったのか、wikipediaからコピーしてみよう。


出撃直前の6月1日、清盛の西八条邸を多田行綱が訪れて平氏打倒の謀議を密告した(『平家物語』、ただし『愚管抄』は清盛が福原を立つ前に行綱と会見していたという)。

『愚管抄』によれば、後白河が静賢の鹿ケ谷山荘に御幸した際、藤原成親・西光・俊寛が集まり平氏打倒の計画が話し合われ、行綱が呼ばれて旗揚げの白旗用として宇治布30反が与えられたという(ただし、慈円はこの事件に関する記述については「一定の説は知らねども」と真相を確認した訳ではないとも記している)。

また『平家物語』によれば、成親が立ち上がって瓶子(へいじ)が倒れ、後白河が「あれはいかに」と問うと成親が「平氏(瓶子)たはれ候ぬ」と答え、俊寛がそれをどうするか尋ねると西光が「頸をとるにしかず」と瓶子の首を折り割ったという。なお、この会合を比叡山攻撃の方針を確認した会合に過ぎなかったとする見解もある。

多田行綱は明雲捕縛に失敗したという行きがかりがあり、会合の目的が延暦寺攻撃・平氏打倒のいずれにしても何らかの軍事行動に加わる立場にあったと推定される。

清盛は直ちに西光を呼び出して拷問にかけ、全てを自供させると首を刎ねた。
同じく呼び出された成親も拘束された。成親の妹を妻にしていた重盛は、命だけは助かるようにすると成親を励ましたという(『愚管抄』)。

西坂本まで下っていた山門の大衆はこの動きを知ると、清盛に使者を送り敵を討ったことへの感謝を述べて山へ戻っていった。

4日、俊寛・基仲・中原基兼・惟宗信房・平資行・平康頼など参加者が一網打尽にされ、5日、明雲が配流を解かれた。9日、尾張に流されていた師高が、清盛の家人の襲撃を受けて惨殺、成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、食物を与えられず殺害された。

~~~*~~~

ここに出ている康頼は前回の記事で、中原康頼として登場させていた。

中原基兼も非常にアヤシイ。

富木蓮忍を調べていて何度もこの事件が出てくるという事は、やはりこの中の誰かが関係しているのではないだろうか。

基仲・中原基兼・中原康頼、そして藤原成親その息丹波少将成経。

この三人に関係するとなると、かなり蓮忍の親・親戚などか、上司か、誰かに接点があるのだと確信に近くなってきた。

…となると、その事件のことがあって鎌倉幕府のもとに入ってきた人物なのではないだろうか。






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中原仲康

2019-03-01 | 中原氏バラバラ情報

中原氏のしっぽを見つけた!かも?

和田常盛の息(義盛の孫)である「和田朝盛」と朋友であった「中原仲康」である。
さらに、この仲康は「三善仲康」としても記載がある。

そしてさらに、中原兼遠が中原頼季と名乗っていたという説もあるようだ。

その頼季の息が鹿の谷の変で鬼界ヶ島に配流された平判官康頼(またの名を中原康頼)だという。
同じく、(信濃権守)中原頼季の息「仲康」である。つまりは兄弟「康頼」「仲康」となるのだろうか。

頼成-頼季-康頼の親子関係は『姓氏分脈』三十 中原姓(静嘉堂文庫蔵)による。とwikipediaにあった。

確か巴御前は和田義盛の妻という説があったが、これは知人の娘なので預かったという事だったのではないだろうか。





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