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沖縄へ行ったら是非、

2015-06-23 17:46:43 | 
沖縄での戦争は、
4人に一人が亡くなったと言われている。

悲しさに

太田実司令官 
最後の電文

沖縄県民斯ク戦ヘリ

県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ
賜ランコトヲ


電報の現代語訳[編集]

沖縄県民の実情に関して、
権限上は県知事が報告すべき事項であるが、
県はすでに通信手段を失っており、
第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。

県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、
現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、
知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。

沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、
陸海軍は防衛戦に専念し、
県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。

にも関わらず、私が知る限り、
県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。
残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、
しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、
軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、
辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝さらされながら窮乏した生活に甘んじ続けている。

しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、
看護婦や炊事婦はもちろん、
砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。

どうせ敵が来たら、
老人子供は殺されるだろうし、
女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、
生きながらに離別を決意し、
娘を軍営の門のところに捨てる親もある。

看護婦に至っては、
軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。
その様子は非常に真面目で、
とても一時の感情に駆られただけとは思えない。

さらに、軍の作戦が大きく変わると、
その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、
輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。

つまるところ、
陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、
終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、
(一部に悪評が無いわけではないが、)
ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、
遂に‥‥(判読不能)与えることがないまま、
沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして、
草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。

海軍次官宛の電報(現代訳)
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。

沖縄県民はこのように戦い抜いた。

県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。


この電文を最後に、
太田実司令官は自決した。

今はシッカリ保存されている司令官の壕

辞世の句

大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり

大君とは『天皇』

御はた とは、『御旗』日の丸の事、

天皇の御旗の元にして、死してこそ、
人として生まれた 甲斐が有る


壁に残された辞世の句

沖縄行ったらあの司令官壕へ

梅雨明けの6月下旬、
もう、いい天気だった、




そして今一人、
思うのは最後の沖縄県知事、
『島田さん』

前任の沖縄県知事は本土に一旦帰ったら
沖縄県に帰らなかった、

日本政府は島田さんにその任の辞令を出した。

家族全員反対するなか、
島田さんは沖縄に赴任した、

赴任してからの島田さん偉い、

今頃それが注目されている

以下、産経新聞より抜粋

太平洋戦争末期に沖縄県最後の官選知事として住民保護に尽力し、
本島南部で消息を絶った島田叡氏を顕彰する動きが広がっている。
命日とされる6月26日には那覇市で顕彰碑が除幕され、
出身地の兵庫県との交流会も予定される。
国に命をささげることが礼賛された時代、
住民に「生きろ」と呼び掛けた島田氏のメッセージが戦後70年を経て再評価されている。

 米軍の上陸が迫る1945年1月、
島田氏は大阪府内政部長から沖縄に第27代知事として派遣された。
44年10月の空襲で那覇は壊滅的な被害を受け、
前任者は東京に出張したまま戻らなかった。

 当時、
県人事課にいた板良敷朝基さん(97)は
「死を覚悟して沖縄に来られたはずなのに、非常に穏やかな表情だった。
この人となら運命を共にできると思った」

と振り返る。

着任後、
食糧確保のため自ら台湾に渡り、

県民約10万人の日本本土などへの疎開を陣頭指揮。
日本軍が首里の司令部放棄と南部への撤退を決めると、
知事も職員らとともに糸満市の「轟の壕」に移動した。
だが米軍の猛攻は収まらず、

壕で県庁を解散。
同市摩文仁の陸軍司令部壕に向かい、
消息を絶った。43歳だった。

 旧日本軍は「生きて虜囚の辱めを受けず」
という戦陣訓から、
住民にまで集団自決を強要していた。だが島田氏は県庁を解散した際、
県警察部職員の山里和枝さん(88)に
「米軍は女性と子どもには手を出さないから、
最後は投降しなさい。
必ず生き抜いて、
戦後の沖縄のため尽くしてほしい」と言い残したという



戦後、戦没職員とともに「島守」とたたえられた島田氏。
主人公にしたドラマの影響もあり、
有志でつくる団体が2013年から顕彰碑建立への協力を呼び掛け始めた。

 賛同の署名は3万に上り、
建立のため沖縄県内外から600万円以上の寄付が集まった。
島田氏が学生時代に野球に打ち込んだことから、
那覇市の球場近くに建立される。
那覇市で開かれる兵庫県との市民交流会には、
井戸敏三知事も出席する方向で調整している。

顕彰碑 
手を合わせに行かねばならぬ

戦争はしてはならない

その為には、
抑止力こそ大切
朝日新聞は云う
『戦争法案』だと、
違う、
今現在進められている集団的自衛権は
『戦争防止法案』です。

中国の軍拡、
中国の覇権行動を抑止出来るのは
世界的世論

その為には、
日米ががっちりと組み
その周りのASEAN、インド、韓国と連携して、
これ以上の軍拡をやめさせなければイケない。

中国は国をあげて、
日本は悪い国と宣伝し回っている
韓国同様に、

それに負けない発信力が不可欠、



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