強制断捨離、あるいは強制出家など笑うしかない
北海道新聞2011年15月22日の吉岡忍氏の一文を抜粋、引用してみる。
思い出してみれば、3 .11前、モ
ノを断ち、捨てて、モノから離れて
シンプルに暮らそう、という「断拾
離」が流行語にまでなった。私たち
は膨大なモノに囲まれて暮らすこと
に飽きていた。それは、近代= 個人
の時代が行き詰まっていたというこ
とである。
「笑うしかない」
究極の断捨離を強いられた被災者
たちのあっけらかんとした口調に、
私は近代を超える思想の萌芽を読み
取りたい。
(ノンフィクション作家)
ノを断ち、捨てて、モノから離れて
シンプルに暮らそう、という「断拾
離」が流行語にまでなった。私たち
は膨大なモノに囲まれて暮らすこと
に飽きていた。それは、近代= 個人
の時代が行き詰まっていたというこ
とである。
「笑うしかない」
究極の断捨離を強いられた被災者
たちのあっけらかんとした口調に、
私は近代を超える思想の萌芽を読み
取りたい。
(ノンフィクション作家)
「笑うしかない」究極の断捨離を強いられた被災者たちのあっけらかんとした口調、と文を読んだ私は思えなかった。あっけらかんとした口調、そうするしか正常な冷静さを保つ選択肢が無かったのだ。見事に奪われると、そういう感想を持つ時があるものだ。
断捨離とも違う。おおいに違うと違和感があった。究極の断捨離を強いられたなら、それは断捨離ではない。いうまでもなく強制出家とも違う。誰も、そして存在するならこの事態を防げなかった”か弱き神たち”さえも望んでいない事態が今も彼の地で続いているのだけが現実だ。
近代= 個人の時代が行き詰まっていたということであるとあるが、それは生まれ変わるたび毎度行き詰まっているのが個人であるのは間違いはないから、近代に限ったことではない。その昔の若い頃の大工息子・キリストだって、神の声を伝えるべきか悩んでいた予言者ムハンマドだって、砂漠の中で一人行き詰まっていたはずだし、もちろん王宮の豪華さと優秀な家来たちの中で完璧に人生に行き詰まった釈迦族の王子がブッタだった。そういう訳で、行き詰まったそこで道を示す賢者たちのサポートが無いなら、それは「笑うしかない」無いだけなのだろうと思った。泣けば、自分に負けるのは自明の理なのは言うまでもない。そして泣くのは終った後でいいと昔からも言う。
究極の断捨離なんて言葉が気に触ってここまで書いた。
捨てるべきは捨てるべきであるが足りないものを補(おぎな)えない人たち、生命の名において幸せでありますように。