とね日記

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僕にとってのあの日 (地下鉄サリン事件)

2014年03月20日 00時02分24秒 | 日記

今日は地下鉄サリン事件からちょうど19年目。事件がおきたのは1995年3月20日(月)の朝のことだ。都内の地下鉄で通勤、通学していたすべての人にとって、この日のことは今でも生々しく記憶に残っていることだろう。


僕が事件のことを知ったのはその日、たまたま人間ドックを受診していたクリニックの待合室のテレビからだった。午前9時に受付をすませ、ガウンに着替えてソファに座って始まるのを待っていたところ目の前のテレビ画面に掲載画像のような映像が映ったのだ。

「えっ、何か事故がおきたの??ガス爆発??」

大変な事態であることはすぐにわかったが、まさかそれが通勤ラッシュで混み合う5本の地下鉄をターゲットにした同時多発テロだということは思いもつかなかった。よくわからないけれどひどいことになったと思っているうちに人間ドックの検査が始まった。


この事件を含め、後に「坂本堤弁護士一家殺害事件」、「松本サリン事件」、「地下鉄サリン事件」は「オウム3大事件」と呼ばれることになる。これ以外にもこの教団はたくさんの事件をおこしており、ウィキペディアの「オウム真理教事件」のカテゴリーには1989年から1995年にかけてこの教団がおこした31の事件が掲載されている。おおまかな流れと犯行にかかわった信者一覧はこのページで確認できる。

オウム真理教はもともと1984年にありふれたヨガのサークルとして始まり、1989年に宗教団体を設立、そして「真理党」という政治団体を作り翌年の衆院選に幹部ら25名を擁立していた。(全員落選)地元の京王線笹塚駅前で教祖の麻原彰晃のお面をかぶった7~8名の信者が「教祖の歌(?)」を歌いながら選挙活動をしていたのを僕はよく覚えている。妙に明るく、怪しげな宗教団体というのが僕が抱いていた印象だ。その後、殺人を含む多くの事件をおこすのだが、犯行が教団によるものだという決定的な証拠がないまま5年の年月が経ってしまう。教団の本当に恐ろしい部分は社会に対して一切隠されていたのだ。

オウム真理教は宗教活動のかたわら多彩な事業を行っていた。業種は、コンピューター事業、建設、不動産、出版、印刷、食品、家庭教師派遣、土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。特に中心となっていたのは「マハーポーシャ」という名前のパソコンショップの売り上げで、公安調査庁によると年間70億円以上の売り上げ(1999年当時)があり、純利益は20億円に迫る勢いだったという。


あれから19年も経っているので地下鉄サリン事件のことを知らない若い人が増えている。当時通勤、通学で地下鉄を利用していたのは高校生以上だろうから今では35歳以上になっている。事件がおきたのはポケベルの全盛期、PHSが少しずつ出回り始めた頃のことだ。ダイヤルアップ接続のインターネットはあったけれども新聞社やテレビ局はニュースのホームページを開設していなかった。NTTの災害伝言ダイヤルもなかったから安否の連絡手段は公衆電話しかなかった。(NTTの災害伝言ダイヤルは阪神・淡路大震災をきっかけに開発され、1998年3月31日から稼動)

死者13人、負傷者約6300人という犠牲者を出した地下鉄サリン事件についてはウィキペディアをお読みいただきたい。この宗教教団があろうことか無差別大量殺人だけでなく国家転覆をしようとしていたことがわかるはずだ。(参考ページ)地下鉄サリン事件の後は都内上空のヘリコプターからのサリン大量散布さえ企てられていたのだ。

地下鉄サリン事件:ウィキペディアの記事
オウム真理教:ウィキペディアの記事


当時勤務していたオフィスは丸ノ内線の赤坂見附駅から徒歩10分のところにあった。フレックスタイム制で午前10時頃出社していたから事件が通常の勤務日だったら、午前8時過ぎにおきたこの事件は2時間後に会社で知ることになっていたはずだ。(電車が止まっていてオフィスに着けなかったかもしれない。)

しかし、たまたまこの日は人間ドック。受診場所は千代田線の赤坂駅から徒歩12~3分のところにあるクリニックなので、事件後の混乱に遭遇していたはずなのだ。

ところが僕はそうならなかった。それは間違っていつもの赤坂見附で下車してしまい、千代田線に乗り換えなかったからなのである。いつもより早く起きて頭がぼーっとしていたから、毎日下車している駅でうっかり降りてしまい、次の電車を待たずにそこから徒歩でクリニックまで行ったのが幸いしたのだ。


でも僕はどれくらい危ないところまで接近していたのだろうか?
また、もし予定通り千代田線に乗り換えていたら、どうなっていたのだろうか?


ウィキペディアには事件の日の電車の時刻が掲載してあるので、あの日の朝たどっていたルートを検証してみた。

当時の通勤経路は丸ノ内線の方南町から中野坂上で乗り換えて赤坂見附に行くというルートだった。この日は赤坂見附では降りずに国会議事堂前駅または霞が関駅まで行って、そこから千代田線に乗り換えてクリニックのある赤坂駅で降りる予定だった。

1995年頃の丸ノ内線は旧車両だった。これは中野坂上に停車中の旧車両。



都内の地下鉄に詳しくない方のために丸ノ内線の路線図を載せておく。当時はまだ西新宿駅は開業していなかった。方南町-中野坂上間は3両編成の支線として運行されている。



予定通りに行けば、次のようなタイムテーブルで僕は人間ドックに向かうはずだった。

方南町 8:09
中野坂上 8:15
赤坂見附 8:30
国会議事堂前 8:40
霞が関 8:41
赤坂 8:45

ウィキペディアを参考にしてその日の朝の丸ノ内線と千代田線の状況を時系列に従って並べると次のようになった。現在の時刻表を使っているので1~2分の違いがあること、負傷者がでて以降の電車内はパニックだったので記載した時刻は不正確かもしれないことご容赦いただきたい。

丸ノ内線(池袋発荻窪行)
1人が死亡し、358人が重症
池袋 7:47
御茶ノ水 7:58 - サリン散布
霞が関 8:08
国会議事堂前 8:09
中野坂上 8:18 - 重症の負傷者を降ろす。そのまま運行を続けたため負傷者が増え続け被害が拡大した。
荻窪 8:37
荻窪 8:42
新高円寺 8:46 - 運行停止

丸ノ内線(荻窪発池袋行)
約200人が重症
新宿 7:39
四谷 7:46 - サリン散布
国会議事堂前 7:52
霞が関 7:53
池袋 8:30
池袋 8:35
本郷三丁目 8:44 - 駅員がサリンのパックをモップで掃除
国会議事堂前 9:27 - 運行停止

千代田線(我孫子発代々木上原行)
2人が死亡し、231人が重症
新御茶ノ水 8:02 - サリン散布
二重橋 8:06
日比谷 8:08 - 負傷者を降ろす
霞が関 8:10 - 駅員がサリン排除(作業に何分かかったか情報得られず。)
国会議事堂前 8:11以降 - 運行停止

そして被害者がいちばん多かったのが日比谷線だ。僕はこの路線は通常使わない。中目黒行きの日比谷線では6両の車両で2475人の乗客が重症を負っていたのだ。2500人近く(負傷しなかった人も含めればその数倍)の人たちが死に物狂いで車両から逃げ出す光景をあなたは想像できるだろうか?5つの路線を合わせると負傷者は6300人。これだけの数の患者を一度に受け入れるのはたとえ大きな病院でも1つでは無理だ。救急車も足りない。そのような状況で都内のあちこちの病院に負傷者が搬送された。

日比谷線(中目黒発東武動物公園行)
1人が死亡し、532人が重症

日比谷線(北千住発中目黒行)
8人が死亡し2475人が重症


これらを踏まえるとその朝、僕は次のような状況に遭遇していたことがわかった。もし赤坂見附で下車せず千代田線に乗り換えようとしても電車はすでに運行停止していたからクリニックにはたどりつけていなかった。

方南町 8:09
中野坂上 8:15 - 僕が乗り換えた3分後に行き先と反対方向ホームの丸ノ内線から重症患者が降ろされていた。
赤坂見附 8:30 - 実際はここで僕は下車した。
国会議事堂前 8:40 - サリン散布された電車が通過した30分後と48分後に駅に到着。僕は乗り換えできず立ち往生。駅には負傷者多数。
霞が関 8:41 - サリン散布された電車が通過した30分、33分、49分後に駅に到着。僕は乗り換えできず立ち往生。駅には負傷者多数。
赤坂 8:45 - おそらく到着できなかった。国会議事堂前や霞ヶ関周辺でタクシーを拾うこともできなかったことだろう。

ずいぶんきわどかったのだなとあらためて思う。いや、これほどの大惨事がおきていたにもかかわらず、電車が運行され続け、僕が赤坂見附にたどりつけていたことほうが極めて異常だったと考えるべきだろう。

上りの丸の内線は荻窪発の電車に新宿から犯人が乗り込んでいた。もし僕がせっかちで30分早く家を出ていたらサリン中毒で負傷していた可能性だってあったのだ。そう思うとぞっとする。


オウム真理教はきわめて特殊な団体だから同じような団体がもし今あったとしても自分はきっと入らないだろうなどと思わないほうがよい。オウム真理教の勧誘方法はとても巧みだった。弁護士や医者、科学者、理数系の大学院生など優秀な人材がたくさん入信し凶悪犯罪を遂行するために優秀な頭脳と技術が利用されていた。

恋人や異性の友達がいなくてさびしい思いをしている理数系大学生ならば、親身になって話をしてくれる清楚な美人やイケメンの誘いを断るのはきっと無理なことだろう。なぜなら最初のうちは彼らは勧誘員だとは名乗らないのだから。そのような「隠れ勧誘員」との出会いは普段生活しているいろいろな場所にあったのだ。きっかけはサークルの仲間かもしれなかったし、友達の紹介、合コン、買い物先や食事場所の店員かもしれなかった。このようにして信者はますます増えていった。

麻原やその幹部、信者は当時バラエティ番組にも普通に出演して教団やヨガの宣伝活動を行っていた。僕は特定のリンクとしてはあえて紹介しないことにする。今もたくさんの写真動画がネット上にアップされている。麻原彰晃はバラエティ番組にも出演していた。(出演動画)当時の雰囲気を知りたい方は検索してみるとよいだろう。この人たちが国家転覆を企む狂気の殺人集団だと当時はとても信じられなかったことを納得いただけるはずだ。社会はこの団体に対してあまりにも無防備だった。オウム真理教の信者獲得は密かにロシアを中心に海外まで及び、ロシアでは信者に対する軍事訓練も行われていた。


僕はむしろ今の時代のほうがこのような団体に入信してしまう社会的な素地がそろっているように思う。社会に不満を持っている人、深刻な悩みを抱えている人、目新しい宗教やスピリチュアルな方面に関心を寄せる人口は19年前よりも増えていると日頃僕は感じている。そういう人がすべて入信してしまうわけではないが、潜在的な信者は一定の割合いるであろうことは今も昔も同じだと思う。そしてSNSの普及によって勧誘や布教活動は昔に比べてはるかに容易かつ巧みに行える時代になっている。


地下鉄サリン事件を始めとするオウム真理教関連の事件の記憶は後世に伝えていかなければいけない事件のうちのひとつだ。僕はこの記事をこの教団や事件のことを知らない若い世代の方に読んでもらいたい。今年に入ってからオウム真理教関連の裁判が始まっているし、一昨日はご遺族によってつくられた被害者の会が東京都内で集会を開いたそうだ。(ニュース記事

数千人の被害者の人生がめちゃくちゃにされた。今でも多くの被害者が後遺症に苦しみ、そこには怒りと悲しみを抱きつつ介護をされているご家族がいること忘れてはならない。


人間ドックを終えて僕がオフィスに着いたのは午後2時頃だった。上司や同僚から事件のあらましを聞いて、会議室へテレビを見に行った。しばらくすると社内放送があり、安全な手段で早めに帰宅するよう指示があった。興味本位で僕は丸の内線で帰宅したのだが電車はがらがらで、ひとつの車両に乗客が2~3名という有様だった。

もちろんその日の夜のテレビ番組はこの事件一色だった。そして翌日は祝日だったので一日中報道番組を見て過ごすことになった。

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2015年1月16日に追記:当日の警察無線の交信記録が公開された。

地下鉄サリン事件、警察無線73分30秒の交信記録が公開


オウム真理教20年目の真実



当日の朝、僕と同じく丸の内線に乗車されていた方のツイートを見つけた。報道されていない陰の功労者が何人もいたとを思うと胸が熱くなった。




ご注意:今日のブログ記事はいささか危ないテーマなので慎重を期して書かせていただいた。(そのためにあえて書かなかったこともある。)僕を含め他の読者に不快な思いをさせる可能性のあるコメント、宗教的な内容が濃いコメントなどをいただいた場合、公開を承認しないことがありますので、あらかじめご了承いただきますようお願いします。トラックバックについても同様とさせていただきます。


関連記事:

地下鉄サリン事件から20年
https://blog.goo.ne.jp/ktonegaw/e/55f5cf1fa8c8f9e46bb975732275cd80


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2 コメント

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私もきわどかった (やす)
2014-04-13 23:32:29
当時のニュースを、私は昼頃、西武線小平駅近くの定食屋で見ました。

取引先のアメリカ人と一緒に、本来ならサリンがまかれた千代田線に乗っていた公算が高かったのです。訪問先のお客様から突然約束の変更の連絡が前日飛び込んできて、四苦八苦してスケジュールを変更したのですが、それを私たちを救ったのです。

私は当時、運命というものを感じざるを得ませんでした。

ただただ我が身の幸運に感謝をするのみなのです。それ以上でもそれ以下でもない、純粋な気持ちであり、これ以上のコメントをしたくありません。

でも、にたような幸運に恵まれたとの記事に、返信させて頂きます。

返信する
Re: 私もきわどかった (とね)
2014-04-13 23:49:08
やす様

はじめまして。やす様の「あの日」の出来事をコメントいただき、ありがとうございました。

> これ以上のコメントをしたくありません。

そのお気持ちはよくわかります。

この記事を書くにあたって僕はかなり迷いました。それでも事件のことを知らない若い世代に伝えなくては、マスコミで報道される表面的な恐さ以上のことがあったことを伝えなくてはと思い、記事として残しておくことを決めました。

コメントをいただいたことに、あらためてお礼を申し上げます。

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