BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

日本語教育史 切支丹もの

2020-10-14 | #日本語教育

日本語教育の歴史、第3講は、1回目現代、2回目近代、時代をさかのぼって、そして近世となるところ、中世からという仕切りで話す。16世紀末、キリシタン宣教師の日本語学習、布教のための日本語習得、その日本語教育をとらえる。日本での活動に、切支丹ものとしての資料をのこしている。日本語を広く集めて、当時の発音の状況、方言から位相語を知ることのできる辞書、日葡辞書が編まれた。そしてラテン語と対照する文法書、ロドリゲス日本文典をはじめとして、17世紀になって多くの日本研究、日本学に資する刊行物がある。


キリシタン資料に見る日本語教育bunkyo.repo.nii.ac.jp › ... PDF
中世日本におけるキリスト教布教活動のための教育 ... 日本人にキリ. スト教やラテン語を教えるためのものと、ヨーロッパ人に日本語を教. えるためのものの双方があると ... キリシタン資料各種のうち、日本語を学ぶ者にとってまず「規範」.
宮武利江 著 · ‎2019


宣教師を対象とした日本語教育 - 小出記念日本語教育研究会www.koidekinen.net › pdf › 2001_harada_imai
PDF
宣教師という日本語学習者を16,17世紀のキリシタン時代にさかのぼって日本. 語教育史の中に見る“2)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが1519年. に鹿児島に来て日本における伝道を開始してから、禁教令によりキリスト教の布. 教 ...


キリシタン資料特集 - 古典学の再構築www.classics.jp › RCS
PDF
現代においてはもちろんのこと,これまでの人間の. 歴史においてキリスト教世界の古典が果してきた役割. には大きなものがある。そうした古典の日本における. 受容を考える上で,16世紀から17世紀にかけて来朝し. たイエズス会士の手 ...



ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
16世紀後半から 17世紀前半にかけて,カトリックの宣教師たちが日本での布教用につくった宗教書や語学書をいう。「キリシタン文献」「キリシタン資料」ともいう。ローマ字書きで対訳のあるものが多く,成立年代も明らかなため,当時の口語資料として貴重なものである。長崎版の漢字辞書『落葉集 (らくようしゅう) 』 (1598) ,天草版『羅葡日 (らほにち) 辞書』 (95) ,アルバレスの天草版『ラテン文典』 (94) ,長崎版『日葡 (にっぽ) 辞書』 (1603) ,J.T.ロドリゲスの長崎版『日本 (大) 文典』 (04~08) ,同じくマカオ版『日本小文典』 (20) などの辞典・文典類,天草版『平家物語』 (1592) や『伊曾保 (いそほ) 物語』 (93) などの文学書類,加津佐版『サントスの御作業』 (91) や長崎版『どちりな・きりしたん』 (ローマ字本。 1600) などの宗教書類などが代表的なものである。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

日本大百科全書(ニッポニカ)
キリシタン
きりしたん

戦国時代の末期から江戸時代における日本人キリスト教(カトリック)信者。キリシタンの語はポルトガル語のchrist〓o, crist〓o(キリスト教徒)に由来する。キリシタン信仰、またはキリシタン宗門は同じくポルトガル語からキリシタンダアデと称された。フランシスコ・ザビエル以後、初期のキリスト教の布教はポルトガル国王の保護権下に行われ、教会用語はラテン語とポルトガル語であったから、日本人の改宗者はキリシタンとよばれた。これを漢字で表す場合に、「吉利支丹」「貴利支丹」「貴理師端」「幾里志丹」などの例がみられるが、1680年(延宝8)以後は、徳川5代将軍綱吉の諱(いみな)を避けて「吉」を用いなくなった。またキリシタン宗門は幕府が厳禁するところであったから、キリシタンには「切支丹」「鬼里至端」「切死端」「毀理至炭」といった悪意や憎悪を交えた表現が諸文献にみえる。
[松田毅一]
歴史
キリシタンの歴史は東西交渉史の一こまであるから、世界的視野から叙述されるべきであるが、史料が西洋側に圧倒的に多いことや、研究者にヨーロッパ人が多かったこともあって、西洋史の観点から扱われる傾向があった。また、この歴史はカトリック教会史に違いなく、その観点からは、司教区史として、ゴア司教区に属していた第1期、マカオ司教区に属した第2期、日本に独自の司教が任命されるようになった第3期と分けることもできる。さらに日本史の観点からは、戦国時代末期、安土桃山(あづちももやま)時代、江戸時代でくぎることも可能である。だがキリシタンの歴史を独自のものとみなし、主として史実の経過からくぎるならば次のようになる。
 すなわち、第1期は1549年(天文18)から1587年(天正15)までで、布教が公認された時代。この間、足利(あしかが)将軍義輝(よしてる)、織田信長、羽柴秀吉(はしばひでよし)らによってキリシタンの布教が認められ、西日本各地にキリシタンの集団が形成された。第2期は1587年から1614年(慶長19)までの27年間で、布教黙認の時代といいうる。すなわち、豊臣秀吉(とよとみひでよし)がバテレン(宣教師)追放令を発令してから、江戸幕府がバテレンらを実際に国外追放し、かつキリシタンの禁令を発布するまでで、この間、キリシタン宗門は黙認されており、信徒の数ももっとも多かった。第3期は1614年から1640年(寛永17)までで、禁教と迫害の時代である。この時代の終わりには、宣教師はすべて処刑されたり投獄されたし、キリシタン信徒も公然と信仰を表明する者はなくなった。したがってキリシタンの布教史はこの1640年ごろで終わるといえる。ただし1708年(宝永5)にはマニラから単身で屋久島(やくしま)に潜入してきたイタリア出身の司祭ジョバンニ・バッティスタ・シドッチがいる。またキリシタンの子孫はなお大ぜいいて、キリシタンの信仰が彼らの間でまったく消滅したのでもない。そのために幕府当局は、1640年以後もなおキリシタン信仰を殲滅(せんめつ)し根絶させるために種々の手段を講じた。
 すなわち幕府は元和(げんな)(1615~24)から寛永(かんえい)(1624~44)にかけて踏絵(ふみえ)や宗門改(しゅうもんあらため)の制度を設け、さらにはキリシタンの密告を奨励する高札を掲げた。1640年宗門改役に任ぜられた井上筑後守(ちくごのかみ)は江戸と長崎の間を往来しつつキリシタンの殲滅に専念し、嫌疑者を訴え出ることを奨励したので、全国各地からおびただしい人々が告訴された。だが彼らは訴えられたときには、ほとんどすべてすでに棄教していた。井上筑後守の代に大ぜいがキリシタンの科(とが)で処刑されているが、彼らは嫌疑が完全に晴れないために処刑されたのであり、なかにはキリシタン関係の遺物をたまたま所持していたなどの理由で、見せしめのために罰せられた者もいる。1658年(万治1)に北条安房守(あわのかみ)が宗門改役に就任し、1687年(貞享4)には、転宗者とその周辺、あるいは子孫のうちからキリシタン信仰に立ち返る者が出ないように厳重に監視しようとして、キリシタン類族制が施行された。他方、平戸(ひらど)や長崎、天草(あまくさ)方面には、集団的かつ組織的に、表面は仏教徒を装いながらキリシタン信仰を保持する人々がいた。これらの人々を一般には「隠れキリシタン」と称している。1865年(慶応1)長崎大浦天主堂に浦上の隠れキリシタンが訪れて信仰を告白した。ほかにも信徒の存在は判明したが、禁教策が続いていたため明治初年に至るまで信徒には新たな弾圧が加えられ、国際問題となった。そしてキリシタンの禁制が解けたのは1873年(明治6)のことであった。
[松田毅一]


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。