KOUUNGO60 WEBSITE

愛犬アムくんは、2016年8月16日に虹の橋を渡り空に行きました

東京に決定

2013-09-08 05:22:35 | 日記
2020年夏のオリンピックは東京に決まりました。

発表までの長いこと。引っ張りますね。
招致委員やアスリートの方々はホッとされたことでしょう。

選手村から近い距離に競技場を作るというコンパクトな計画は、かなりポイントを稼いだのではないでしょうか。
選手は、移動の時間が短いのがうれしいのですからね。
海外の大会だと選手村から一時間半とかいうのが当たり前となっていましたからね。
アップする会場も、競技場近くに用意されるといいですね。

1964年の東京オリンピックをわかって応援したのは今60歳以上の方かもしれません。
若い人たちに、あの興奮を味わってもらえるかと思うと、私も熱くなっています。

1964年は、私は中学一年生でした。
私の入学した中学は、当時は男子はバレーボール部とハンドボール部が強くてこのどちらかに入部しないと男でないというような感覚がありました。
私は、接近戦は苦手なのでバレー部を選んでいました。
バレー部に入部した男子一年生は47人でハンドは30人くらいだったと思います。
バレー部の新一年生は、背の高い物から並ぶと私は46番目(132cm)でした。
当時は9人制でしたから、背が低くてもバックの選手になれましたからね。

東京オリンピックから正式種目になったバレーボールは、女子(東洋の魔女と呼ばれた)が金メダルで男子は銅メダルでした。
その年の暮れに呉市体育館に全日本男子バレーボールチームが来まして、私たちは体育館の掃除や玉拾いに借り出されました。
その時、世界の名セッターと言われた猫田選手と当時は一番背が高かった南選手(お二人とも惜しくも早くに故人となられました)のお二人から背の低い私が玉拾いしていたので『頑張れよ』と声をかけていただきました。
それで、私はバレーボールを続けられたと思います。

1972年ミュンヘンオリンピックで念願の金メダルを獲得した男子バレーボールチームが全国に応援のお礼と称して各地を回りました。
私は大学三年生で主将になっていましたから、岡山の体育館に全日本チームを迎えました。
試合後に、私は猫田さんと南さんにあいさつに行き、呉市の体育館の話をしました。
お二人ともうれしそうに『そうか。バレー続けてくれたんだ』と言ってもらいました。
このときは、私は174cmになっていましたけどね。

私は、それから猫田さんにはいろいろ声をかけていただき、一緒に飲む機会も与えていただきました。

私がこういう思いをしたので、多くの若い人にもこういう体験をしてもらいたいなと思います。
今、幼稚園・保育園に通っているお子さんが七年後に国内でオリンピックが開催され、時差なく応援できるのはうれしいですよね。

私のような体験をされるお子さんもいるかもしれませんよね。
本当に東京に決まって良かったです。

私は、その時68歳ですが歳を忘れて熱くなっているかもしれませんね。

招致委員や準備委員の方は、これからが本番ですからね。
予定どおり計画を進めて、素晴らしい大会になることを期待しています。



昨日は、昼ごろから雨と言うので部屋干しにして除湿機をかけていると、陽射しが出てきました。
まあいいやとそのままにしていたのですが、雨が降りだしたのは午後4時ごろから。
妻が帰って来て、外干しで良かったねと。

アムくんは、朝の散歩のときにたくさん歩かせていたのですが、午後5時前は雨がやんで普通に散歩ができました。
アムくんは、昨日はレインコートを着なくて済みました。

今日は、午前中が雨ということですが、もう少しすると雨雲が切れそうなので、アムくんは今日もレインコート不要でしょうかね。

東には雨雲がありますので、雨の日曜日というところもあるでしょうね。


みなさんも、素敵な日曜日をお過ごしください。

朝早くからテレビを観ておられた方も多いかと思いますが、今日はのんびりお過ごしください。

お仕事の方は、ご苦労様です。
コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする