人は精神から老いていく。 ねえ、何歳から老人というんだろう。新しいシニアを目指して素敵に老いる力を

新しいシニアを目指して素敵に老いる。高齢社会というけれど、高齢者が何を考えているかわかりますか?老いる力と幸せを考える

「きる」と「こむ」のように

2020-08-24 18:27:00 | 高齢文化 高齢者の学び シニアライフ

例えば「走る」は、「きる」と一緒になって「走りきる」という決意になる




「こむ」と一緒になって「走りこむ」という粘り強さになる




そのように生きて行け、と教えていただいた




あの時の高校時代の先生は、今も元気でいるだろうか
(くろほとき)


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自分の言葉で自分の辿り来た道を語る

2020-08-23 18:56:00 | 高齢文化 高齢者の学び シニアライフ

年老いて、なお学び続ける人は、立派です



年老いても、なお志高き人は、尊敬に値します



しかし、年老いて、なお



現役時代の自分の役職や肩書きを



みんなの前に持ち込む人は



愚かです



あなたの自慢話なんて聞きたくない



あなた、キレイに、ステキに生きなさい



ほら、青空だってそう言ってますよ

(くろほとき)



現役時代の役職や肩書きや自慢を語るのではなく



現役時代のさまざまな場面で考えたことや得たことを、


自分の言葉で語るのです。
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しあわせ ふしあわせ

2020-08-21 20:20:00 | 高齢文化 高齢者の学び シニアライフ

「人生百年」という不幸(里見清一・新潮社)
という本の最終頁は、次のような背筋も凍る言葉で終わっている。




「次はお前の番だ」




これは、ローマに「私も昔は(今の君のように生きていた、君もいずれ(今の私のように)死ぬだろう」という墓碑銘があるが、
その超意訳が、この言葉になるそうだ。




人は必ず老いて、寿命が尽きて死ぬ。医者も患者も家族も、国家も、この当然の真理を直視できずに目を背ける。「人生百年時代」などと浮かれているが、この長寿社会は人々に幸福をもたらしているのか?



という問題提起が、主として癌患者の現況(著者は、癌治療の専門医)から易しく書き下されていて
なかなか考えさせられる本だった。





今日のブログは、この本の内容紹介ではないので、以下、話の流れが少し飛ぶ。



私の仲間も何人か亡くなっているので
次はお前の番だ、という言葉には背中がぞくっとしたが、



「まだ私ではないだろう」



「まだ、15年は大丈夫だろう」



などとたいした根拠もないのに、安穏として時間に流されている自分の存在を発見したことに妙な納得をしてしまう。





私が高校2年生の時、西湖湖畔の根場(ねんば)という集落が山津波によって一夜のうちに消滅してしまったことがあった。


当時、その集落からも高校生が通ってきていた。だから、何人もの高校生も駆り出され、或は自分から救助隊を結成して見るも無残な根場地区に行ったことがあった。



土砂の中から死体の手が飛び出していたりボロボロの空気が垂れこめていたりした状況が今でも鮮明に脳裏にはりついている。



病気でもなく、老衰でもない人間の死に直面したのは、その時が人生で初めてだった。




見るも無残な状況の中では、無残な言葉や無残な行動だけが飛び回る。 

人間は、悲しい時には悲しいことしか言わない。




「あの家は、おバアが助かって若いもんが死んだ。なんで反対にはならないんだ。おバアが死ねばよかったんだよ」




誰かが言ったこの言葉も耳の奥にずっと残っている。




人生百年時代の不幸から、話がとんでもない方に流れて行ってしまったね。


文脈もぐちゃぐちゃになってしまったね。


今日は、ごめんなさいです。
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高齢者の学びは仲間づくりのなかで育つ〜コロナに負けるな

2020-08-20 19:15:00 | 高齢文化 高齢者の学び シニアライフ

コロナで「シニアの学びの会」ができない。



あしかけ10年。学びの会の授業や内容をずっと考え活動してきたが、今年ほど困難な年はない。




今日も年間計画の上では、学びの会があるはずだったが、コロナ禍で開催出来なかった。



つらい。



今日は2ヶ月くらい前の私のブログを再度掲載する。





高齢者の学びが持続する条件は何か。

 


一人の高齢者が、ある日あるとき何かを学ぼうと考えて、真摯に学びを始めるのだが、長続きしないで途中で挫折してしまうことが多々ある。



それはなぜか。




結論から言えば、「仲間のなかで学んでいない。」「同じ指向性を持つ仲間を学習の場で新たにつくれない。」「学ぶことに伴って仲間との絆が凝縮していかない。」からである。




人は一人では生きられないのと同様に、学びも一人ではふくらんでいかないのだ。




高齢者が、学びたいと欲するとき、ただ単に「○○を深く学びたい。」「さまざまな都合で若いとき学べなかった□□を学びたい。」というだけでは、学びは持続していかない。





学びは、集団(仲間)のなかでしかふくらんでいかないのだ。




その事実に気づかないで、高齢者学習を組織し、共に学ぼうとしてもほとんど失敗する。




高齢者が学びたいと欲するときには、その向こうには、新しい人々と巡り会いたい」「同じ方向で話ができる仲間がほしい」という生き方指向が根底にある。




私が「~学びを大事に、仲間を大事に~」という課題を持って高齢者に接するのはそのような理由があるからである。

 



高齢者の学びの深化や拡充は、仲間作りの深化や拡充とパラレルの関係にある。




そのことを抜きにして、高齢者の学びを語るのは、片手落ちである。






今日も年間計画の上では、学びの会があるはずだったが、コロナ禍で開催出来なかった。


つらい。
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生かされている自分

2020-08-19 07:24:00 | 高齢文化 高齢者の学び シニアライフ

山に来て鳥の鳴き声を聞いても名前が分からない



石や岩を見ても、木や花を見ても名前を言えない



小動物や虫の名前も分からない



鳥、石、あの木、ああいう色、虫というレベル




だけど私は知っている





その名前も知らないものたちと一緒に




この自然の中で今日も生かされている自分を知っている 

(くろほとき)



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