前置き
今日は風がばかみたいに強くて、ぼくが住んでいる家の塀が(レンガでできてます)見事にぶっ倒れておった。崩れた、てよりもぶっ倒れた、と言った方が的確な感じだった。自分ちの塀が風のせいでぶっ倒れるなんて。多分、自分の生涯でこの一回だけだと思う。というかそう願う。
本題
ぼくにはCDジャケットをカラーコピーしてファイリングするという趣味がある。
具体的に言うと、
ツタヤとか図書館から借りてきたCD、また自分で買ったCDのフロントカバーを
自宅にあるちっちゃいコピー機でカラーコピーしては、無印のA4のフォトアルバムにきれいにカットしたそれをはりつけて保存しているのだ。
必ず、いっつも、てな感じにはやってなくて、
わりと、やれるときは、というふうにやっていて、多分いままで借りたり買ったりしたCDの7割くらいのコピーが今手元にあったりする。
その中で特にデザインの気に入っているものがその無印ファイルに納められているのだ。
今まではたったのファイル2冊だけだったけど、ちょうどロンドンの無印でそのファイルが処分品として安くなってたので、そこでもう2冊購入した。(でも、雰囲気的にこのモデルのフォトファイルはもう生産が終わった感じがあるな。なんで、そうやってすぐモデルがかわるんだろうなあ、てよく思う。色んなモノに関してね。同じものを長い間繰り返し使いたい、てヒトって少ないのかな。同じものをもう一回購入するって、とても素敵なことなんじゃないのかね。でも、売りあげとかの問題なんだろね。)
それで昨日、今日と二日かけてもう一度それらを整理してみた。今までずっとはられずにファイルの奥にしまってあったナイスなジャケットたちを引っ張りだしたりして。古い2冊から、あらたな改訂版4冊として作ってみたのだ。その作業はホントに至福の時間であったのだけど。(なんだか本題はいってからも前置きが長くなってるな。)
そして、あらためて感動したのである。やはりおもしろい、CDジャケット。
同じ四角いフォーマットのなかで、様々な音の溢れるデザインがそこにあって。ポートレイトだったり、イラストだったり、きれいなタイポだったりね。
CDジャケのデザインって、やっぱりCDの中の音ってのがまずあるわけで。そことそれを囲うデザインをどういう関係にしてくか、というところで、それぞれのデザイナーが繰り出す技っていうか、やり方ってのが見てて楽しく全く飽きない。
もちろんデザインの分野としてとても魅力的である。上に書いたようにね。
でも、なんでそんなにファイリングの作業が楽しかったのかというと、それだけじゃなくて。
それは、それぞれのデザインの中というか裏というか、そういったとこにあるエピソードを想って楽しくなってたわけなのだ。
そのエピソードというのは、もちろんそのCDのアーティストたちの無茶苦茶な逸話であったりもするし、超個人的な思いでだったりするのだけど。
一枚一枚、とはってくごとに、それらにまつわるエピソードを思い出したりしてると、すこし感傷的になったり、どっかから青春時代をひっぱりだしてる気分になる。
おまえ、そりゃあウソだろー!ありえないだろー!て友達と笑いあったミュージシャンの奇行を思い出す。
これかっこいいよなあ、てギターをたたきつけてる写真について体育に時間に話をしたこともあった。
ああ、このだっさいジャケットのCDはあいつと吉祥寺の新星堂の500円コーナーでみつけたやつだ。
このあたりのCDたちはツタヤの半額クーポン使ってあいつとごっそりまとめ借りした頃のだなあ。
このポーズとメンバーのバランスがたまらん、とかいってひとりで感動しまくっていたこともあった。
そういったくだらないことだけど、とても幸せなエピソードをそれらはもっていて。
音そのものとは、すこし違った角度でぼくを楽しませてくれるのである。
そういった色んな意味でぼくはCDジャケットのデザインというものにあこがれるのだと思う。
最近、この世にCDが無くなる気がして恐い。
否定したい気持ちでいっぱいだけども、無くなる気がしてしょうがない。
いまでもレコードは残ってるので、レコードは消えないだろう。
でもだからといって、CDもぼくはあってほしいのだ。
ぼくらCD世代にはでかいレコードジャケとともにあの小さなCDジャケもやはり必要な気がする。
もしデータで音楽がやり取りされるようになって。
ジャケットもただのディスプレイ上のみの画像になってしまったら。
音楽好きのデザイナーは肩を落とすどころじゃすまないとおもう。
データも便利だけど。
CDをショップに買いにいく!というその行為自体の楽しみを。もうちょっと気づいてもいい気がする。
所詮個人の趣味の問題なのかな。
まあ、だからこそ、自分はない金で必死にCDを買い続けたいと思うのである。
今日は風がばかみたいに強くて、ぼくが住んでいる家の塀が(レンガでできてます)見事にぶっ倒れておった。崩れた、てよりもぶっ倒れた、と言った方が的確な感じだった。自分ちの塀が風のせいでぶっ倒れるなんて。多分、自分の生涯でこの一回だけだと思う。というかそう願う。
本題
ぼくにはCDジャケットをカラーコピーしてファイリングするという趣味がある。
具体的に言うと、
ツタヤとか図書館から借りてきたCD、また自分で買ったCDのフロントカバーを
自宅にあるちっちゃいコピー機でカラーコピーしては、無印のA4のフォトアルバムにきれいにカットしたそれをはりつけて保存しているのだ。
必ず、いっつも、てな感じにはやってなくて、
わりと、やれるときは、というふうにやっていて、多分いままで借りたり買ったりしたCDの7割くらいのコピーが今手元にあったりする。
その中で特にデザインの気に入っているものがその無印ファイルに納められているのだ。
今まではたったのファイル2冊だけだったけど、ちょうどロンドンの無印でそのファイルが処分品として安くなってたので、そこでもう2冊購入した。(でも、雰囲気的にこのモデルのフォトファイルはもう生産が終わった感じがあるな。なんで、そうやってすぐモデルがかわるんだろうなあ、てよく思う。色んなモノに関してね。同じものを長い間繰り返し使いたい、てヒトって少ないのかな。同じものをもう一回購入するって、とても素敵なことなんじゃないのかね。でも、売りあげとかの問題なんだろね。)
それで昨日、今日と二日かけてもう一度それらを整理してみた。今までずっとはられずにファイルの奥にしまってあったナイスなジャケットたちを引っ張りだしたりして。古い2冊から、あらたな改訂版4冊として作ってみたのだ。その作業はホントに至福の時間であったのだけど。(なんだか本題はいってからも前置きが長くなってるな。)
そして、あらためて感動したのである。やはりおもしろい、CDジャケット。
同じ四角いフォーマットのなかで、様々な音の溢れるデザインがそこにあって。ポートレイトだったり、イラストだったり、きれいなタイポだったりね。
CDジャケのデザインって、やっぱりCDの中の音ってのがまずあるわけで。そことそれを囲うデザインをどういう関係にしてくか、というところで、それぞれのデザイナーが繰り出す技っていうか、やり方ってのが見てて楽しく全く飽きない。
もちろんデザインの分野としてとても魅力的である。上に書いたようにね。
でも、なんでそんなにファイリングの作業が楽しかったのかというと、それだけじゃなくて。
それは、それぞれのデザインの中というか裏というか、そういったとこにあるエピソードを想って楽しくなってたわけなのだ。
そのエピソードというのは、もちろんそのCDのアーティストたちの無茶苦茶な逸話であったりもするし、超個人的な思いでだったりするのだけど。
一枚一枚、とはってくごとに、それらにまつわるエピソードを思い出したりしてると、すこし感傷的になったり、どっかから青春時代をひっぱりだしてる気分になる。
おまえ、そりゃあウソだろー!ありえないだろー!て友達と笑いあったミュージシャンの奇行を思い出す。
これかっこいいよなあ、てギターをたたきつけてる写真について体育に時間に話をしたこともあった。
ああ、このだっさいジャケットのCDはあいつと吉祥寺の新星堂の500円コーナーでみつけたやつだ。
このあたりのCDたちはツタヤの半額クーポン使ってあいつとごっそりまとめ借りした頃のだなあ。
このポーズとメンバーのバランスがたまらん、とかいってひとりで感動しまくっていたこともあった。
そういったくだらないことだけど、とても幸せなエピソードをそれらはもっていて。
音そのものとは、すこし違った角度でぼくを楽しませてくれるのである。
そういった色んな意味でぼくはCDジャケットのデザインというものにあこがれるのだと思う。
最近、この世にCDが無くなる気がして恐い。
否定したい気持ちでいっぱいだけども、無くなる気がしてしょうがない。
いまでもレコードは残ってるので、レコードは消えないだろう。
でもだからといって、CDもぼくはあってほしいのだ。
ぼくらCD世代にはでかいレコードジャケとともにあの小さなCDジャケもやはり必要な気がする。
もしデータで音楽がやり取りされるようになって。
ジャケットもただのディスプレイ上のみの画像になってしまったら。
音楽好きのデザイナーは肩を落とすどころじゃすまないとおもう。
データも便利だけど。
CDをショップに買いにいく!というその行為自体の楽しみを。もうちょっと気づいてもいい気がする。
所詮個人の趣味の問題なのかな。
まあ、だからこそ、自分はない金で必死にCDを買い続けたいと思うのである。