コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

不親切な授業にする努力

2009-10-16 08:24:21 | 
今日の授業「日本言語文化各論Ⅳ」 のプリントを作りながら、なんだか色々哀しくなってきて、もう少し“意地悪”になるべきなんじゃないか、と思えてきた。


この授業は、さしあたり、京伝の黄表紙を読みながら、彼の方法を抽出する作業をしている。
「している」と言っても、今のところ私が解説しているだけの状態だ(今週から“実習”を取り入れる予定)。

みんな面白がっているし、一部の学生は何が問題なのかも理解し始めているように思う。
しかし、一方で、解説されることに慣れきって、聞いて楽しむだけになっている学生も多いのが実情。それは“御意見帳”を見れば察しがつく。


私の授業は“親切”だと思う。
今は古典大系も新刊では手に入らない状態なので、テキストはコピーを配布する事になるから、教科書代がかからない。
スキャン画像を多用し、場合によっては写真集や実物を見せるから、そこそこの“リアリティ”を感じてもらえる。

しかし、そういう“サービス”が、実は、“不必要な満足感”を与えてしまっている気がする。

先週今週のテキストは『御存商売物』。
これには、擬人化された江戸時代の出版物(書籍だけでなく摺り物を含む)が40種類近く登場するのだけれど、学生達の多くは、それらのいずれも、実物は愚か、写真すら見たことがない。実際には、私の研究室と大学の図書館の蔵書をあわせれば、複製をふくめ、かなりの部分は揃えられるはずだ。
で、実際、これまで、この作品を扱ったときは、図書館から関連する和本をごっそり借り出し、私の本とあわせて、教室内で“展示”していた(展示してあっても席に着いたまま見に来ない学生が年々増えたのも事実だな、今思えば)。

今年は、それをやめてみた。
図書館にある本は、自分で検索し、自分で借り出してみればいいのだ。


先週の授業の“御意見”の中に、「知識はないが理解できた」と言うようなことを書いた学生が何人か居る。勿論、「学ぶことの必要性を実感した」と言う学生の方がずっと多いのだけれど。
“解った”と思った学生は、それが悦びに繋がって、自ら貪欲に次を求めるようになってくれれば良いんだけれど、上に書いたように、TVの教養娯楽番組のように、それで満足されてしまうのはとても恐い。
*教養娯楽番組だって、探求心を刺激してくれる良質な物はたくさんある。ただ、日本の番組が解説過剰だという指摘は随分前からあるように思う。考え、行動する力を弱めているんじゃないかな。

「崩し字が読めるようになりたい」というなら、自主ゼミをやってもいい。
けれど、それは、私から誘うことではない。

おなじく先週の“御意見”に「辞書を持ってきた方が良いと思った」というのがある。シラバスの“受講要件”の欄に「辞書を携帯すること」と明記してあるのに、今更こういう事を平気で書いてくる学生を相手にしているのだ。

親切にしてはいけない。
自分で辞書を引かなければ理解できないような、穴だらけの解説にしなければ。


その先に確かに楽しい世界がある。
それだけを見せて、飢えさせる。

「その先は有料」というような商売ではないけれど、自らの努力でしかそこに到達することは出来ないのだし、その努力は“苦労”ではないんだ、と言うことを身を以て識って貰わねば、本当に、学問は崩壊する。

すでに、「そんな面倒なことをするくらいならやめておこう」と言う学生が増殖している気がしてならない。

不親切にならねば……。

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