コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

学ぶ喜びを

2006-04-25 10:00:54 | 
一年生の三週間。

「静岡の文化」を街中で、夜に開講している。
終了後、飲食を共にする学生が多数。これが楽しい。

ハタチ前の、ついこの前まで受験生だった連中の、それなりに背負っている人生が、一つ一つ愛おしい。
気負い、はにかみながら、手探りで仲間を確認していく作業は、ネットや携帯のコミュニケーションとは別物だ。

学問の話を衒いなくする。外国語ネタで盛り上がる。
ずっと、そう言う「学生」で居て欲しいよ。

遊ぶのも結構、さぼったって構わない。
ただ、真面目に学問の話をする奴を煙たがったり、勉強嫌いを売りにするような奴にはなるな。

何しにここに来たのか、それを、ずっと忘れないで居てくれればうれしい。

今年は、何だか授業が楽しい。
それが唯一かも知れない救い。

ありがとう。

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3 コメント

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学問について (Unknown)
2006-04-30 23:35:28
私は人文学部のものです。学ぶ喜びの話になっていたので、お聞きしたいことがあります。

学問は他の人のためにするんですか、それとも自分のためにするんですか?

高校のころ、勉強は自分のためだと言われてきたんですが、最近、そうではないんじゃないかと思っていました。ご意見が聴きたいです。
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遅くなって (コニタ)
2006-05-05 07:52:04
申し訳ありません。

あまりに難しい質問で……。



他の所に書いてることもそうなんですが、私は、余り人様のこと、社会のことを考えて行動する人ではありません。



従って、「あなたは?」、と問われれば、躊躇なく「自分のためです」と言いきれます。

それが結果的に誰かの喜びに繋がるのなら、私だってとても嬉しい。

でも、誰かのために、というのは、出発点にはないのです。



高校生の頃「おまえのためなんだから勉強せよ」と言われたのか、「学問は自分の喜びなんだ」と言われたのかで、かなり違いますよね。



前者の場合、やっぱり学問は辛い物だ、と言う前提がある。別に学問じゃなくても良いんですが、自分がしたいことを追求する。自分のために。私はそれが学問と呼ばれる範疇にあるのです。



社会に貢献するために出来ることも、学問だけではないですよね。私は、福祉でも肉体労働でも、そのことその物が、他者のためになっているとしても、そこに、自分の喜びがあって、それを求めているから出来るのだと思います。いや、生活のため、お金のためだ、と言う人は、お金を儲けることが何よりも嬉しいのでしょう。

何をやってもダメ、と言う人は、何をやりたいんだろう……。これは謎。



結果はついてくる物。目的は、ありがちな言葉で言うなら「自己実現」。
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お返事、ありがとうございます。 (Unknown)
2006-05-05 21:08:35
「私は、福祉でも肉体労働でも、そのことその物が、他者のためになっているとしても、そこに、自分の喜びがあって、それを求めているから出来るのだと思います。」



とても参考になります。

少し、本を読んでいく中で、生きる喜びは、人のためになにかしてあげることだと書かれていました。

何かしてあげたときに、その人が言ってくれる「ありがとう」がその人の生きる力になる、と。



生活するために選ぶどんな職業であっても、相手の喜ぶ顔を見ることで、相手にとっても自分にとっても。喜びが生まれると思います。

私は、教職につこうと思っているんですが、生徒にどうすれば喜んでもらえ、自分も喜べるのかを考える中で、先生のコメントはありがたいです。



ありがとうございます。



ちなみに、誤解のないように書いておきたいんですが、上の表現だと先生と生徒の関係が、売り手と買い手のような、利益を得るような関係のように取れたかもしれないですが、そうではないです。私はどんな職業でも、人と人との、対等な関係だと思っています。
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