一年生の三週間。
「静岡の文化」を街中で、夜に開講している。
終了後、飲食を共にする学生が多数。これが楽しい。
ハタチ前の、ついこの前まで受験生だった連中の、それなりに背負っている人生が、一つ一つ愛おしい。
気負い、はにかみながら、手探りで仲間を確認していく作業は、ネットや携帯のコミュニケーションとは別物だ。
学問の話を衒いなくする。外国語ネタで盛り上がる。
ずっと、そう言う「学生」で居て欲しいよ。
遊ぶのも結構、さぼったって構わない。
ただ、真面目に学問の話をする奴を煙たがったり、勉強嫌いを売りにするような奴にはなるな。
何しにここに来たのか、それを、ずっと忘れないで居てくれればうれしい。
今年は、何だか授業が楽しい。
それが唯一かも知れない救い。
ありがとう。
「静岡の文化」を街中で、夜に開講している。
終了後、飲食を共にする学生が多数。これが楽しい。
ハタチ前の、ついこの前まで受験生だった連中の、それなりに背負っている人生が、一つ一つ愛おしい。
気負い、はにかみながら、手探りで仲間を確認していく作業は、ネットや携帯のコミュニケーションとは別物だ。
学問の話を衒いなくする。外国語ネタで盛り上がる。
ずっと、そう言う「学生」で居て欲しいよ。
遊ぶのも結構、さぼったって構わない。
ただ、真面目に学問の話をする奴を煙たがったり、勉強嫌いを売りにするような奴にはなるな。
何しにここに来たのか、それを、ずっと忘れないで居てくれればうれしい。
今年は、何だか授業が楽しい。
それが唯一かも知れない救い。
ありがとう。
学問は他の人のためにするんですか、それとも自分のためにするんですか?
高校のころ、勉強は自分のためだと言われてきたんですが、最近、そうではないんじゃないかと思っていました。ご意見が聴きたいです。
あまりに難しい質問で……。
他の所に書いてることもそうなんですが、私は、余り人様のこと、社会のことを考えて行動する人ではありません。
従って、「あなたは?」、と問われれば、躊躇なく「自分のためです」と言いきれます。
それが結果的に誰かの喜びに繋がるのなら、私だってとても嬉しい。
でも、誰かのために、というのは、出発点にはないのです。
高校生の頃「おまえのためなんだから勉強せよ」と言われたのか、「学問は自分の喜びなんだ」と言われたのかで、かなり違いますよね。
前者の場合、やっぱり学問は辛い物だ、と言う前提がある。別に学問じゃなくても良いんですが、自分がしたいことを追求する。自分のために。私はそれが学問と呼ばれる範疇にあるのです。
社会に貢献するために出来ることも、学問だけではないですよね。私は、福祉でも肉体労働でも、そのことその物が、他者のためになっているとしても、そこに、自分の喜びがあって、それを求めているから出来るのだと思います。いや、生活のため、お金のためだ、と言う人は、お金を儲けることが何よりも嬉しいのでしょう。
何をやってもダメ、と言う人は、何をやりたいんだろう……。これは謎。
結果はついてくる物。目的は、ありがちな言葉で言うなら「自己実現」。
とても参考になります。
少し、本を読んでいく中で、生きる喜びは、人のためになにかしてあげることだと書かれていました。
何かしてあげたときに、その人が言ってくれる「ありがとう」がその人の生きる力になる、と。
生活するために選ぶどんな職業であっても、相手の喜ぶ顔を見ることで、相手にとっても自分にとっても。喜びが生まれると思います。
私は、教職につこうと思っているんですが、生徒にどうすれば喜んでもらえ、自分も喜べるのかを考える中で、先生のコメントはありがたいです。
ありがとうございます。
ちなみに、誤解のないように書いておきたいんですが、上の表現だと先生と生徒の関係が、売り手と買い手のような、利益を得るような関係のように取れたかもしれないですが、そうではないです。私はどんな職業でも、人と人との、対等な関係だと思っています。