コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

悟りの道は

2005-06-28 14:40:59 | 
ある種のセレンディピティ。
いま、大学院の授業で読んでいる茶の逸話集に、別の本からの引用として出てきた文が、今の私に向けたメッセージのように読めてしまった。


「憂喜心に忘れぬるは便はち是禅」とは、智者の詞也、と西行のかヽれし。げに候へども、憂喜わするヽといふ事は有難かるべし。もしわすれはてなば目出度かるべし。わすれがたきをわすれんとせず、うき時はうしと思ひ、よろこぶ時は喜び、心をすまさんとせず、さとりを得んともおもはず、時代にしたがひ、我おろかなるを知りて、観念観法、心にかくべからず。さとりの道はるばる遠き所也。いたらざるをいたれりとするは正直の道にあらず、おろかなるをおろかなりとしるは、正直の道也。「信を以て恵に代え」といへるをたうとしとおもふべし。濁悪世の観法なるべし 云々

悟ろうと思うこと、悟ったと思うこと、を捨てる。忘れられない感情はそのままにして、その時々を正直に生きること。必要なのはそういうことなんだろう。

肩肘張って、強がって生きるのはやめよう。
自分の心の赴くまま、心が喜ぶことをしよう。

少し話がずれるんだけど、最近、ちょっと仕事を減らそうと思い始めた。
依頼の仕事は嬉しいけれど、自分の能力の限界をちゃんと認識しないと。

で、そうやって、身の丈にあった仕事を、精一杯楽しくやって、仕事以外のこともちゃんと充実させる。
ていうか、仕事が第一であるべきなのかどうか。
もっと、人生そのものを楽しく、幸せにしていく方法はあると思う。

心のままに!

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7 コメント

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お邪魔します (ぬちぐすい)
2005-06-28 23:38:57
古文はあまり理解できなかったんですけど(涙)、コニタさんのコメントを読んで、あ、今の私に向けたコトバだ、と私も思ってしまいました。



とかく頭で考えすぎで、勝手によいとか悪いとか決めてしまってそれにとらわれてしまい、心の揺らぎとか気分の振れを無視してしまったりしますが、そこんとこは、もうちょっと大事にしてあげてもいいかな、と思います。



無理は心身に障りますぅ。



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意外な (コニタ)
2005-06-29 07:27:06
ようこそ!

私も原文をちゃんと理解してないカモです。

でも、ま、そこから感じたこと、で良いかな、と。



無理してるんですか?

なんか、楽しそうで、素敵だなぁ、って思いましたが。

あぁ、でも、初心に帰って、何がしたかったんだろう、って思うときはありますね。

でも、そうやって転がってきて、今の形が居心地良いならそれで良いし、無理してるなぁと思ったら辞めても良いし。

相手もいることだから、簡単じゃないけど、いざとなったらそういう手もあるよ、って思って生きていけば少し楽かな、とか。





それにしても、先生!! 揺らぎながら仕事しないで下さいね!!
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Unknown (くてくて)
2005-06-29 12:55:54
>仕事が第一であるべきなのかどうか。



人生のベースはなにか?

「何を優先させるのか?」というのは時間の優先順位の

ことなんじゃないかと思います。

いろいろあればいろいろ見えてくる、ですね。

人生楽しく。梅雨は梅雨らしく。









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おやおや (彦星)
2005-06-30 11:45:22
ここに来ると

や、お久しぶりね、の人に一度に会えるからいい。



わたしも上の文章を読んで、

いろいろ考えます。

この言葉を抱えながら、更に前へ進みます。



この言葉のことではなく、

目先に突きつけられた言葉に気をとらわれ

速度が落ちるということは人間の常。

つまらない言葉は踏みつけて前へ進のみ。
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同感なり (マシマ)
2005-06-30 15:47:19
間違える道こそが「そのひと」を表しているのだから

間違えない人生は味気ない。

出来るだけユニークな間違え方をした人が

より福与かな人生を歩める事は

間違い無い!
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不思議ですね (コニタ)
2005-06-30 22:27:42
みんなが、一つの文章から色んな事を考える。

実は、この本の作者も、これは茶道に応用できる、と思った、と書いています。

ある種の真理ですね。





ところで、不勉強で知らなかったんですが、最後に出てくる「以信代慧(いしんだいえ)」は、智慧の不完全性を認めた上で信じよ、と言う教えだそうで、それはそれでなるほど、と思ったり。

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Unknown (あこ(社会人学生))
2005-07-17 13:05:57
はじめてここにお伺いして、この話に当たって、びっくり。(うれしい、私も授業に参加してました)



>智慧の不完全性を認めた上で信じよ



ちょうど、Y先生の院の授業で毎週、仏教の四諦論について教えていただいたことと同じでした。



先生が言われるには、「愚か」なことを本当に、体が震えるほど、自らが「わかった」ときに、



マイナス方向に向かって向かって、行くのですが、行きつくと、実は、この愚かな私は宇宙全体(法)と一体だった!自分の愚かな頭で分けて、客体と主体があると思い込んでいただけなんだ、



実はこの存在自体そのままがすばらしく尊い。

(愚かなわたし)



ということを教えていただいたところでした。私は茶道をしているのですが、(学問をされる方々は学問で、そこを目指されていると思いますが、私の場合は茶道で)



自分自身が、目の前に有るもの(他、人でもものでも現象でも)を見ると、純粋にそれ自体を認識するのでなく、



人間は「好き嫌い」などの感情、欲、自分(「自分」「自分」といつも我を張って自分ばかり前に出そうとする無意識層の仏教でいうとマナ識)が即座に、現れてしまうそうです。



私は、茶道がなぜ好きなのか?悟道だというが、どんなことなんだろう??とわからないまま続けてました。



授業で、この「マナ識」のことを聞いて、私は、ここがきっと巨大なんだなあ、自分、自分、自分、という執着にとらわれすぎているから、逆に茶道に惹かれるんだ、と、この言葉を教えていただいたときに、すごくうれしくなってしまいました。



(欲が少なくなったとか、解決したわけではないのですが、自分のマナ識の存在がわかり、なんとなくうれしい気持ちになったのでした)





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