2005年09月10日
ロシア滞在10日目
【今日の写真 ペトロパブロフスカヤ城の城壁から眺めたペテルブルクの町】
今日の主な動き
08:00頃 起床
12:03 出かける
12:11 インターネットカフェ
13:32 カザン聖堂前
14:07 大学近くの通り
14:48 文学部図書館の建物
15:05 大学に隣接する所で昼食
16:59 ペトロパブロフスカヤ城
18:30 ゴリコフスカヤ駅
18:52 マヤコフスカヤ駅
19:06 帰宅
今日は結構寒くて、風が冷たい一日だった。午後から、1年間日本に留学していたジェーニャさん、H谷さん、A子とともにペトロパブロフスカヤ城という所に観光に出かけた。
ペトロパブロフスカヤ城の中には1712年に建てられたペトロパブロフスキー教会という建物があり、ニコライ2世(※1)を含むほぼ全てのロマノフ朝の皇帝がここに埋葬されている。
教会の中を見ながら、ジェーニャがこの城や教会の歴史を主として日本語で教えてくれた。それによると、この城はピョートル大帝(※2)の時代、北方戦争(※3)の際の要塞として作られた。ロシア革命の時期には外務省がおかれ、レーニンもここから指令を出していたという。帝政が打倒された後、ペテルブルクは国境から近いために首都の地位を返上することになったそうだ。
有料で城壁に上ることもできる。城壁からはネヴァ川の向こうの町の様子が一望できた。
ロシアの他の都市を見たことがない私は比較できないが、300年前に作られたこの都市は、ロシアでは一風変わったヨーロッパ風の町並みとして有名である。
ペトロパブロフスカヤ城を出て道路を横断するとき、歩行者用信号には青信号の残り時間をカウントする表示がついていた。残り10秒を切り、H谷さん、A子と私は焦るが、ジェーニャは急ぐ気配なし。とうとう残り1秒になったが、「(信号の色が)ミドリだから」と日本語で一言。結局渡る途中で赤になったのだが悠々と横断したのだった。これには3人で笑うしかなかった。
帰宅すると、レーナの妹が夕食を作ってくれた。先日も食べたペリメニという餃子のようなもの。いつも夕食には白いヨーグルトのようなものが登場し、スープに入れたり、ペリメニにつけたりして食べるのだが、なぜヨーグルトが出てくるのか不思議だった。そこで「いつもペリメニにヨーグルトをつけて食べるのか?」と聞いてみた。すると彼女は一瞬「はぁ?」って感じの顔をしたが、「これはスメタナだ」と笑って教えてくれた。スメタナとは、サワークリームのようなもの。この10日間、私はヨーグルトだとばかり思っていたために、アホなことを聞いてしまった。
ペテルブルクには全て回りきれないくらい多くの観光スポットがあるが、その多くに繁栄と栄光の、そして時には暗く残酷な歴史がある。観光地を回りながら、それらの歴史を紐解いていくことも一つの学びのあり方であり、楽しみでもあると思う。今日ジェーニャの説明に登場した北方戦争も、今までは机上でしか触れたことがないはるか遠い世界の出来事だったが、こうしてその最前線を訪れたことで、ピョートル大帝に一歩接近したような気分になった。17世紀のオランダに留学し、その繁栄の絶頂期を自ら体験してきたピョートル大帝には、ヨーロッパ諸国に追いつき追い越せという、幕末から明治維新の日本に類似した問題意識、危機感があったのだろう。今でこそ観光地として世界に名を馳せているペテルブルクだが、ピョートル大帝はそんな思いでこの町の建設に熱意を注いだに違いない。ペテルブルクは名実ともに、ロシアとヨーロッパを結ぶ玄関なのだ。
※1:ニコライ2世 Nicholas Ⅱ(1868~1918)1894年ロシア皇帝に即位。ロマノフ朝最後の皇帝。専制政治を継承。ロシア革命で退位し、一家全員銃殺された。
※2:ピョートル大帝(ピョートル1世) Piotr Ⅰ(1672~1725)初代ロシア皇帝。官僚制、常備軍の整備など西欧的諸改革を断行。サンクトペテルブルクを建設し、1713年に遷都。ロシアの近代化を進めた。
※3:北方戦争(文献によっては大北方戦争とも)(1700~1721)スウェーデン王カール12世がロシア、ポーランド、ノルウェーに対して挑んだ戦争。スウェーデンは敗北し、バルト海東岸、南岸の領土をほとんど失う。ヨーロッパ諸国にロシアの存在感を示す出来事となった。
ロシア滞在10日目
【今日の写真 ペトロパブロフスカヤ城の城壁から眺めたペテルブルクの町】
今日の主な動き
08:00頃 起床
12:03 出かける
12:11 インターネットカフェ
13:32 カザン聖堂前
14:07 大学近くの通り
14:48 文学部図書館の建物
15:05 大学に隣接する所で昼食
16:59 ペトロパブロフスカヤ城
18:30 ゴリコフスカヤ駅
18:52 マヤコフスカヤ駅
19:06 帰宅
今日は結構寒くて、風が冷たい一日だった。午後から、1年間日本に留学していたジェーニャさん、H谷さん、A子とともにペトロパブロフスカヤ城という所に観光に出かけた。
ペトロパブロフスカヤ城の中には1712年に建てられたペトロパブロフスキー教会という建物があり、ニコライ2世(※1)を含むほぼ全てのロマノフ朝の皇帝がここに埋葬されている。
教会の中を見ながら、ジェーニャがこの城や教会の歴史を主として日本語で教えてくれた。それによると、この城はピョートル大帝(※2)の時代、北方戦争(※3)の際の要塞として作られた。ロシア革命の時期には外務省がおかれ、レーニンもここから指令を出していたという。帝政が打倒された後、ペテルブルクは国境から近いために首都の地位を返上することになったそうだ。
有料で城壁に上ることもできる。城壁からはネヴァ川の向こうの町の様子が一望できた。
ロシアの他の都市を見たことがない私は比較できないが、300年前に作られたこの都市は、ロシアでは一風変わったヨーロッパ風の町並みとして有名である。
ペトロパブロフスカヤ城を出て道路を横断するとき、歩行者用信号には青信号の残り時間をカウントする表示がついていた。残り10秒を切り、H谷さん、A子と私は焦るが、ジェーニャは急ぐ気配なし。とうとう残り1秒になったが、「(信号の色が)ミドリだから」と日本語で一言。結局渡る途中で赤になったのだが悠々と横断したのだった。これには3人で笑うしかなかった。
帰宅すると、レーナの妹が夕食を作ってくれた。先日も食べたペリメニという餃子のようなもの。いつも夕食には白いヨーグルトのようなものが登場し、スープに入れたり、ペリメニにつけたりして食べるのだが、なぜヨーグルトが出てくるのか不思議だった。そこで「いつもペリメニにヨーグルトをつけて食べるのか?」と聞いてみた。すると彼女は一瞬「はぁ?」って感じの顔をしたが、「これはスメタナだ」と笑って教えてくれた。スメタナとは、サワークリームのようなもの。この10日間、私はヨーグルトだとばかり思っていたために、アホなことを聞いてしまった。
ペテルブルクには全て回りきれないくらい多くの観光スポットがあるが、その多くに繁栄と栄光の、そして時には暗く残酷な歴史がある。観光地を回りながら、それらの歴史を紐解いていくことも一つの学びのあり方であり、楽しみでもあると思う。今日ジェーニャの説明に登場した北方戦争も、今までは机上でしか触れたことがないはるか遠い世界の出来事だったが、こうしてその最前線を訪れたことで、ピョートル大帝に一歩接近したような気分になった。17世紀のオランダに留学し、その繁栄の絶頂期を自ら体験してきたピョートル大帝には、ヨーロッパ諸国に追いつき追い越せという、幕末から明治維新の日本に類似した問題意識、危機感があったのだろう。今でこそ観光地として世界に名を馳せているペテルブルクだが、ピョートル大帝はそんな思いでこの町の建設に熱意を注いだに違いない。ペテルブルクは名実ともに、ロシアとヨーロッパを結ぶ玄関なのだ。
※1:ニコライ2世 Nicholas Ⅱ(1868~1918)1894年ロシア皇帝に即位。ロマノフ朝最後の皇帝。専制政治を継承。ロシア革命で退位し、一家全員銃殺された。
※2:ピョートル大帝(ピョートル1世) Piotr Ⅰ(1672~1725)初代ロシア皇帝。官僚制、常備軍の整備など西欧的諸改革を断行。サンクトペテルブルクを建設し、1713年に遷都。ロシアの近代化を進めた。
※3:北方戦争(文献によっては大北方戦争とも)(1700~1721)スウェーデン王カール12世がロシア、ポーランド、ノルウェーに対して挑んだ戦争。スウェーデンは敗北し、バルト海東岸、南岸の領土をほとんど失う。ヨーロッパ諸国にロシアの存在感を示す出来事となった。
分かりにくい名前で一瞬誰かと思ったけど3秒後に分かりました(笑)
モスクワの地下鉄は扉がないのかー。今度モスクワに行く機会があれば見てみるね。
実はペテルブルクにも扉なしの路線があるんだ。
「ザ・ストロービエ」ってまさかホントにロシア語やってるわけ!?
素晴らしいです。хорошо!
できれば俺がいる間にロシアに来ておくれ。待ってるぜ!!