それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

『わかったつもり-読解力がつかない本当の原因』(西林克彦著、光文社新書222)を読む

2017-06-04 04:37:06 | 教育
 著者は、東京工大理工学部を卒業後、東大大学院教育学研究科に進んだ人であり、宮城教育大学教育学部教授を勤めていると、筆者のプロフィールには書かれています。(2005時点)
 国語教育は、文系の学問と実践であると考えられることが多い。それは、国語=文学という文脈でとらえられがちであることと関係があるのでしょう。しかし、国語教育は、単に文系の学問、実践であるというわけにはいきません。私のように、説明的文章の評価読み(批判読み・クリティカル・リーディング)の研究と実践を進めてきた者にとっては、国語教育は、文系に限定されるものでもなく、また理系でもない世界です。文系の思考力や知識も文系のそれも要求される、総合的な性格のものというしかありません。
 著者が、理系学部を出た後、教育系の大学院に進み、読解力に関わる著作をものしたことには、このような観点からも興味が持たれると同時に、本書は、文系の頭しかない人間の著書・論文からは読み取れない価値ある考え方や知識が獲得できて、非常におもしろい読み物でした。
私たち国語教育の実践者および教室で付き合ってくれる児童・生徒は、いずれも、教材を読んで「分かったつもり」という状態に陥ることが多い。著者は、わかったつもりとは、分からないことがない状態であり、ある種の安定状態であるといいます。もっとわかりたいと思わない、分からないことがあるということとは無関係の状態であるといいます。このような状態は、自分自身の読みを振り返ってみれば、体験的に同意できることではないでしょうか。特に、指導者の場合、一読して分かったつもりになることが、教材研究の深化の妨げになっていることが多く、そのような教材研究や読みから、児童の目を見開かせるような読みの指導ができるはずもありません。
 分かったつもりからの脱出方法が問われますが、著者は、まず、自分自身の「わかったつもり」状態を認識することの必要性を指摘します。敵は自分自身だというわけです。なぜわかったつもりという状態に陥ったのかということに原因の究明も必要になりますが、それについては、次のように述べています。
 まず、どのような時に「わかったつもり」に陥るのかを、文章構成に由来するものと、読み手の既存のスキーマに影響されるものとの二種類があるとしています。
・「文章の構成に読み手が惑わされた『わかったつもり』
  『「結果から」というわかったつもり』
『「最初から」というわかったつもり』
『「いろいろ」というわかったつもり』
・読み手の既存のスキーマによる『わかったつもり』
『全体に当てはめられやすいスキーマ』
『部分に関して当てはめられやすいスキーマ』
 ここに言う「スキーマ」とは、「あることがらに関する、私たちの中に既に存在しているひとまとまりの知識」(p.42)であると規定します。また、特定のスキーマを機能させるためには「文脈」が必要であると言います。「文脈」については、次のように説明しています。
 「文脈とは『物事・情報などが埋め込まれている背景・状況』」(p.51)であり、その「背景・状況」によって、ものごとの「続きぐあい」が生じるという説明をしています。
「文脈」と「スキーマ」は、西林氏の著書を読む上でのキーワードになりますので、注意しておいて下さい。
 次に、わかったつもりを抜け出す過程(授業過程と言ってもよいでしょう)」を、次のように四つに整理しています。
 ①「わかったつもり」の状態
 ②新たな文脈による、部分からの新しい意味の引き出し
 ③引き出された意味による矛盾・無関連による「わからない」状態
 ④新たな無矛盾の関連づけによる「よりわかった」状態
 私の「評価読み理論」でも「わからない」という反応を読み深めの契機として重視しますので、併せて考えてみて下さい。
著者の主張の最後に述べられる「答えは一つではない」という趣旨の発言も、国語教育関係者としては重く受け止めます。理由・根拠が成立する限り、答えは複数ありうるということは、多くの児童・生徒を救う手がかりになることでしょう

昨日の新聞に、スポーツ庁が、国民のスポーツに関する実態調査の結果を踏まえて、スポーツの実施率の向上を数値目標を掲げて推進しようとしているというので、話題にもなり、また批判を浴びている。
 こういう、日々生じる様々な事態をどう理解するのかという問題に関しても、「わかったつもり」の状態ではいられない。プレミアム・フライデーを設定したり、子どもの休暇に口をだしたり、節操もなく個人の領域に侵略してくる国家、政府の行為を、「そうなのか」という状態だけでなく、「わからない」ということを出発点にしてとらえ直すことができるような能力を育成することは喫緊の課題ではなかろうかと思います。「○○年までに、納豆好きの国民を65パーセントに増やす」などということを国が政策として提案すれば反発するでしょう。少なくとも、私は納豆を拒否します.最近の国や世界の状況には、首をかしげるようなことが多すぎます。「……ファースト」という情緒的、かつ偏狭な流れにも違和感があります。アンケートの「どちらとも言えない」という反応の多さにも疑問があります。論理を超えた不合理な出来事にも対応しなくてはなりません。こういう諸問題への取り組みの能力を育てることが教育の重要課題であるとすれば、「わからない」状態をもっと大切にしなくてはなりません。

 西林氏の著書は、かつて読んだ記憶があったのですが、最近新たに購入したものを読んで感心しました。読み終えて書棚に収めようとして、既に一冊、存在していることに気づきました。最近、こういうことが増えましたが、ブックオフで購入するのでダメージは、大きくはありません。ブックオフの商法には、著作権上の問題があるといいますし、そもそも経営が行き詰まっているとも言いますが、古書店は昔から存在するものだし、余計な分野に手を広げずに図書の販売とせいぜいCDに限定してがんばれば、まだまだ大丈夫とも思っているところです。

日本の教師は、世界的に見ても忙しすぎるようですが、それが読書をしない理由にはなりにくいと思います。読書は持て余る時間の中でのみ行う行為ではありません。魂・心の食事です。忙しくても食事はするでしょう(食事もできないほど忙しい職場は、最近よく問題にされる「ブラック」な職場ですので、論外ですが).一日一ページでも「本」を読んで、他者の考えや感性に触れて下さい。児童は、「先生の言うようにはしないけれども、するようにはする。」と言われます.最大の配当時間の中で最大の位置を占める「読むこと」の指導のためにも、本を読む先生でいて欲しいと願っています。