それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

木製ストロー?

2021-03-28 01:29:20 | 教育

 かつて、プラスティック製ストローの替わりに、金属製のものを使用してはどうかという提案があり、本ブログに、その危険性に触れる内容の書き込みをした記憶がある。環境保全のための新聞への投書だったと思う。悪意のないものであったが、たぶん高価な製品になり、老人や子どもには極めて危険な存在になるであろうことが念頭にない提案であった。

 つい先日、今度は木製のストローを製作しているとの報道があり、またしても善意ではあっても迷惑な提案だと思い、書き込みをしている次第である。製品の構造は、おそらく鉛筆の芯の部分を大きく空洞にし、軸の厚みを極限まで薄くしたものであろうと推測される。

 ストローは、幼児、老人には便利な存在であるし、多くの若者にとっても移動しながら使用することの多い物である。固い木製のストローを咥えていて、転んだり、ぶつかったりすると、使用している本人はもとより、周囲にも迷惑をかけることが予想される危険な存在であるばかりか、繰り返し使用するには、衛生面でも問題があり、推薦できるものではあるまい。今、世界中で話題になっているSDGsに照らしても適切な提案とは言えない。

 世の中に、なぜこんな回りくどい提案、安易な思いつきの提案が出現し、メディアが取り上げるのであろうか。

  安全性、衛生面、製造技術、経費、環境への影響等の観点から、ストローの原型である「麦わら」に回帰してはどうだろうか。長い麦わら(機械でカットする前の)の入手が難しいというなら、せめて紙製のストローにしてはどうだろうか。使い捨てのストローは、さして頑丈である必要はない。昔の人の工夫や知恵の中には、捨てがたい物があり、将来のためには、時々後ろを振り返ってみることも必要なようだ。


ステイ・ホームと読書

2021-03-08 13:12:36 | 教育

  新型コロナ対策として、家屋内にとどまらざるをえない生活が続き、人々は、閉塞感に悩まされ、鬱状態に陥ることも少なくないという。私の身の回りでも、ほぼ毎日、散歩に出かけないと心身に不調を来すという人達が少なくない。

 ステイ・ホームは、それほど不自由な生活様式なのであろうか。私の場合は、極めて快適な生活であるから、活動を制限されて窮屈という不満が理解できないでいる。

 自宅内での私の活動の中心を占めるのは「読書」である。暇さえあれば本に向かっている。ただ、天気の良い日は、たまに友人の誘いに乗って団地内外の散歩をし、庭に植えた果樹(ブドウ、サクランボ、リンゴ)の手入れをするが、基本的に出不精の私にとって、コロナ前と現在の生活様式に変化はない。ただし、引退前と引退後の生活の仕方は大きく異なる。それは仕事のための外部に出かけての生活と、自分のための自宅での生活の違いである。明日の仕事の準備、当日の仕事、仕事場までの移動、疲れ切って帰る道のり等々なすべきことや耐えるべきことが数多く存在する。今、雨が降っている。70歳になるまでの現役の頃には、「もう日付が変わったので寝なくてはいけない。読みかけの本も読むのを止めよう。書いている途中の原稿も止めておこう。PCの修理も中断しよう。明日は雨の中を移動しなくてはならない。明日も、満員電車であろう。」等、いやになるほどの障害や仕事があった。引退後は、これらの多くの制約が綺麗さっぽりなくなった。基本的に、すべてが自分のために使えるえ時間になった。その時間を使う場所は自宅ないし、自宅周辺であり、今日の自粛生活と同じである。したがって、今日のステイ・ホームは、私にとっては、「解放」そのものであり、鬱屈、窮屈などとはほど遠い、快適な性格のものである。

 さて、私のステイ・ホームなる隠退生活の中心を占める  読書、「本を読む」という行為は、決して閉じられた孤独な行為ではない。しかし、ややもすれば、本という価値あるものが、読み手の空っぽな頭に流れ込んでくるというような受動的行為のイメージで捉えられていないだろうか。未知の内容、極めて高度なんだ内容の読み物の場合に、それに近い読みがまったくないとはいえないが、それは極めて例外的である。

 ほとんどの読みは、作者・作品と読み手の交差する点、交わる場において成立する。いわば「双方向的行為」である。読み手である私たちが働きかけない限り、読書は始まらない。

  読書の対象たる作品や文章とは不思議な存在である。どんなに古い紙に書かれようが、、印刷されようが、本の大きさが異なろうが、作品・文章の本質は不変である。にもかかわらず多種多彩な読みが存在するのはなぜであろうか。言うまでもなく、読み手の側が多様だからである。その多様性は、個々人の知識や能力、目的等の諸状況、時代的特性等々、多くの条件に左右される。対話の一方である読者が変化すれば、読みの対象たる作品・文章と読者との相互関係(対話)も多様性を帯びることになる。対象は何ら変わらないのに新しい対話が実現するというわけである。

 例えば、私は、高校時代に学校の図書館から借りだして、『夏目漱石全集』全巻を読破した。『明暗』さえも制覇したと思っていた。ところが、現役を引退して時間ができ、近年、全集のうちの何巻かを走り読みして愕然とした。高校生時代の私は、これらの作品とどのように対話したのであろうか。

  読み手の事情、実態に応じて、対話の相手としての作品・文章、作者、筆者は立ち現れる。文章・作品は、様々な対話者(対話の相手)の出身地である。私たちは、同じ作品や文章を読んでも、私たちの経験や能力、読みの目的、置かれた状況等に応じて、その時々の自分にふさわしい在りようで出現し、対話に応じてくれる。

 「対話」としての読書は、極めて積極的、主体的な行為である。読書は、決して受動的、消極的な行為ではない。自分の経験に即して言うなら、次のようになろうか。

 まず、読み物を選択するに際して、関心や必要のある分野や種類の中から、読み物を決定する必要がある。教科書教材の読みは、この行為が欠落しているので、主体的な読みを開始しにくい。次に選ばれた読み物に対しては、そのタイトル、作者・筆者、さらには目次を見ながら、本文を想い描いたり,予想したりすることになる。選択したものが複数存在する場合は、比較、順序という活動が加わる。目次に触れるだけでも、筆者・作者の執筆意図や思考構造を想像し、その段階での評価を下すことは可能であるし、実行しなくてはならない。

  本文を読む段階では、さらに読者による活動は盛んになる。文字や挿絵を手がかりに、場面や人物の表情や心情を想像したり、具体的事象を概括したり、前後の関係、現実との関係を把握したり、先を予想したり、同意したり、書き手に対して疑問や反感を抱いたり、めまぐるしく反応することになる。この反応こそが読むということなのである。
 
 世の中には、いろいろなことをもっともらしく主張する人がいる。国語教育の中には三読法なる指導法があり、通読、精読、味読で構成されるその読みの段階のうち、味読では読者の反応を認めるものの、それに先立つ読みは、読み手の主体的反応である意見や感想を禁じ、自己を空しくして、作品・文章を受け入れることを要求するという異様な方法が定着している。四書五経や『ターヘルアナトミア』の解読ではあるまいに、読書本来の読み手による主体的、創造的な活動を禁じ、読者の息の根を止めた最後の段階に、「さあ、味わいなさい」と無理、無情な要求をすることが定式化している。

 今日の教科書教材は、一読してその内容の大半が理解可能なレベルのものである。生活における読みで、三読を原理とするような異様なことがどれほどあろうか。実の場に生きることのない読みに多くの時間を割き、読書嫌いを産む教育を、「読書をしない、読書の喜びを体験していない教師」が展開しているのではなかろうか。大いなる無駄としかいいようがない。自由読書として読み、感動した作品を、教科書教材として再会し、違和感を抱いたという学習者の反応に触れることが少なくないが当然の反応であり、告発でもある。{三読法の不自然さを批判する「一読法、一読総合法」なる主張があるが、これも三読法批判に忙しく、窮屈な読みになっている。)

  少々脇道に逸れた。読書という作者・筆者、作品と読者との活発な相互関係に戻ろう。「読書」は「対話」である。読み手によって選ばれた相手との対話である。選ばれた相手は、読者の呼びかけに応じて答えてくれたり、問いかけてくれたり、無視したり、拒否したりという様々な対応をしてくれる。真面目に選んだ相手は、実の場における「手強い」存在に該当し、安易に選んだ相手は、それなりの存在である。

  不変の存在のように想定されながら、作品・文章およびその生産者たる作者・筆者は、読み手の置かれた状況、成熟度、目的等に応じて、多様な姿を見せる。つまり多様な対話を展開してくれる。対話は固定していない。このことを再確認しておこう。

 つい2,3年前まで、読書の対象は、未読あるいは新刊に限定していた。書斎、図書室は本で足の踏み場もなくなった。そこで、何千冊もある蔵書の中から数冊を選んで、再読してみて驚愕した。すでに読んだはずの物が、未読書と同じ反応を引き起こしたのである。こういう内容の本であったのか、こういうことが書いてあったのか、こんな個性のある見方をしていたのか、この考え方には異論があるぞ、など新しい対話が生まれたのである。以来、新刊書を求めることに消極的になった。生きている間に,蔵書数千冊との対話が完結しそうにないという焦りを覚える。過去の読み手としての私は,ほとんどの場合、今の私とは別の存在であったことを実感する。

 朝から晩まで読み続けても,私の読書行為は完結しそうにない。つまり,少なくとも数千人との対面・対話をしなくてはならないからである。ステイ・ホームという状況は,読書という対話には最適である。夕方には「人疲れ」を覚える読書(対話)は、鬱屈、閉塞とは縁がない。散歩や買い物、物見に出かける必要も余裕もない。さらに,いやな相手に出くわした折には,即座に対話を中止して付き合いを止めても,実社会におけるような問題は生じない良さがある。ただ、体力の衰えだけは覚悟しなくてはならない。一人を楽しむのは生を終えてからか……。