それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

この表現は正しいか

2020-05-26 22:07:29 | 教育

 安倍総理は、他の閣僚の多くと違って、答弁をするときも演説の時も、原稿を読み上げるというスタイルを取らない。その点は立派だと思うが,何しろ饒舌、多弁であり、一つ一つの言葉が軽い。時に羽よりも軽い。かつて「カンナくずのよう」に軽いと評された総理もいたが、似ているところがある。

 先日の非常事態宣言解除に向けてのスピーチでも饒舌であったが,その中に、
 「新しい生活様式の回復」
という表現があった。こともあろうにテレビのスーパーにくっきりと表示もされた。

 「新しい」ものなら「回復」ではなく、「創造」なり「確立」なりであろう。翌日の新聞に掲載されたスピーチの内容を見ると、「新しい生活様式を作り上げる」という表現もあり、全体的に誤っていた訳ではないことが分かるが、「回復する」という表現がなかったわけでもない。.スーパーとして取り出したテレビ局にも問題があるが、多弁になると不用意な言葉も出てくる。なお、答弁等でかならず出てくる「……の中において」も、あやしい表現である。

 かつて大学の新入生に対するオリエンテーションの席で、同僚の一人が、「きじゃくになる」と言った。あっ、やってしまったと思って文書を確認すると、案の定、「脆弱」であった。「脆」の文字構成に罪がないとは言えないが,誤りは誤りである。聴いている新入生はだれも気づかないか,気にしていないかという状況だったのが可笑しい。

 留学歓迎の席で,責任者である教授が挨拶をした。
 「……のウズチュウにある。」と、しっかりした音量で語りかけた。留学生は、そもそも全体の内容がわからないようで事なきを得たが、「渦中」である。こういう間違いには初めて出会った。留学生の中には,日本人よりも正しい日本語の使い手もいるので,日本人の名誉のためにも,心すべきである。

 テレビで,骨の劣化に関する健康番組を放映していた。
 専門家である医師の言葉の中に、
 「骨の劣化に寄与する」という表現があった。「寄与」とは、プラスの結果を生み出すのに貢献することだと思っていたわが身は衝撃を受けた。医学界では、マイナスの結果の場合も「寄与」というのだろうか。だとすれば日本語の誤用というべきではなかろうか。そもそも「寄与する」などと小難しい表現をせずに、「劣化につながる」「劣化の原因になる」などではいけないのか。 

  新型コロナ感染の初期症状の一つに、「味覚、嗅覚の異常」というのがあるらしい。花粉症の私などは、年中、嗅覚異常でコロナ感染を疑われそうであるが,問題は、「嗅覚」の発音である。物々しい顔のコメンテーターが、「シュウカク」と言って,コメントの内容の信憑性をぶち壊す例が見受けられた。常用漢字か否かは別にして、コメンテーターとしての見識の、いや常識の問題であろう。

  自己反省をこめて言うのだが,最近、漢字の書字能力が低下している。読字力は読書三昧の生活のおかげで問題はないが、パソコン多用の弊害で,簡単な漢字が書けないことがある。かつて、「ワープロを使うようになってから漢字が書けなくなって困っている」という相談を受けて,一笑に付したものだったが、今は大いに反省している。手書きをしないと書字力は,必ず低下する。これは間違いない事実である。


SNS炎上の一因

2020-05-20 22:24:23 | 教育

 (言語)表現には、自分自身に対して行うもの(自己内対話)と、他者に向けて行われる
対他コミュニケーションのためのものがある。

 前者に該当するのは、日記や私的随想(エッセイ)等であり、後者に含まれるものには、説明・解説や意見・主張、論説などがある。

 身構えて、慎重に行うのは、言うまでもなく後者である。それは表現の対象が他者だかだからであり、当然のことである。

 では、SNSにおける表現はどちらに属するものであろうか。SNSの最初のSは、socialであり、「社会」という他者との関係を組み込んだ言葉である。SNSで発信される情報は多様であり、確かに目配りの確かな、社会的に見ても客観的で説得力のあるものも存在するが、とても社会的とは言えない、つまりパーソナルな思いや感想を素朴に,時に不用意に発出してしまったものも多数存在する。そして炎上の憂き目にあうのは、このような個人的な感想や思いの場会が多い。他者意識の希薄な,不用意な表現になりがちだからである。

 個人的な日記に何を書こうと他人の知ったことではない。過激なことも、実行すれば犯罪になりそうなことも、自己の内部で行われ,完結するのなら問題はない。弱い存在の我々は、このような表現によってカタルシスを行い、辛うじて生きているという側面もある。

 しかし、不都合な,個人的な思いが,外部に向けて発信されることがある。それがSNSであることが多く,炎上につながるのである。コンピューターやスマートフォンを操作する際に,他者を意識することは少ない。意識する場合も、多くは気心の知れた仲間であることが多く,他者意識は希薄である。情報機器のむこうに、緊張して向かい合わなくてはならない情報の受け手がいるという厳しい関係があることは稀である。そこで、日記に書くような極めて個人的で偏った発言を、ついつい漏らしてしまうことになるのである。政治家が、後援会などで、つい気を許して,不都合な内面を吐露して問題になるのも,全く同じ構造である。「いいね」を押すのも、日記に記す感想ではなく、他者に見られている行為だと考えるべきである。

 SNSに書き込む情報は自己内対話的なものであっても、その機能はsocialであり、部屋の窓を開け放って、大声で,世間に向かって日記を読み上げているのと同じことなのである。時に,作家による日記の公開があるが、カーテン程度の緩衝装置はそなわっているから騙されてはいけない。


「見出し」の読み方

2020-05-15 23:40:30 | 教育

 5月10日のM新聞朝刊、社会面の記事に、新型コロナウイルス対策の最前線である保健所職員たちの過酷な実態に関するニュースがあった。その一部は以下の通りである。

 「症状や体温、直近の行動歴など必要な情報を聞き取り、PCR検査の要否や病院での受診を検討する。しかし関係者によると、対応に不満を持つ市民から『俺を殺す気か』などと罵声を浴びることもあるという。」

 保健所の応対窓口の混乱は、次の通り、尋常でない。

 「4台の電話は午前9時の相談開始からひっきりなしに着信音が鳴る。多い日は健康相談を中心に50件を超え、応対は1件あたり1時間以上に及ぶ場合もある。」

  さて、このような事態をどう把握し、どう意味づけてニュースにするのか。記事には「見出し」というものがあり、記者、編集者の意図を端的に表している。

 この場合、大中小三つの見出しが付けられている。
 「中見出し」は、「法改正で統廃合、弱体化」と保健所の機能の弱体化を示し、「小見出し」では「疲弊する保健所職員」として、職員に寄り添っているようだ。

 読者にとって刺激的な「大見出し」は「『殺す気か』牙むく市民」である。不安を抱える市民、国民が、窓口である保健所に駆けつけたり、電話をしたりするが、なかなか対応してくれない、または電話がつながらない。コロナの恐怖に駆られて切羽詰まった状態である。声を荒げる人もいるだろう。そういう状況を、市民が「牙を剝いている」と表現するのが適切であろうか。無法、違法な行為と言いきれるだろうか。なぜ、「苛立つ市民」「不安を募らせる市民」という穏やかな見出しにしなかったのか。

  ニュースは「作られる」のである。トランプ大統領が、しばしば「フェイク」だと怒るが、ニュースは事実そのものという実態のないものの伝達ではなく、取材者、編集者の特定の意図によって作られるのである。したがって、不利益をこうむる者にとっては、「誤報」「フェイク」でしかないものも、屡々存在するのである。しかし、M新聞が市民、国民を敵視しているとは思えない。では、なぜこのような見出しを付けたのか。それが判らない。ただ、保健所職員に寄り添っているということと、結果として市民、国民に不快感を与えたという事実だけが残るニュースの作り方であった。


「家に居る」ということ

2020-05-06 12:13:34 | 教育

 新型コロナ対抗策の1つが、「家に居ること」だという。それは論理的には正しいことであろうが、どうも評判がよくない。

 ストレスが溜まる、体力が落ちる、家族内での諍いが頻発する、食事の世話が面倒、子どもに手がかかる、在宅看護の困難、等等、数え上げればきりがない。

 が、これとよく似た反応は、連休、夏休み、定年退職後、単身赴任の終了時等の反応と酷似している。つまり、コロナ禍という状況下に限らず、家族の全員ないし多数が在宅することから生じる不都合である。しかし、最近は、在宅に起因する肥満を「コロナ太り」などと称して危機感や興味を喚起する輩も出現している。「コロナ詐欺」という情報も目にした。メタボも詐欺もコロナ限定ではなかろう。

 危機感をあおるのは言うまでもなくメディア、特にテレビのニュースというかバラエティ・ショー である。一部妥当な点があるにせよ、多くは、外出不可の状況のマイナス面のみを強調して不安をまき散らしているのである。人は、安心よりも不安に引きつけられる。その心理につけ込んだものであろう。

 しかし、「家に居ること」は、マイナスばかりであろうか。70歳まで働き、引退した身には、在宅という状態は、この上なくありがたい。以下の諸行為は、在宅だからこそできるのである。

 大雨が降ろうが、吹雪になろうが早朝出勤や外出の必要がない。満員電車に乗る必要もない。翌日の早起きも必要ない。深夜でも読書ができる。時間のかかるパソコンの設定も自由にできる。時間も体力も精神力も消費する会議がない。出張もない。いやな奴との共同作業もない。考え事は、締め切りもなく、自由にできる。昼寝さえもできる。服装の配慮も必要ない。

  近年は、ネットが進歩して、在宅での勤務や学習も可能になっているが、それでも、家に居る方が、勤務先や学校に居るよりは自由がきく。

  その昔、「自分探しの旅」などというおかしな行動があって、少なからぬ人間が外出、遠出したものであるが、「自分というものは旅先になど存在しない。自分を探しているこの私はだれか。」などの気づきがあって、今時、実行する者は稀である。今日の状況に似た滑稽さはないか。

 そもそも「家」とは「安心」の場なのである。また、そうでなくてはならない。「家」のない状態を想像してみよう。前記のマイナス面など、贅沢、わがままが原因である場合が多いことは一目瞭然であろう。

 今は「家」の存在理由を再確認し、安心の場でないのなら、改善、再構築するチャンスである。軽薄、浅学のメディアに煽られて、右往左往しない見識を持とう。

 と、きれい事をいいながら、昨日は、ホームセンターで高額のマスクを購入する家内の行動を黙認し、あまつさえ、資金援助までした自分の行動を不審に思っている。しかし、今日も追加購入に出かけた家内には同意できない。しかし、昨日は、「一家族様一個」という注意が、今日は、「一人一個」に変更になっていたそうな。思ったように売れなかったための修正だろう。世間の知恵も捨てたものではない。緊急事態に乗じて悪徳商法を展開している輩が、事態収拾後にどのような扱いを受けることになるか見守りたい。