それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

高校国語-論理と文学の関係

2019-06-26 23:36:40 | 教育

 毎日新聞2019年の6月24日、「短歌月評」に、歌人・加藤英彦氏が文学擁護論を書いている。

 「……これからの高校の国語は大きく変わろうとしている。小説や詩歌を扱う時間は極端に減少し、論理国語という実用性重視の傾向が強まるのだ。」

 「……この実学重視の流れは二〇二一年から実施される大学入学共通テストと連動している。すでに小説や詩歌に代わって生徒会規約や駐車場の契約書が国語のモデル問題になったと聞く。」

  この部分引用に、文学者、文学研究者や文学愛好家に特有のある種の偏見のあることが判る。この偏見の原因のひとつが、文科省の安易な見解や措置である。

 「論理国語」=「実用国語」という図式は、それこそ論理的に正しいのか。国語教育の世界では、文学以外の文章を「説明的文章」と呼ぶ。説明的文章の中身は広く、雑多であり、そのカテゴリーの端っこには、確かに「実用的文章」も存在する。しかし、それは、中枢を占めるものではない。規約や契約書を論理的文章の代表とする考えは浅薄すぎる。高校国語でいうなら、過去に中核的位置を占めていた「論説」や「評論」といわなくてはならない。小、中学校では、説明文、初歩的な論説文が中心的な教材となり、論理的構造の特質についての学習や、論理による物事の本質や問題把握の力の基礎を学ぶ。我が国の国語教育では、こうした分野での蓄積や成果が乏しいことは、この分野の研究を続けている私の目から見ても残念ながら事実である。論理的なものの見方を育成することは、これまでの国語教育の歴史を振り返るとき、それなりに重視はされてきていた文学によるものの見方の育成以上に重要である。しかし、文学と論理とは、「二項対立」の関係にはない。車の両輪である。文学も言語を用いる限りは、論理を抜きに実現できるはずはない。論理も、矛盾のない個性的なものは「美しい」のである。

 「文学的文章」と「論理的文章」は、異なる面と重なり合う面とがある。「エッセイ」や「評論」というジャンルは、文学、論理の双方を繋ぐものと言ってもよいだろう。文科省が、「論理国語には文学評論は含まない」という見解を明らかにしたしたということを目にした記憶があるが、その見解は間違っている。取り上げる対象が「文学」であっても、取り上げ方が論理的であるなら、論理的文章なのである。

  加藤氏は、次のようにもい言う。

 「……人間とは厄介な生き物だ。そんな人生の濃淡を生きる力を文学の奥深さは教えてくれる。それは読み、語りあうことで開かれる“知”の扉である。」

 「豊かな心は論理が育むのではない。行間を読み、心の余白を感じとる力こそ実社会には必要だろう。いじめる心の闇やふと兆した狂気の逃がし方さえも文学は抱きよせる海なのだ。」

 ここに取り上げられている文学の機能、効用は、残念ながら論理的文章にも同じように言えることである。論者が、規約や契約書を念頭に置いているかぎりは、こういう結論になるのだろうが、ことは、それほど単純ではない。

 第一、加藤氏が現今の問題を解明し、自身の主張を述べようとしている、この新聞の文章自体が「論理国語」そのものなのである。氏は小説や詩歌の形で問題を指摘し、主張を展開することを選択しなかったのはなぜだろうか。(「抱きよせる海」は比喩的かつ多義的で、文学的ではあるが) 私には判るが、論理国語=実用的文章という前提に立つ立場にあっては、十分に説明できないであろう。


びっくり、この国の法律

2019-06-22 16:41:01 | 教育

 一審で有罪、控訴したが、二審での控訴棄却で刑が確定。その後数ヶ月、被告はどこにいるのか。当然刑務所の中と想定するのが普通の市民感覚というものであろう。

 ところが、そうではないことが判った。   「神奈川県愛川町で、窃盗の罪で実刑が確定した男が収監される直前に逃走したことが  わかった。男は刃物を持って暴れ、車で逃走しているという。」(AbemaNews)   今年の2月には高裁で刑が確定しているのである。収監まで、数ヶ月、男は自宅にいたというのである。召喚状に応じないため、検察と、応援要請を受けた警察が、男の自宅を訪れて、取り逃がしてしまったというのである。間の抜けた話ではないか。

 保釈については、森友問題のK夫妻、日産・ルノーに関わるゴーン氏の、長期に及ぶ拘束があり、わが国の制度は、先進諸国の常識を越える厳しいものだと半分あきれ、半分は感心したのだが、私の認識は間違っていた。

 今回の問題は、「保釈」という制度に関する根本的な誤りを示すものだろう。男が持参した刃物や、逃走用車両などで、他者に危害を与えた場合の責任を、検査は、どう取れるのか。


報告書、答申と忖度

2019-06-19 03:11:21 | 教育

 このところ「報告書」が話題になっている。一つは年金に関するものであり、また一つは、防衛省のイージス・アショアに関するものである。

 報告書、答申は、審議、検討する集団の判断、意思を表明するものであるが、それが完全に公平、公明であるという保障はない。そもそも公明正大なる概念に相当する事実がありうるのかどうかさえ疑ってかからなくてはならない。だれ(どこ)から諮問されたのか、だれ(どこ)に答申、報告するのかによって、色づけがされることが多い。最近、しばしば登場する「第三者委員会」なる存在についていえば、名称はいかにも利害関係から独立の公平で偏りのない検討を行い、結果を報告する集団のようでありながら、実は任命者の意向、期待を忖度する偏ったものであることが少なくないこともあり、さらに別の「第三者委員会」を立ち上げる必要があったということまで発生している。

 審議会の答申も、報告書も、情報の創造である限りは、必ず、偏りがある。それが顕著な場合のみ目立つのであって、原則的に何らかの偏りという特徴があるはずである。政府、政党、大臣等の権力の上位にある者に対する答申や報告が、ある種の偏りを持つのも当然で、そういう偏りを生み出す仕組みを「忖度」というのである。

 忖度の度が過ぎて、小学生でも判るような間違いを起こしたイージス・アショア予定地の、「角度」問題は、知識の欠如という低レベルの問題ではなく、必死の忖度の結果であろう。国や防衛省、さらには米国に対する忖度の結果として、国民を欺く拙劣な行為が表面化したに過ぎない。

  一方、大臣が受け取りを拒否するという異常な事態になった年金に関する報告書をどう考えればよいのか。気に入らない報告書について取り扱いに悩んだ大臣は、受け取り拒否という問題解決の方法を採用した。なかったことにしたのである。今後は、拒否されないよう、大臣の意向に沿う内容の報告書が作成されることになろう。忖度の促進・強化である。当の大臣は、自分の年金のことは秘書に任せていて、詳細は知らないという富裕者であってみれば、年金に不安を抱える85%近い国民の心情とは、もともとかけ離れている。報告書が、不安の実態を平均的なモデルで示し、死ぬまでの経費として2,000万円不足するという報告をしたこと自体に問題はないように思う。ただ、対応策として、投資などによる資産形成など人情味のない、無責任なよそ事の解決法を提案するなど、100万円以下の資産しかない多数の国民の気持ちを逆なでするようなその場しのぎの内容が不信の原因になっているのであろう。受け取り拒否は、上位者の意向に沿わない報告書を作成してはならないという教訓を与えることになり、「忖度」が横行することにもなろう。報告書や答申は、「隠れ蓑」の役割を果たし、政治に対する国民の不信が増幅されることになろう。委員会としては、どういう忖度をすればよいのか、いよいよ難しいことになる。


名付け

2019-06-16 23:37:19 | 教育

 

 

 私の住む団地は、規模が大きく、公園も7つあり、多種多様な樹木が公園を始め、多くの通りに彩りを与え、住民は、四季折々楽しんでいる。珍しい樹木には、名札が付けられていることも多く、丹念にみれば、植物の知識も豊かになるはずであるが、時に間違ったものもある。

 上の写真は、いずれも名前と植物が対応していない例である。植えた当初は、当然、「もの」と「なまえ」は対応していたはずであるが、時の経過とともに、「もの」が消滅してしまい。「なまえ」を示す立て札のみが残ってしまったのであろう

 そもそも人間は、身の回りの物事に名前を付けなくてはならないという性癖をもっているようだ。確かに、名前も分からないものが家の中や身の回りにあると不安である。そこで、なにはともあれ、その正体不明のものに名称を与えて、安心するのである。心理学者が様々な症例に、芸のない名称を付けて、不安を抱える人だけでなく、自分も安心するのも似たようなものであろう。無数に輝く星にも名付けをしたがるというのも人間なればこその性(さが)であろう。

 『徒然草』の第60段に、一人の高僧がある坊さんに、「しろうるり」というあだ名をつけ、人から、それはどのようなものかと尋ねられて。「そういうものは知らないが、あるとすればきっとこの坊さんの顔のようなものだろう」と言ったという話が書かれている。これは、者と名前関係、人間の名付けの衝動を示していておもしろい。名前は、ものの代替物やレッテルであると同時に、名前の方が実体を規定する力を持つものでもある。「名前負けする」などは、後者に関係する場合であろう。

 人間の名前は、親や親族、関係者の名付けにかかる創造力の上限を示すものである。昨今はやりの「キラキラ・ネーム」だけでなく、すべての名前に名付けた者の願いが込められているはずである。


一族郎党まとめて処刑

2019-06-13 13:19:25 | 教育

  以下は、2019年6月7日、毎日新聞ネットニュースの内容である。

 「就労資格のない中国人を働かせていたとして、警視庁荏原署は7日、「築地場外市場」(東京都中央区)にある卵焼き専門店「丸武」の伊藤光男社長(79)を入管難民法違反(不法就労助長)容疑で書類送検した。捜査関係者への取材で判明した。伊藤社長は、演出家・テリー伊藤さん(69)の実兄。容疑を認めているという。」 .  「伊藤社長は、演出家・テリー伊藤さん(69)の実兄」は、必要か。個人情報の保護を謳い、ハラスメントやDV等による人権侵害について、大々的に取り上げることの多い新聞のすることは、だから信用ならないのである。バラエティ番組等でコメントをしている本業の判りにくいテリー氏が、実は演出家であったことは判ったが、それがニュース本体である伊藤社長の入管難民法違反容疑と何の関係があろうか。単に容疑者の兄弟であるというに過ぎない。親子や兄弟のいずれかが容疑者になれば、血縁関係にある者は、新聞やテレビで、氏名、年齢、職業を明示してよいものなのだろうか。

 公的機関の職員の不祥事などは、容疑者名を、個人が特定できる恐れがあるだの、被害者が特定できるかもしれないなどの理由で公表しないことが、ままあるのとは対照的である。

 有名税等という言葉もあるが、そんなことは公正な理由にならない。報道機関は、前近代的な要素を抱え込んでいて反省するところが少ない。今回初めて判ったことではないけれども、今後のためにも、よくよく覚えておいて、報道姿勢の問題を警戒しよう。