それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

情報にどう対応するか

2021-02-18 23:50:47 | 教育

 情報機器が発達している。携帯、スマホ、パソコン(特にインターネット)、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌など、情報を得ようと思わなくとも,私たちの頭になだれ込んでくる。情報獲得に意欲的になったり,長時間に及ぶ使用の場合は、さらに大量の情報を抱え込むことになる。

 無論、情報が多いことには利点もある。知識・情報を豊富に持っていることに救われることは少なくない。

 しかし、多ければ多いほどよいというものでもない。

 今やテレビは,家庭における情報源になっており、点けっ放しの画面から多様な情報が流れ出て、家庭に蓄積する。知らぬ間に思考・判断の根拠になり、主体的に考える力が脆弱になる。「テレビで言っていた」「新聞に書いてあった」等の発言は、そのことを示している。「どのチャンネルの、どの番組で、どこの誰が言っていたのか?」等と問うと、決まって嫌がられる。多くのチャンネル、多くの番組、多種の新聞、雑誌等には、誤ったり、偏ったり、思いつきで発した軽率な情報も少なくない。偶然視たテレビの、偶然放映していた番組で、偶然得られた情報を自分の判断の根拠にしてはならない。

 とはいうものの、専門家や評論家でもない我々は、多くのテレビ番組や新聞を網羅的に収集したり、読んだり、視たりすることはできない。では、どうすれば最低限の防御ができるのだろうか。

  情報というものの特性を把握しておきたい。ここでは、便宜上、ニュースというものの特性に限定して考察しておこう。

 日々、大量に送り出されるニュースは、どのようにつくられるのだろうか。私たちは、ついつい、ニュースなるものが世の中に転がっていて、そのうちのいくつかを記者が拾い上げて来て発信するのだと思いがちである。しかし、世の中に既製のものとしての「ニュース」は存在しない。ニュースは、そこらに転がっていて記者によって拾い上げられるのではなく、「作られる(創られる)」のである。記者が探し求めるのはニュースではなく、ニュースの素材・材料なのである。素材は、分析され、取捨選択され、意味づけされ、言化されて、つまり「加工」されて、初めてニュースになる。

 「ニュースとは加工されたものである」と考えるなら、その加工の過程の随所に加工者、作成者の特徴が入り込む。それは長所であることもあれば、誤り、偏りのような問題であることもある。テレビや新聞でたまたま見聞きしたことは、このような危ういものに過ぎない。従って、メディアによって配信される情報は、あるがままに受け入れて蓄積すればいいというような単純な存在ではないのである。

  「メディア・リテラシー」という言葉がある「情報収集能力」というように受け取られがちであるが、厳密には、「対・情報能力」とでも言い換えるのが良いように思う。情報に凭りかかり、助けられるだけでなく、情報の加工方法とその結果を吟味・評価し、情報の受容か拒否かを決定する能力のことである。換言すれば、情報から身を守る能力である。

  提供された情報が正しいという「素直な受容」の姿勢は如何にして築き上げられたのであろうか。わが国の国語教育には、歴史的に、「書かれたことを、叙述に即して正確に理解する」(=読解)なる指導目標が根付いていた。国際学力調査によってその問題性が明らかになったものの、その解決に至っていない。国民の多くは、国際的にみて、決して低くはない「読み書き能力」(=リテラシー)を駆使して、ひたすら書かれているとおりに、報道された情報を、正確に理解する活動に勤しむのである。

   トランプ前大統領のCNN嫌いは有名である。彼は、CNNによる情報の素材の「加工」 に対して、いささか感情的にNOと言っているのである。CNNのニュースは、自分の意に反するフェイク・ニュースであるとして、記者会見でもCNN記者の発言を認めない。いささか極端で呆れる行為に見えるが、情報とはいかなるものかを端的に示す事例であって、「読解」の対極にある考え方であり、情報への対し方を考える手掛かりになる。

  時に、極力,「加工」を避けて、「素材」そのものを提供することがある。例えば,先日話題になった、東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長に関わる報道である。問題発言をした本人が,次期会長候補を選び、二人で相談して,前会長は相談役になるという情報である。「素材」だけを提示するなら、これだけのことである。大急ぎのテレビ速報はこの類いのものであった。しかし、一定の割合の視聴者は、批判された当事者が、密室で次期会長を選定し、しかも自らは相談役として影響力を残すというやり方に疑問を抱いたのではなかろうか。また記憶力の優れた人は、森「総理」誕生時の不明朗さを想起し、「またか」と呆れたのではなかろうか。「加工せず」という態度は,時に「客観報道」
と受け取られるかもしれないが、ある種の「加工」である。未熟な加工か、姑息な加工の場合があるので注意したい。

  また、メディアは異なっても、全く同じニュースに摂することがある。本来あり得ないことが発生するのは、他者の手になる「加工品」をそのまま報道する場合である。例えば「警察発表」やニュース配信機関から入手した場合である。個々の報道機関の手柄にならないと同時に,間違いがあっても、責任もない。報道の本道ではない。

 このように、報道、情報の仕組みを見てくると,対応の仕方も容易でないことが分かる。「新聞科学研究所」なる機関が,たびたび新聞に,新聞購読の効用を書き立てるが、安易に新聞に接すれば多様な問題の解決になるわけではない。「対・情報」の姿勢と能力は,新聞の難敵に他ならない。私たちが情報から身を守り、情報の質の向上を願うなら,情報に接する私たちが,主体的な存在にならなくてはならない。


関係を捉える力-「コロナ」と「五輪」から学ぶ

2021-02-11 11:48:10 | 教育

 A,B,Cという物事があるとする。それぞれを切り離して(個別に)認識することは大切であるし、世の中の物知りは、このような認識に基づく知識をため込んでいることが多い。

 しかし、A、Bや A、Cをどのような関係にあるのかという観点から認識する方法もある。これを「関係的にとらえる方法」すなわち「関係認識」の方法と呼んでおこう。世の中の物事は、他の物事と無関係に独立して存在していることは少ない。むしろ個々の物事も、他の物事との関係で、本質や特徴、問題等が明らかになることが多い。

 例えば、今日、避け得ない問題になっている「経済」と「生命」(コロナ克服)の関係について考えてみよう。経済それ自体、コロナ自体に関する知識・理解が大切であることは言うまでもないが、当面、そのことでなく、両者の関係について考える。

 両者は、車の両輪のように考えがちである。両者とも重要であるから、「両立」が重要だとする考え方である。「withコロナ」という言葉が用いられるようになって久しい。両者が同時に機能していることを理想とするものである。withとは、「共存」「手を携える」の意味であり、具体的な施策としては、「Go to トラベル」と「Stay home」などのキャンペーンに具体化された。過去1年余の取り組みを反省的に振り返ると、到底、正しい関係認識とは言えない。安易な「with思想」は、矛盾を抱え込むだけでなく、国民、市民の気の緩みをもたらし、問題を複雑化し、解決を遅らせる結果を招いた。

 「Go toトラベル」と「Stay home」の関係は、両輪の関係ではなく、「アクセル・ペダル」と「ブレーキ・ペダル」の関係を意味する。コロナに対する姿勢は、withではなく、againstである。相反するはたらきの両者を同時に踏み込めば、車は困惑しよう。同時並行的に捉えるのでなく、時間軸に沿って、「前後関係」で捉えなくてはならない。そして、言うまでもなく、「生命」尊重を優先せざるを得ないであろうが、実際にはそうならず、国や自治体の対応は事態に効果的な対応ができないことが多かったし、今も続いている。

 新型コロナ対応で言えば、様々な部署が関わったり、新設されたりした。厚労大臣、経済再生担当大臣、官房長官、ワクチン接種担当大臣、医学関係者による専門家会議、その後の分科会、医師会、さらにアドバイサリー・ボード(諮問委員会の意。なぜ横文字なのかは不明)などが関与する。難事、国家的一大事に対して総掛かりの態勢を造ることは大切である。しかし、多くの部署や組織が、共通理解のもとに、効果的、創造的に機能していなくてはならないが、意思疎通ができていない事例が多く見られた。それぞれが、自分の守備範囲を理解すると同時に相互の関係を頭に入れて行動しなくてはならないのである。
 
  今、オリンピック・パラリンピック組織委員会会長の女性蔑視発言が物議を醸している。自分の発言が女性の尊厳を傷つけるということに認識が及ばなかったのが原因である。かつて若い女の子の間で、「KY」と言う言葉が流行した。「空気が読めない」という意味だった(「空気が読める」も「KY」だからこの造語法は問題なしとは言えないが)。自分の判断や発言が、空気というその場の「状況」とどう関わるのかということを見誤っていることを示している。これも関連的思考・認識の問題である。もっとも、当の会長は、失言で有名な人物のようであるから、もともと関連的に物事を捉えることの不得手な人で、組織の長たる資格に疑問があったのではなかろうか。2020五輪はご難続きである。招致決定にいたる初期段階から問題を抱えていた。東京五輪の意義については最初から疑問を持っていたが、日本の抱える諸問題を浮き彫りにしてくれる機会にはなっているようである。