それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

学力の構造と系統性について

2017-05-15 23:00:23 | 教育
学力構造と系統性-「読むこと」を中心に

1 学力構造観の誤り:
 これまで、わが国では、学校教育において育成すべき学力とは、どのような構造を持ち、どのように系統化されるべきであると考えられてきたのか。かつて、小学校の各学年ごとの「目標」と「内容」が提示された時期の学習指導要領を例に取ると分かりやすい。
①第一学年-「だいたい」;
②第二学年-「順序」;
①第三学年-「要点」;
②第四学年-「段落相互の関係」;
③第五学年-「主題や要旨」;
⑥第六学年-「目的に応じて」
 今日では二学年を併せた提示の仕方になっているが、ここに挙げた各学年の目標と同じ性格のものである。

 なぜこのような構造がまかり通ってきたのか。その理由の一つは、一見系統的(順序性がある)に見えるからである。
 そして、その結果として、指導者にとっては、目標が見えやすい。学習指導案の目標設定がしやすいということにある。いわば、単純化ということである。
しかし、実際に授業をしてみると、学習指導案の目標設定と実際の授業の中で求めているものとの乖離に気づくことになる。学習指導要領ほどに、授業の目標は単純ではないのである。
 そこで、授業者の取るべき道は、苦労して設定した目標のことはあまり気にしないこと、という皮肉なことになる。が、しかし、授業は、目標達成のための一連の行為であるという原理・原則から離れる訳にはいかないという悩みも生じる。

2 あるべき(自然の)学力構造観:
学校・教室における国語学習は、「練習、そして時に治療」の意味も含む。その限りでは、要点把握の能力に問題のある児童に、重点的に要点把握能力の育成のための訓練を実施する必要はあろう。しかし、それは、練習・治療の場で行うことであって、日常的、継続的に行うべきものではない。読むこと=読書は、日常的な行為である。読むことを楽しみ、その行為によって人間としての自立・向上を実現する場である。このような読書の機能を十全に発揮するために、時に、必要に応じて、練習や治療を施すのである。
 山に登るのが好きな人がいる。私の周りにはたくさんいる。時に誘われて、断り切れずに付き合うこともあるが、一緒に歩きながら何が楽しいのだろうと不審に思うことが多い。ただ、身近にいる山好きな人は、登り方の訓練、登山のスキルの向上を目指しているのではないらしい。登山部、アルピニストの中には、スキルの向上が目的にしている人もあろうが、それは、全体の山好きのなかでは、ごく少数であろう。
 山に登るのに、脚の運び、重心の写し方、坂の登り方、尾根の歩き方、ステッキの用い方等々、様々なスキルを気にしていることはあろうが、そのようなスキルの習得、向上自体が目的になっている人は多くないと信じる。第一、それでは山登りは、訓練、トレーニング、そして苦行になり、たのしくはないであろう。山頂に達したときの爽快感のために登るという言い方もあるが、途中も楽しく爽快である方がもっと楽しい。
 教室での読みの授業が、読書嫌い、国語嫌いの児童を生み出す原因であることはよく指摘されるし、私自身、多くの学生から聞いたことがある。学校における学びは、生活の学びに直結し、支え、質の向上を実現するものでなくてはならないが、そのためには、学校、教室における学びそのものが、「生活」を原理とするものでなくてはならない。
 生活を原理にすることは、いきおい、経験主義的な指導に走り、学力の系統性が保障できないという批判もあり得るが、系統的指導は、学力の分断、積み上げ、練習方式によってのみ実現されるのではない。
 私たちは、読むという行為を遂行するために、さまざまな能力を複合的、総合的に機能させている。能力に問題があると判定せざるを得ない児童でも、この複合的、総合的活用という点では同じことである。ただ、機能の規模とレベルが違うだけである。
 この機能の規模とレベルの違いというところに、本来あるべき系統性、系統的指導のああるべき姿を見ることができる。
 もう一度山登りの事例を取り上げてみよう。
 山登りも、多様なスキルを総合的、複合的に活用して行う活動である。たまに特定のスキルに問題のある者がいて、ベテランが練習的、治療的な指導を加えることがあっても、基本は総合的活動である。この繰り返しが登山技術を向上させる。注意すべきは、本来の総合性であり、生活原理である。登山はだから多くの人にとって楽しいのであり、生活原理を犠牲にした登山は、山岳仏教における「行」のようなものになるのである。学校・教室の読むことの学習指導は、児童にとって、苦痛な「行」になることが多くないか。それを謙虚に考え直して見える必要がある。
 しかし、生活原理に立つ総合的、複合的活動と「系統性」とはどういう関係にあるのか。 それは、登ろうとする山の特性の違い、難度の違いによる。同じ種類のスキルでも、レベルの高い使用能力の育成のためには、難度の高い山を選ばなくてはならない。初心者には、低い、平坦なところの多い山を選ぶべきである。
 ここでいう「山」は、国語科で扱う「教材、作品」のことである。低学年で扱う教材も、読むという活動としては、高学年や成人の読みと、ほぼ同じだけの種類の能力を複合的に機能させて行われる。ただ、低学年の読み物は、難度の低い山と同様に、教材の構造や表現が優しいのである。能力の中には、低学年では、極めて初歩的、萌芽的な姿しか見せないものもあるが、基本的には、その後の発達過程に現れるものと同種であるとみて置く方が問題が少ない。
 同じ種類の能力を組み合わせて読むという行為を繰り返しながら、次第に難度を増す教材を読みこなす力として質を高めていくというのが、生活原理煮立つ「系統的学習」であり、その指導の姿である。例えば、一年生では、教材の「だいたい」が分かればよく、主題や要旨に至っては五年生までは、その指導を保留しておくというような、現場や児童の実態を知らない作文的配置によって、学習者の学力保障も、言葉を学ぶ喜びも体験させることはできないのである。  

研究論文入門

2017-05-14 00:10:53 | 教育
(ワープロソフトで作成した文章を転載したところページの体裁が崩れました。ご容赦のほど。)

1 記録・報告の性格と意義
 事実を、事実として記録すること、あるいはそれを他者に向けて書くことは、ジャンルとしては、「記録・報告」という。
一般に、実践現場(小学校、中学校等)に身を置く人の書く原稿は、この「記録・  報告」という性格を持ちやすい。それは無理もない。常日頃の教育実践(教材研究や  授業)からは多量の教育事実の蓄積が生まれる。この事実の積み重ねが、ついつい記  録の方向に走らせるのである。
授業記録A、B、C ……と、事実を連ねていくと、それなりに、ひとまとまりの  文章ができあがる。それは、苦労を重ねた実践事実であることは間違いないから、   達成感もある。ついつい研究論文そのものであるかのような錯覚を抱かせる理由も、  そこにあるあ。
   無論、実践記録は、記録として大きな意味がある。自己の教育実践、あるいは仲間  の授業や教材研究の特質と問題を明らかにする素材として、このような記録には無限  の可能性がある。しかし、それは、研究の対象や素材としての有効性、重要性であっ  て、事実そのものがそのまま研究、研究論文になっているということではない。

2 論文の性格
   論文とは、特定の問題、テーマを設定し、その解明、立証を目的として書かれた   ものである。
  料理を例にとってみよう。子どものためにおいしいカレーライスを作ることを想   定してみよう。
・ 課題、テーマの設定:「子どもにとって」、「おいしい」、「カレーライス」のそれ   ぞれを課題、テーマとして設定することが可能である。
-子どもにとって良好である、子どもに適しているとはどのようなことをいうの     か?
-「おいしい」とはどのようなことを意味するのか?また「おいしい」と「体に     よい」との関係は?
-「カレーライス」という料理の特徴と子どもの生活の中における位置づけは?  カレーライスの種類と特徴は?
   最後の観点は、限りなく記録・報告に近くはなるが、記録そのものではない。

冷蔵庫を開ければ、カレーライスを作る材料がそろっている状況を想定してみよ   う。肉も、野菜も揃っている。これは「事実」のレベルである。さて、この材料を
さて、今日のわが子においしいと思ってもらい、体にもよいカレーライスを創るにはどうしたらよいのかという段階になると、材料を前にして熟考と選択をする必要が生じる。
-肉は、挽肉、バラ肉、角切りのどれを使用するか? 
-牛肉、豚肉、鶏肉等、いずれにするか?
-野菜は何を使うか?子どもの嫌いな野菜は何か?特に必要な野菜
-辛さの程度はどうするのか?
他にも考えることは多いであろうが、少なくとも、ここに掲げた程度のことは考慮しておく必要があろう。

  料理とは、実は、課題(問題)解決の実践であり、選択の実行という複雑な行為な   のであり、その結果なのである。

もう一つ、最近の事例を取り上げてみよう。
「小学校におけるファンタジー教材の指導」をタイトルにする原稿に出会った。
 複数の作品の実践事例が取り上げられているが、その複数の事例の意図、関連が分かりにくい。つまり、実践記録の色合い濃いのである。
 これを、例えば、下記のような観点・課題を設定してみるとテーマが明確になる。
-「小学校におけるファンタジー教材の特性と課題」
-「ファンタジー教材と児童の発達段階の関係」(ファンタジー教材は、小学校高  学年段階にならないと無理だという論文あり。)
-前記のテーマに対して、「低学年段階におけるファンタジー教材の可能性」
-「ファンタジー教材を理解するための能力とは?」

これらの課題に答えるためには、事実の記録だけでは済まないことが明らかにな   るであろう。

3 記録の論文の関係
  冷蔵庫には、多種多様な材料が保存されていることが料理をする上で有利であること は言うまでもない。
しかしまた、多種多様な材料が、おいしい料理に直結するわけではない。
明瞭、シャープな問題・課題意識、テーマ意識を持ちつつ、材料を吟味して活用する ことがおいしい料理の創造を可能にする。
言ってみれば、こんなに簡単なことが、実現困難ということは、なぜであろう。
  私自身、大学院から、小、中学校での教育実践の経験をせずに(非常勤講師尾つぃて の実践経験は除く)大学に勤めることになった。
大学院生の頃、アメリカから大阪に、サマーセミナーの実習生としてやって来た現職 の先生たちと2週間ばかり一緒に小学校を回って授業を観察し、事後の分析に付き合っ たが、その折に、アメリカの先生たちが口を揃えて言ったのは、「大学に勤める前に、 学校現場の経験をしておく方がいいよ。」と言うことであった。
  「大学で教壇に立ってしばらくは、現場の経験がないことが気になった。学校現場に 足を運び、研究会に参加し、そのうちに現場経験のないことがさして問題とは感じられ なくなったが、現場の先生方が、記録・報告型に傾斜するのに対して、現場経験の乏し いものが観念的論文型に走る傾向があるという危険性は確かにある.いずれの場合も、 自分に取って見えにくい部分を見る努力を重ねることを通して、理論・実践の統合され た論文に行き着くのであろうと思っている。