精神科医山内の心の相談室

日常の臨床経験から得た心の悩みに役にたつことをわかりやすく説明します

心は万境に随って転ずる

2013-12-23 | 日記
「心は万境に随って転ずる」は、私が学生の時に、森田療法の書物で出会った言葉です。
当時私はその言葉に痛く感動し、それから30年ほど時は経ち、その感じ方は変わってはいるものの、
今でも役に立つ言葉だと思います。

その書物から引用します。
「禅の言葉に『心は万境に随って転ず。転ずるところ実に能く幽なり。
流れに随って性を認得すれば無喜また無憂なり』ということがある。
心は周囲の事情の変化に伴って、絶えず移り変わるものである。
その変化のなめらかにして自由自在であることは、幽玄そのものである。
この心の流れのままにまかせているときには、煩悩もなければ、苦しみもなく、
自己本来の性情を認識することができる。
そのときは喜びはそのまま喜びであり、憂いはそのまま憂いであって、
そこには何の作為も抵抗もなく、苦楽を超越している。
このように心が万境に随って転ずるところには、
もはや神経質や強迫観念の苦しみはない。」

神経症、神経質、不安うつ状態の時に、
その心の状態というのは、絶えず変化するものである、
という認識はとても役に立ちます。
逆に症状さえなければという方向は、とらわれ(森田療法でよく言われる)となり、
より症状を強めることになります。
辛い鬱のときは、それは変化するもので、続くものではないというのも事実ですので役にたちます。
(この言葉は神経症性障害に役に立つものですが、気分障害においても、応用は効きます。
尚、辛い鬱のときには大事な判断はしない、判断力が戻る時期は必ず来るは、
うつ病の治療の際の基本的な説明の一つです)
悲しいものは悲しい、悲しんではいけない、と考える前に、その気持ちにまず素直になる。
逆に腹が立つときにも同様である。悲しみも怒りも、その心の流れよりも、
「べき思考」が優先されると、本来の自分の気持ちがわからなくなり、
症状で表現化され、家族や職場から、症状ではわからない、病院へとなり、
よりわからなくなる悪循環が生じやすい。

学生の時の私は当時、心の「もやもや」に苦しんでいて、そのもやもやが、
どうして出てくるのかと悩み、精神分析学の本を読む一方、この言葉に出会ったのだと回想します。
もやもやは、なかなか消えませんでしたが、この言葉を自分で書いて部屋の壁に張ったりした記憶があります。
今は当時のもやもやはありませんが、別のもやもや、があります。
それを解決する為には、一人で悩むだけではなく、症状がありながらも、
日常の生活を送り、「自分の中」だけでなく、自分の外との関わりを持つことが大事だと思うのは、
私事の経験からだけではなく、日常の臨床経験からです。
なお、心は絶えず変化しながら、また成長するものです。
症状も変化するものです。そして治るものです。
治って再発したとしても、それは成長の機会と捉えることができるものです。

1 コメント

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心のあるがままについて (やなぎ)
2016-02-17 16:29:42
はじめまして。

突然のコメントで失礼いたします。

「心は万境によって転ず」の意味を調べていてこちらの記事を拝読させて頂きました。
かなり前の記事でしたのでコメントするのを悩みましたが、森田療法には興味があり本も読んだ事があります。私自身、神経質で自分ではパニック持ちと思っております。心のあるがままと言うのは頭では理解出来ているのですが、どうしても体の症状、例えば急な動悸やそれに伴う息切れで苦しい時などは冷静にあるがままとはいかず、症状と戦ってしまい、落ち着こうとする程に市の恐怖などが出てきてしまいます。漠然としてした不安などは徐々に切り替える事が出来てきていますが、実際に体の症状がでた時などはどのように森田療法を活用したらいいのか分からず、やり過ごすといっても実際に体の症状があるわけで・・・となってしまいます。

なかなか森田療法の質問を出来る医師がおらず、また遠方であるため突然のブログへの質問になってしまいましたことお許しください。
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