黄金色の日々(書庫)

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人生の選択

2018-12-26 01:02:55 | アメコミ映画

前回は初見での困惑と受容を書いたので、キャラクターについての個人的感想。


その前に、映画そのものとしてはどうだったのかという点では。
「11年の集大成、ありがとう!」「感謝しかない」「よくここまでまとめた」という意見と。
キャラクターの扱いや女性キャラの場面について、ショックや不満を持っている人も多い。
終演後のエレベーター内で、「めっちゃ泣いた」「感動した!」と言ってる女子たちと、「5年間でトップのつまんねえ映画」と言ってる男性の真ん中にいました(汗)
アメコミ映画はどうしても戦闘シーンに注目したい層は多いから、IWに比べてEGは少なく、ラストの混戦はむしろ多すぎて一人一人を堪能できない。魔法陣の中からよみがえった仲間たちが出てくるシーンは素晴らしかったけれどね。
やはりタイムトラベルのシーンが重要で、前回広げた巨大風呂敷を畳むために、そのシーンがメインにならざるを得なかった。過去作のシーンに戻り、インフィニティストーンをとってくる場面は過去のMCUワールドを愛する者には受けたでしょうが、過去での活躍より現在での戦いを見たいという層には退屈に映る。

どうしても説明臭くなることは避けられなかったと思います。そこを受け取るかどうかで楽しめるかも変わってくる。
私は面白く見れた部分と、ついていけずにいた部分もありました。「この時はこうだったっけ。だからこうして抜け道を探すんだな…、ええっと」とか考えながら見てしまうと、どんどん先に進んじゃうのでね。

ワールドの締めとして、トニーとスティーブに絞ってきたなとは思った。そして割を食って見えるソーもいれて(強調)、アベンジャーズのビック3の顛末を描くことに重点をおいたのは良かったと思う。

それを踏まえての各キャラについて。


まずはMCUの立役者であるアイアンマン、トニー・スターク。
立役者たる終幕を見せてくれたなと思います。横道脳が涙とは無縁の鑑賞にしてしまったんですが、トニーが死ぬシーンにはさすがにジワリときた。
キャップ派の私はトニーに厳しめの感想が多かったけど、今回のトニーは大好きだよ。彼は恵まれた状況だった。ピーターの死というトラウマを抱えていても、ペッパーと愛娘との幸せを得ていた。
一度は断ったタイムトラベルへの挑戦を受諾するのは、ピーター始め他の仲間たち、多くの人々を引き戻すという目的の他に、そのことが可能であると結論が出たのにやらないのは、彼の科学者としての本能が許さないのもあったと思う。
引き受けた時には妻子との生活も守るつもりだった。
あの土壇場で、ストレンジ博士のあの指1本が、彼の運命の究極の選択を示した。自分が犠牲になることが、ドクターがかつて話した1400万分の一の可能性だった。あの場でそれを選ばなくても、サノスによって全員が殺される。
否応なしの選択だった。

私がブツブツ前回書いた「5年」という時間は、実はトニーのために用意された気がする。トニーに家族という場を与えるために。
その上での死は残酷にも思えるけれど、トニーは妻と娘を得たことで両親を失ったことへのトラウマを癒したと思う。
彼は根は人のことを考える優しい人だけれど、生まれと育ちから大人になり切れないところも残してた。親になることでトニーは真の大人になったし、過去でハワードと会話できたことで、父への思いを浄化できた。
娘の成長を見れないことは悲しいけれど、賢妻にして素晴らしきペッパーはモーガンを立派に育ててくれる。
3000回大好きなパパの代わりには、誰もなれないだろうけど。ハッピーおじさんもローディおじさんもいてくれる。モーガンちゃんはきっと素敵な女性になる。

そしてトニーが家族という私的な最大の幸せを味わって、ヒーローとして逝った代わりに。
血清を受けた瞬間からキャプテン・アメリカとしての人生だけだったスティーブ・ロジャーズは、「わたくし」の人生を受け取りに過去に戻った。
EGはヒーローの譲渡と個人の幸福の選択が、底に流れてる。

スティーブは二人の相棒を取り戻した。それなのに過去に行き、戻らなかった。
これは沢山の見方があり、喧々囂々意見が飛び交ってる部分でもある。

私には、あのシーンでスティーブが戻らない選択をすることを、バッキーは了承してたとしか見えなかった。
それくらいバッキーは落ち着いていたし、老いたスティーブを背中で見ただけで判断できるのはバッキーらしいけど、自分が近づかずにサムに行かせるのもおかしい。自分で会いに行けばいい。あそこにいるのがスティーブに違いないと彼は確信してたと思うよ。
スティーブがストーンを戻しに行く前に、二人でそれとなく話し合ったんじゃないか。

スティーブが過去に戻ってしまい、それは歴史を変えることにならないのか。そこら辺のパラドックスが本当に難しくて、詳しく書いてくれてるフセッター等を読み漁りました。
スティーブが死んだ(と思った)後にペギーが選んだ人生と家族を、なかったことにするのは酷いという声も多いし、そうはならないんだと解釈してくれる説明もある。
読んでもわかったような、わからないような低能なので、自分で感じ取れる範囲で考えました。

ペギーのことを聞かれて、スティーブは「言わないでおく」と言った。ラストはペギーとのダンスとキスで幕を閉じたけれど、「ダンスの約束」は果たしても、結婚したかはわからないんだよね。あの指輪は他の女性とのものかもしれない。
二人がダンスしているのはダンスホールではなく個人の家だった。二人は結婚して家で踊っていると思うこともできるし、もう他の男性と結婚したペギーと約束のダンスを果たし、最後に一度だけキスを交わす許可を得たともとれる。

現在のスティーブは老いていた。超人血清がどのくらい老化を遅らせるのかわからないけれど、70年氷漬けにならなかったらあれだけ老いたのだろうか? バッキーも冷凍保存されていたからあの若さだし。
100歳まんべんなく生きてきたにしては、しゃっきりしてたのが血清のおかげなのかも。

スティーブが過去に戻ったのなら、それこそバッキーを助けるべきでしょう!というのもある。ストーンのひとつが(なんだっけ)ハワードによって引き上げられた後なので、キャプテン・アメリカが海に突っ込んだ後。バッキーもヒドラに捕らわれてる時期。
それが分かって行ってるなら、なぜ地獄からバッキーを救い出しに行かないの!? そんなのスティーブじゃない!という点。

スティーブは助けに行ったのかもしれない。そして助けられたバッキーは蘇ったキャプテンのサイドキックとして人生を全うしてるのかもしれない。
でもそうしたら、「変わってしまった過去」なので、あのベンチに座る老いたスティーブにはバッキーがちゃんといて、今いるバッキーは存在しないことになる。それについても色んな解釈があるようです。パラドックスはお手上げ(笑)

どうしてもスティーブが過去で「誰とパートナーシップを結んだか」に関心が行きがちだけど、私は彼がスティーブ・ロジャーズとしての人生を選んだんだこと自体の方が大きいと思うんです。それは「キャプテン・アメリカ」を降りて、一般人として生きたかどうかということ。
スティーブとしての幸せを選ぶのと、キャプテン・アメリカとして生きるのも同時にできないということはない。氷漬けにならなければ。
サムに盾を渡しに来てるので、スティーブはずっと盾を持ち続けてた。あの盾は個人所有のものではなくアメリカに属するものらしいので、引退してたら返す必要があったと思う。でも彼がキャップでい続けてたら、あそこにいるお爺さんは今、バッキーサムバナーと対峙してることが矛盾してくる。気がする(難しい)

なので私もまた、スティーブは過去のどの時点かでキャプテンを引退したという説をとります。血清を受けた超人の身でなにもしない選択ができるのか、そこが苦しいところですが。
スティーブはもう十二分に戦いの人生だけだった。それが人々を救っても来たけれど、ヒーローがいない世界も回る。
かつてブルックリンでバッキーに、「戦争に行かなくても国のために働ける」(セリフはDVD引っ張り出さないと覚えてない)と言われて、それでは嫌だ僕も戦いたいんだと決めていた、もやしのスティーブ。
でも戦うことの意義以上に、そのむなしさも知った。同時代の人々と生きれず取り残される悲しみも。
過去に戻ったスティーブは、頑健な一人の青年として、市井の人々に交じり工場で働き、町の人たちを助けて生きた。
そんな姿が浮かぶんですよ。

ペギーはスティーブの永遠の恋人。二人の哀しさは想いを告げられずに別れが来たこと。
ペギーはもやしの写真をフレームに入れ、スティーブはコンパスに彼女の写真を入れ続けた。
果たせなかった約束が、いつまでも二人を閉じ込めていたけれど、ダンスの約束を果たしたときに、それぞれの選択をする。
だから、結婚したのかもしれないし、他の人との人生を選んだのかもしれない。
公式ではどう設定されてるのか知らんが、私は愛やパートナーシップは本当に大事だけれど、それ以上に自分自身の選択の方が人生において重要だと思うので、この件はあいまいでいいです。

それと同じことが、バッキーとの間にも起きたんじゃないかな。
ストーンを戻しに行くスティーブは、自分の人生を選ぶ気持ちを抱いたときに、バッキーにもそれを勧めていないかな。
ウィンター・ソルジャーにならない人生を選びに行こうと。
でもバッキーはそれを断った。多くの人々を殺傷し、ハワード・スターク夫妻を殺した事実を変えられたらどんなにいいかと思うけれど、それは自分の罪からの逃避であり、記憶にある限り逃げることはできないと思った。
スティーブが過去に戻っても氷漬けにならず70年の歳月を一般人としてすごせば、大きな歴史改変にはつながらない。でもウィンター・ソルジャーが生まれない歴史は、大きく変わる。
だからバッキーは、いまのままで罪を償っていく生き方を選んだのでは。

なので一般人として年老いたスティーブと、キャプテンとして生きたスティーブの二人がいたという説を私も取ることにしました。矛盾点や謎の部分の消化はあとにする(笑)
バッキーがウィンター・ソルジャーだった自分を捨てずに生きると決めたから、バッキーとサムのドラマのタイトルが「ファルコン&ウィンター・ソルジャー」なのではないかと思う。そしてキャプテン・アメリカの盾はサムが受け継ぐものだとバッキー自身も言ったのでは。
ベンチに座っていた老スティーブは、サムに話しかけてバッキーとは会話しなかった。バッキーも近づかない。
二人の間で、すべての選択の了解が取られていたと受け取りました。

『最後まで一緒だ』を破ったわけじゃない。
あの約束は、死に向かうような局面の際に互いを決して見捨てないという男の約束であり、一生添い遂げると言った意味じゃないと思う。そう受け取って二人を同性カップルだと信じる人もいていい。私も腐女子なので、その手の小説はたくさん読んでいる。
けれど映画での二人はバディであり、互いの選択を尊重する親友同士だと私は思ってる。それも尊い関係のひとつだ。
現在に一人残っても、バッキーは贖罪を続けるという生き方を選んだんだと思う。
「俺のいない間馬鹿な真似はするなよ」「バカがいないとできないだろ」は、ファーストアベンジャーズの時とセリフが逆。これはもう、「お前と馬鹿をするのは終わりだな」という別れのあいさつのように聞こえて切ない。でもたぶん、新しい相棒と別な馬鹿をやってくれるはず。

見た人それぞれが色んな事を考え、それが正しいかはわからずとも、それで構わないんだと思う。タイムパラドックスを考慮すれば限りない説が出てくる。でも初見で、「あんな選択したスティーブなんて嫌い!」と思った人に、それらをよく読んで考えなおせというのもおかしなことで、映画の見方は千差万別で受け取り方も自由だ。
賛否両論の嵐を浴びてるルッソ兄弟が、色んな創造の余地を残して明言を避けているシーンが多いこと自体、自分の選択を君らもしなさいと突き出してきた気がします。
私は「自身の選択をする」ということに非常に重きを置くので、トニーの選択、スティーブの選択、バッキーの選択、そしてたぶんペギーの選択も見せられたんだと思い、満足です。

☆実際は2019年に見て書いた記事です
閉じたキャップブログからの転載


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