久しぶりのブログ更新となります!
今回、ご紹介したいのは安達太良山の麓にある、福島県の二本松。
江戸時代、二本松藩は石高10万石の奥州街道沿いにある城下町でした。
仙台から東北道を使って車で約1時間20分です。
初めて訪れたのですが、想像以上におもしろい、そして清々しい散策となりました。
安達太良山。
まず興味をひいたのは「地形」です。
JR二本松駅の北に東西に通っているのが奥州街道。
江戸時代の5街道の一つで、江戸を起点として東北に至ります。
駅前の街道沿いには、現在も商店が連なり、往時を偲ばせます。
街道沿い。なぜかお菓子屋さんが多いです。
一度吠えられましたが、あとは穏やかなワンちゃんでした。
二本松出身の江戸時代の画家・根元愚州がラベルになった日本酒が発売されていたようです。
ここから北に位置する霞ヶ城へは、
街道に並行して東西に伸びる丘陵を越えて行くことになります。
自然の防壁、あるいは外堀があるようなイメージです。
丘陵の南側には現在も寺院が多くあり、その役目を担ってきたことを物語っています。
丘陵の南に位置する二本松神社です。
中腹にあるため、街道は見渡せる一方、城方面の北側は全く見えません。
丘陵の北側に城は位置し、東の城下に街が広がります。
奥州街道はもともと街の中心を通っていたのを、
不特定多数の人が入るのを防ぐため、
初代藩主丹羽重光が丘陵の南へ移動させたとのこと。
街道沿いには町人が住み、商いなどをして、活気をもたらしました。
そして城に近いエリアには藩士を住まわせ、いざという時の守りをかためたというわけです。
重光が目指したのは、丘陵を利用した守りに強く、活気もあり、
往来する人々の監視もできる城下町でした。
霞ヶ城公園。とても美しいです。
戊辰戦争に出陣した12〜17歳(数え年)の少年隊(T ^ T)。
少年隊の母(;_;)。
箕輪門。
箕輪門を入ってすぐ左にある樹齢350年の赤松。樹高がこんな立派な松は見たことありません。
そしてもう一つ興味深かったのが「歴史」です。
城の東、かつての藩庁前に一つの大きな石が露出しているのが目につきます。
巨石は5代藩主丹羽高寛が、藩の儒学者岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、藩士の戒めとするために刻ませた「戒石銘碑」。
「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」
(爾の俸 爾の禄は民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)
と刻まれています。藩士に対する戒めの内容は
「藩からいただく給料は、民の汗と脂の結晶である。民は虐げやすいけれども、天を欺くことはできない」
という意味で、現代でも教訓とするべきものですね。
その教えを実践する藩士は、藩校「敬学館」でしっかりと教育されていました。
儒学のほかにも、弓術、馬術、剣術、砲術、医学など、もりだくさんのカリキュラムが組まれていたのだとか。まさにエリート教育です。
霞ヶ城公園南東にある「にほんまつ城報館」1階展示室にて。二本松藩の歴史がよくわかります。
この施設は、開館したばかりで、丹羽家18代当主が名誉館長をつとめていらっしゃるそうです。
「職員49人、教授26人、生徒数650人、助教(定員なし)」と書かれています。手厚いですね。
戒石名碑の南にある、戒石茶屋でお昼をいただきました。
ソースかつ丼が肉厚なのにあっさりしていておいしかったです。
板そばとサービスのコーヒーがついて1100円!
二本松藩は石高10万石のけっこう大きな藩でしたが、
今まであまりそういう認識はなく、恥ずかしながら、
ほとんど知らないといってもいいぐらいでした。
今回の訪問で、二本松の歴史のおもしろさ、そして場所の重要性と地形を生かした街づくりを実感しました。
二本松の基盤となる阿武隈山地は、東北では珍しい花崗岩です。
花崗岩は地下のマグマが、ゆっくり時間をかけて固まり、地表にでてきました。
白や薄茶色や黒や、キラキラ光る粒のそろった鉱物がよく見えます。
墓石や建材によく使われているので、目にしたことがある方も多いと思います。
また花崗岩は独特の亀裂(節理)が生じ、年月がたつと、節理に伴い風化がすすむのが特徴です。
街は花崗岩の風化が生み出した独特の地形に逆らうことなく、
むしろ上手く利用して築かれました。
そして風化にともないできた巨石に戒石名碑は刻まれ、
二本松の精神を支えてきました。
おもしろいと感じた「地形」と「歴史」は花崗岩でつながっていました!
ちょっとブラタモリっぽいですか??(笑)
地形と歴史は深くつながっているのはたしかで、
まだまだ掘り下げられる要素は多くあるはずです。
縦割りでは見えない部分が、もっと見えるようになればおもしろいですよね!!
こちらで二本松の日本酒「奥の松 純米大吟醸」を購入しました。
いただくのが楽しみです♬
今回、ご紹介したいのは安達太良山の麓にある、福島県の二本松。
江戸時代、二本松藩は石高10万石の奥州街道沿いにある城下町でした。
仙台から東北道を使って車で約1時間20分です。
初めて訪れたのですが、想像以上におもしろい、そして清々しい散策となりました。
安達太良山。
まず興味をひいたのは「地形」です。
JR二本松駅の北に東西に通っているのが奥州街道。
江戸時代の5街道の一つで、江戸を起点として東北に至ります。
駅前の街道沿いには、現在も商店が連なり、往時を偲ばせます。
街道沿い。なぜかお菓子屋さんが多いです。
一度吠えられましたが、あとは穏やかなワンちゃんでした。
二本松出身の江戸時代の画家・根元愚州がラベルになった日本酒が発売されていたようです。
ここから北に位置する霞ヶ城へは、
街道に並行して東西に伸びる丘陵を越えて行くことになります。
自然の防壁、あるいは外堀があるようなイメージです。
丘陵の南側には現在も寺院が多くあり、その役目を担ってきたことを物語っています。
丘陵の南に位置する二本松神社です。
中腹にあるため、街道は見渡せる一方、城方面の北側は全く見えません。
丘陵の北側に城は位置し、東の城下に街が広がります。
奥州街道はもともと街の中心を通っていたのを、
不特定多数の人が入るのを防ぐため、
初代藩主丹羽重光が丘陵の南へ移動させたとのこと。
街道沿いには町人が住み、商いなどをして、活気をもたらしました。
そして城に近いエリアには藩士を住まわせ、いざという時の守りをかためたというわけです。
重光が目指したのは、丘陵を利用した守りに強く、活気もあり、
往来する人々の監視もできる城下町でした。
霞ヶ城公園。とても美しいです。
戊辰戦争に出陣した12〜17歳(数え年)の少年隊(T ^ T)。
少年隊の母(;_;)。
箕輪門。
箕輪門を入ってすぐ左にある樹齢350年の赤松。樹高がこんな立派な松は見たことありません。
そしてもう一つ興味深かったのが「歴史」です。
城の東、かつての藩庁前に一つの大きな石が露出しているのが目につきます。
巨石は5代藩主丹羽高寛が、藩の儒学者岩井田昨非(いわいださくひ)の進言により、藩士の戒めとするために刻ませた「戒石銘碑」。
「爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺」
(爾の俸 爾の禄は民の膏 民の脂なり 下民は虐げ易きも 上天は欺き難し)
と刻まれています。藩士に対する戒めの内容は
「藩からいただく給料は、民の汗と脂の結晶である。民は虐げやすいけれども、天を欺くことはできない」
という意味で、現代でも教訓とするべきものですね。
その教えを実践する藩士は、藩校「敬学館」でしっかりと教育されていました。
儒学のほかにも、弓術、馬術、剣術、砲術、医学など、もりだくさんのカリキュラムが組まれていたのだとか。まさにエリート教育です。
霞ヶ城公園南東にある「にほんまつ城報館」1階展示室にて。二本松藩の歴史がよくわかります。
この施設は、開館したばかりで、丹羽家18代当主が名誉館長をつとめていらっしゃるそうです。
「職員49人、教授26人、生徒数650人、助教(定員なし)」と書かれています。手厚いですね。
戒石名碑の南にある、戒石茶屋でお昼をいただきました。
ソースかつ丼が肉厚なのにあっさりしていておいしかったです。
板そばとサービスのコーヒーがついて1100円!
二本松藩は石高10万石のけっこう大きな藩でしたが、
今まであまりそういう認識はなく、恥ずかしながら、
ほとんど知らないといってもいいぐらいでした。
今回の訪問で、二本松の歴史のおもしろさ、そして場所の重要性と地形を生かした街づくりを実感しました。
二本松の基盤となる阿武隈山地は、東北では珍しい花崗岩です。
花崗岩は地下のマグマが、ゆっくり時間をかけて固まり、地表にでてきました。
白や薄茶色や黒や、キラキラ光る粒のそろった鉱物がよく見えます。
墓石や建材によく使われているので、目にしたことがある方も多いと思います。
また花崗岩は独特の亀裂(節理)が生じ、年月がたつと、節理に伴い風化がすすむのが特徴です。
街は花崗岩の風化が生み出した独特の地形に逆らうことなく、
むしろ上手く利用して築かれました。
そして風化にともないできた巨石に戒石名碑は刻まれ、
二本松の精神を支えてきました。
おもしろいと感じた「地形」と「歴史」は花崗岩でつながっていました!
ちょっとブラタモリっぽいですか??(笑)
地形と歴史は深くつながっているのはたしかで、
まだまだ掘り下げられる要素は多くあるはずです。
縦割りでは見えない部分が、もっと見えるようになればおもしろいですよね!!
こちらで二本松の日本酒「奥の松 純米大吟醸」を購入しました。
いただくのが楽しみです♬
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