月乃和熊(ツキノワグマ)のささやき

歴史好きオヤジが細々と大震災、水害、雪害の復興花火や図書館の蔵書の支援を続けていまふ。

【赤穂事件(4)】なぜ内匠頭は上野介を仕留められなかったのか?

2011-12-27 21:43:00 | 赤穂事件
【赤穂事件 第4弾】
なぜ内匠頭は上野介を仕留められなかったのか?
松の廊下で上野介を襲った内匠頭は、周りの人々に取り押さえられたとはいえ、なぜ上野介を確実に殺すことができなかったのでしょうか?
月乃和熊おじさん的に、検証してみました。

1.動きにくい衣装
事件当日、上野介は位階が高いので徳川御三家などと同じ、風折烏帽子(かざおりえぼし)を被り、直垂(ひたたれ)に長袴(ながばかま)のいでたちで、腰には殿中差(でんちゅうざし)の刀を差していました。

対して浅野内匠頭は、風折烏帽子を被り、大紋(だいもん)に長袴、腰には殿中差といういでたちです。
大紋は直垂から変化した五位の大名が着ることを許されている衣装で、左右の胸、袖などに家紋が染め抜かれています。

いずれにしても、裃(かみしも)などにくらべて、とっても歩きにくい衣装だったので、内匠頭は素早く上野介を襲撃することができませんでした。

 松の廊下襖絵

2.小刀
上野介を襲撃した武器は、殿中差、小サ刀(ちいさがたな)ともいう、刃渡り25cm程度の装飾用の小刀で、鞘におさめた状態でも40cm程度しかありません。

江戸時代になると、脇差と呼ばれる小刀は刃渡り1尺以上2尺未満と決めらていました。
大脇差は1尺8寸以上2尺未満(約54cm~約60cm)
中脇差は1尺3寸以上1尺8寸未満(約40cm~約54cm)
小脇差は1尺から1尺3寸未満
脇差は予備の刀とはいえ実戦用なので、細い規格があったようです。
それに比べ、小さ刀は襲撃に用いられるような刀ではありませんでした。

ちなみに新選組の近藤勇や土方歳三は、太刀のような脇差を愛用していたのは有名なお話。

3.内匠頭はなぜ上野介を仕留められなかったか
小サ刀は、刃を上に(当然鞘に刃を納めてですが)して腰に差します。

敵を襲撃する場合、そのまま素直に右手で小サ刀を抜くと刃は上を向いているので、内匠頭が上野介に刀を振り下ろしても峰打ちにしかならないはずです。
上野介は肩と額を切られているので、内匠頭は小サ刀を抜いた後、わざわざ刃を下に持ち替えて襲いかかったとしか思えまず、いたずらに傷を負わせることはできても、とても一撃で致命傷をあたえることはできませんでした。

小サ刀で敵を確実に殺傷するには、頸動脈や動脈を切りつけ大量の出血を強いるか、心臓などの急所を突くしかありません。
心臓を突くにしても刃が上を向いた状態では、肋骨にガードされてしまうので、刃を寝かせて肋骨と肋骨の間から切っ先を押し込むとか、腹部を突いた後に手首を回して内臓を損傷させなければ、一撃で相手を仕留めることはできないのです。
平和に慣れた元禄期の殿様が、咄嗟に小サ刀で人を殺すのは容易なことではなかったのでしょう。
ひょっとすると、内匠頭は本当は殺すつもりなどなかったのかも知れません。

◇おまけ◇
ちなみに武士のように大小の二本差しは認められていませんが、庶民でも旅をするときは帯刀を認められました。
水戸黄門で町人に変装した格さん、助さんが小刀を差していますし、清水の次郎長のように侠客も刀を差しています。
(次郎長の子分の大政は、元武士なので槍なんぞも持ってますけど。。。)
庶民が旅をする場合、江戸時代の旅は小銭がかかるので、見た目は刀のようでも小銭をしまえるように細工された模擬刀などもあったそうです。

【赤穂事件(5)】義士の墓は48基ある?! 2012-02-04 につづく~
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今年は普通に生活できることの、ありがたさを痛感させられた年でした。
来年は震災などない、普通の年でありますように。


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1 コメント

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殿に御注進 (玉葱南瓜)
2019-03-28 17:35:41
梶川筆記は二種類有るのはご存知でしょうか。東大史料編纂所にあるこの間の遺恨憶えたるかというものと東大総合図書館にある声を掛け切りつけられたるというものです。
私は友人と30年以上元禄赤穂事件を研究していますが、未だにどのような遺恨が有ったのか具体的に正確に記載されている資料は有りません。
よく言われる増上寺の畳替えは幕府の方で行ったのを事件が起きなければ、其々浅野と伊達でその費用のみ負担しますし、横恋慕は是は相手の奥方はどのような方か判るのは難しいと学者さんは言っています。又塩田云々は全くの見当違いだと是も多くの学者さんが言っています。其れに指導料その他に付いても御馳走人を請け負った其々の藩では記録に残しているばかりか次の御馳走人にもその記録が行く様に手配するのも御馳走人の仕事の一つでしたし、一藩だけが突出して指導料や経費が多かったり少なかったりする事も無かったのは現在に残されている御馳走人を務めた藩の御馳走日記を調べても明らかです。
又是も様々な学者さんが言っているように吉良はそもそも江戸にあまり居なかった、つまり京都に幕府の使者として行っていて、浅野や伊達が二月四日に拝命してから、二月二十八日迄江戸を留守にしていた訳で更には浅野は是が二度目の御馳走人拝命ですから手順その他で吉良に苛められる或は辱められるというのも物理的にも論理的にも難しい訳です。
つまり少なくても遺恨による刃傷はとても考えずらい不合理な事に成る訳です。
なので、東大の二つの梶川筆記は最低でも再検証や調べ直す必要が有ります。
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