毎日の ように家に遊びに来る曽孫の成長に辟易してしまう。保育園では標準語で生活させているので、方言で語り掛けると指摘されてしまう。踊りを踊って見せて呉れる。一方私は言う言葉がでない、忘れることばかりで、彼女とは真逆である。走ることも、ついていけない位で、悲しくさえ思える。当たり前の事だが先の短さを感じ一抹のさびさを覚える。これから先色々な困難に会いながら生きて往くであろうことを思うと70年先どんな世界になっているであろうかと、心配にもなる。ともあれ今日の平穏を喜び一日一日を大切に終わりを迎えたいと思っている。
先日、夜中にトイレに起きて暗闇の中、ベッドの脇で転倒し、脛をしたたかに打ち、明朝見ると内出血で、びっくりであった、齢をとるとすぐにそうなることは、夫がしばしば経験しているので解かっているが、あまり嬉しいことではない。部屋には震感センサーのついた器具が枕元においてあるが、なれた部屋なので、くらいままであった。(失敗)そこで、やはり人感センサーにすべきと知り、取り替えた。すでに私達の住む隠居屋の廊下に2個、トイレ、クローゼット、物置部屋、には人感せんさーになっている、今回さらに玄関、私の寝室、屋外トイレに、人感センサー電球に取り替えた。ゆくところ電灯が、「すー」と自動で灯ることは嬉しいことである。これも「終活」の一つと思う。
私達が生まれた頃は、住宅の一棟に1個の電灯で、母屋に1個、離れに1個しか灯りはなかった、しかも時間が来ないと電気はこない、家族が一つの電灯の元へ集まり、それぞれのやるべきことをする、それで当たり前と思っていた。電気器具は何もない、何もかも人力でするしかない。今のアフリカの一部ではまだ、そんな暮らしがある。私達の国の文化に感謝すべきを思う。アフリカの後進国の人たちが、今のオリンピック、ソチを見たらなんと思うだろう。
10数年まえ、リモコンで電灯を点灯させるのを見たとき、ちょっと羨ましく思ったのを思い出す。本を床の中で寝ながら読み、スイッチを押すことも無しで其のまま寝られるからである。80年の間にどれほどの文化、科学を見せて貰った事か。これからが恐ろしくもあるが、今は、感謝あるのみである。 おわり
長い間、大騒ぎしていたオリンピックも、あとわずかになった。選手の人たちも悲喜こもごもで、これから奮起する人、これで卒業する人、様々である。種目によっては、一発勝負で、プレッシャーの厳しいものなど大変と思われ、私のような気の小さいものには、考えられない、大変な一大イベントである。選手達は、国の名誉と威信を背負って頑張ってくれたことを思い拍手を送りたい。
このごろ、二月半ばと言うのに、大寒波で太平洋側は大変なことになった、先年の暑い夏の日を思うと、この温度差に喘ぎながら生きることを思うと、もう「極楽」と言う国へ行ってもいいなー、とぼんやり思う。しかしそれははたして、本心か?今日も国会の審議を聞いていると、様々なことを憂い国会議員と同じように、国を憂いいろいろな矛盾をを感じてしまう。何時の時代も、右に寄り左に寄り、「中庸でみんな幸せ」と言う政治は困難らしい。
今は「春よ来い」そうしたら、花が咲き少しは楽しい気持ちになり、何処かへ出かけたくもなるだろう。
一月半ば、短歌の仲良し友達4人で会い、お食事会をしようという話が纏っていた。数日前にその一人が転んで骨盤が割れて入院したと言い、細かいことは会った時に話すと言う。彼女は某建設会社の社長の奥さんで、姑、舅を、長いこと面倒を見られ、それが終ると、彼女の夫が7年間意識が有るや、なしやの状態で施設におられ、毎日かかさず25キロくらいの距離を見舞っておられ皆その優しさに感心していた。30年ものながい間、殆ど人の面倒を見ていたような生活であったたが、あまり愚痴を聞いたことがないと、ささやいていた。でも普通のサラリーマンと違い経済面では随分おおらかな暮らしぶりで、若い頃は外国旅行は派手に何処へでも行かれていたようだった。彼女の並外れた優しさに感心して、不思議な人だと評していた。
入院を聞いて間無く彼女が亡くなったと、興奮した口調でその友達が電話をしてきた、私も驚きの声をあげた。昨日その予て決めていた日が来て、出掛け、そして一部始終を聞いた。それは物語のような話であった。彼女は骨折したのは、息子夫婦と、その孫とで、夕食を外で済ませ、家の門を入る前、空を仰ぎ「綺麗な星空ね」と言ったとき小さな段差に躓き転んで骨盤が割れたと言い、救急車で運ばれそして入院、骨折を治療するため固定することになった言う、そして苦しい寝たきり状態があり幾日かを経て血栓が肺に入り、死亡したと言う。足を固定した為、俗に言う、「エコノミー症候群」の状態になったのではないかという話であった。私にその話を伝えた友達は、見事な死であったと、羨ましいそうに結論づけた。なるほど今から手術、リハビリと続くであろうと思うと、それもそうだと、私も納得であった。 30数年来の友達の、ふくよかな写真を飽くことも無く何時までもながめていた寂しい夜であった。 合掌