文明の利器と言われるモノが増えると
ある一つの事を処理するスピードだけは
確かに上がるのでしょうけれど・・・
それに伴いある区切られた時間の中で
本来人一人が収束できるだけの範囲を
軽くオーバーフローしてしまうのも事実なんですね。
結局その”カラクリ”に翻弄されて
余計に忙しくなってしまうのが現状ですよね^^;
余裕を持って生活するために作られたモノが
さらに余裕を奪うためのモノになっている。
これでは本末転倒であるなと最近考えてしまうのです。
”何を今更そんな古臭いことを・・・
それをうまく収束するのが情報化社会の常でしょ?”
と言われる諸兄もいらっしゃる事でしょう。
”でも、本当にそうなのかなぁ・・・?”
と疑問の”歩”を一手投じてみる。
あわよくば千日手になりそうな局面で
敢えて”歩”をつくことに
果たして意味があるのかどうか?
言葉が先行し過ぎてしまうかもしれませんが
心の豊かさとは”退化”の中に存在する財宝であると思ふのです。
其れは進化に伴う物理的な加速理論に反比例していきます。
処理する物事が増えた場合に
ただそれを補うだけのスピードを求めるだけでは
それを処理する本来の意味を見失うのではないか?
所謂”中身”がない状態になってしまう。
言われた事だけを素早くこなすだけが
人の能力ではないはずである。
なぜ私は此処で之を行うのか?
その必要性と自身の存在価値を確かめるために
本来私達は生きているはずなのではないのか?
そしてその必要性と自身の存在価値は
人の為になる事が大前提である。
その為にどういう行動をするべきか?
それを考えられる能力を持った人が必要な時代なのです。
”何のために?”その意味を知ろうともせずに
右往左往しているだけの日常では寂しい。
IT教育に携わる者が業務に逆行する事ばかり・・・
これでいいのか? ”いいのである”と私は言いたい。
私が皆さんに伝えたい事は本来ITそのものではないのです。
人としての在り方。自身の理想とする信念。
インフォメーションテクノロジーの根底に流れる物。
人が人として生きるために必要な物。
過去にも未来にも自分は居ないのです。
今日という日を生きているそれが自分です。
私達は一歩一歩自身の歩を進めるために生きている。
何処かに”一歩”を投じるのは自分自身に他ならないのです。