切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

蓮久寺・・・吉野太夫      京都市下京区 2024.5.2 訪問

2024-05-23 22:06:40 | 撮影
 

 下京区の五条大宮交差点の南西側にある。現場に着くと真っ赤な 山門がすぐ目につく。あちこち探す必要もないほどだ。あまりにもこの山門が目立ちすぎて、これだけで蓮久寺を見た感覚にとらわれてしまいそうだ。

 創建は江戸時代初期の寛文元年、1661年となる。全国に同じ名前の蓮久寺というのがあるが、全て日蓮宗のお寺となる。
 この赤門は一般に吉野門とも呼ばれ、これは遊女である 2代目の「吉野太夫」による寄進である。吉野大夫というのは京都において、太夫に代々伝えられてきた名跡であり、蓮久寺と関わりがあるのは2代目となる。それ以降の吉野太夫についてはよく分かっていないようだ。この吉野大夫は近代においても、文学や映画などにあるいはテレビドラマにもよく取り上げられている。当時においてもあらゆる文芸に優れ、稀に見る美貌であったといい、その名は日本各地 だけではなく、当時の明の国にも伝わっていたという。わずか36年という短い生涯ではあったが、島原における大きな存在として語り継がれることになった。

   

  この蓮久寺も吉野太夫のお陰か、今現在でも芸能上達のご利益があるという。そういった点から様々な芸能人が参拝に訪れているようだ。
  現住職は日蓮宗の教えを説く際に、怪談話を用いておりこれも非常に有名だ。説法のある日には大勢の人が集まりこれらの話を聞きに来るという。

 境内ははっきり言って狭い方となるが、巨木が1本立っており本堂が控える。ガラス越しに見ると曼荼羅らしきものは見えなかった。境内の片隅に釈迦如来の石像があり、この辺りの事情はよくわからない。決して長い歴史を持つ お寺というわけではないが、吉野大夫との関連で広く名の知られるお寺となった。

  
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山王神社・・・平安時代から?   京都市東山区   2024.4.28 訪問

2024-05-21 22:32:58 | 撮影
 

 東山区の京都女子大学の東方にある。街道沿いであり少し高くなった場所で、比較的狭い敷地に境内と本殿が鎮座している。神社の由来は不明だが平安時代にこの地に清閑寺というお寺があり、その境内地にあったのではないかと言われる。そういった意味では当神社も 平安時代、あるいはそれ以前からあったのではないかと考えられる。清閑寺の守護神としての位置付けがあったようだ。

  

 最初から鎮守社として創建されたのではなく、近江国日吉大社から勧請されたと言われている。祭神は七神あり、特に大山咋神は各地の神社にも祀られていて、非常によく知られている。古事記にも日本書紀にも登場し、土地の所有を表す地主神とされ、比叡山延暦寺においても守護神として扱われ、さらに平安京などの鬼門の守護にも位置づけられたという。

 

 長期にわたって清閑寺の守護神として栄えてきたが、明治維新後は政府の方針によって清閑寺の領地は大部分が取り上げられ、同時に山王神社の境内も極めて狭いものとなった。後に守護神から切り離され、今の血に神社だけが移転して現在に至っている。ご利益は家内安全が主たるものだ。

  
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《 3年半ぶりの学生5人組同窓会 at 山口県 》④    2024.5.9

2024-05-19 22:59:32 | 旅行


 最終日。やはり朝早く起きて朝食へ向かう。 M 君は予想通りと言うか、気の毒に2人からのいびき合唱攻撃あまり眠れなかったようだ。ややお疲れ気味という感じ。昨日の朝と同様 バイキング形式の中から野菜や焼き魚、あとサラダ、ヨーグルトその他色々と取っていく。でも友人3人たちの分量と比べると私のは明らかに少ない。残念ながらこの分量で十分というこれはもう悲しいとしか言いようがない。

  食べ終わってしばらくすると、Y 君が自宅からやってくるので、急いで部屋に戻り帰り 仕度。鞄の中に色々と詰め込んで、私の場合は朝食後の薬をたくさん飲んで出発準備完了。 O君や F 君、 M 君も準備完了。昨夜は何だかんだで2人が部屋のキーを一時無くしてしまったが、そのこともあって忘れ物がないか、きちっと2部屋を確認する。部屋のキーも持ったしスマホも確認。ロビーに出て支払いを済ませる。

    

  すぐに Y 君が到着し、この日は特にどこかへ行くという予定も立てていなかったので、疲労感もあってこの場で解散ということになった。 F 君が自宅から車で来ていたのでお互い無理をせずということで、最後に全員で写真を撮り F 君とおさらば、ということになる。
  

  残りの4人は新山口駅へ向かう。ところがその最中、M 君がわざわざ要請に応じて持ってきてくれたギターを全く披露していないことにやっとこさ気付き、これはミニコンサートをしなければならないということになった。一旦新山口駅に到着し、どこで演奏しようかということになったが、まさか 駅前ではどうにもこうにも恥ずかしいし、ひょっとして許可がいるかもしれないので、 Y 君によれば駅の近くにかなり広い公園があるということで、そちらへ向かうことにした。



 新山口駅は新幹線が開通してからこの名称になったものであり、それ以前は山陽本線の小郡駅という名前だった。その時代にこの駅を利用したことがあるが、駅前は比較的閑散としていてあまり何もなかったような気がする。しかしやはり新幹線効果なのか、かなり開発が進んでいてビジネスホテルや観光ホテルなども建ち並び、マンションや民家などもそして道路も整備されて見違えるようになっていた。3年半前のこの同窓会では、新岩国駅で解散したために、新幹線の時刻表を見るとなんと1時間に1本しかない。そのためにすぐにやってくる列車に乗るために、私は急いで切符を買って階段を駆け上がっていくが、他の2人は切符を買うのに手間がかかり、乗れなかったという苦い思い出がある。新山口駅は1時間に4~5本は止まるので、その点随分ましだと言える。

 さて近くの広い公園に到着し、 M 君はギターを持って東屋へ落ち着く。少し休憩して M 君のミニコンサートを開始する。
  M 君はもともと大阪市の中学校に勤務していたが、家の都合で岡山県を受験し直し無事 採用され、倉敷市の中学校の教員となった。後年家の近くに転勤届を出したのだが思いもよらぬことに養護学校に転勤となった。今ではどうかわからないが、当時の岡山県では教育委員会が小中高の各先生方に、教員生活の 一時期を必ず養護学校を経験させるという意味での転勤が義務付けられていたようだ。 M 君もそれに該当してしまったということだ。
 ところが養護学校で勤務を始めたところ、職員室内では中学校や高校など様々な学校から来た先生方の一部が不満をあちこちで口にしており、知的障害のある子に一体何を教えるというのか、といった信じられないような会話が公然となされていたという。彼はそれに反発し、教員がこんな状態で教育が成り立つ はずがないと自分なりに工夫して、障害のある子たちへの教育に立ち向かうようになったという。
 その方法の一つとして音楽を利用して教育をするという方法があり、およそ楽器に縁のなかった彼が唯一できそうなのがギター ということで、30代半ばにしてゼロの状態からギターに取り組み始め、それを弾き語りをしたりそのうち自分で作詞し、さらに 作曲もして 生徒たちに受け入れやすい歌を次々に発表し、教室にも笑いが増えたという。
 このような努力の結果、 M 君の作詞作曲によるフォーク長の歌は曲数が増え、音楽仲間の人たちとミニ ホールで披露することもあったという。さらに曲をまとめて CD に録音し、今までに3枚の CD を発表している。本当に大したものだと思う。

 O君の司会のもとミニコンサートが始まった。私は撮影役。O君とY君は拍手などで盛り立てる。やはり30数年も歌っているので、改めてギターの扱いと歌声に驚かされた。ボイストレーニングまでしたかどうかは知らないが、張りのある声がよく通る。長い曲は5分間にも及ぶ。コンデジとスマホで録画した。スマホを持っている仲間には LINE で動画を転送する。これまた非常にいい思い出となった。あれだけ歌えるならば中規模ホールだって十分だと言える。写真といい、 Sing Song ライターとしても本領発揮の M 君だ。本当に本当に地道な努力が実って教育にも生かし、偉いとしか言いようがない。

 

 ミニコンサートが終わって新山口駅前に戻り、 Y 君とはここでお別れ。宇治、枚方、岡山からやってきた3人は昼が近づいたので、駅前の海鮮どんぶりの店に入って早めの昼食ということになった。私には分量が多すぎるのは分かっていたが、注文することにしていざ食べ始めると、どんぶりの上に乗っかった様々な 刺身のあまりにもの美味しさにびっくり。京都のような内陸部ではスーパーの握りでもとてもこうはいかない。やはり海の近いところの新鮮な刺身は食べ応え十分だ。私は分量の多さに途中でご飯の部分をギブアップ。 M 君は2晩よく眠れなかったこともあって途中でギブアップ。O君は食欲旺盛であっという間にたいらげてしまった。

   

 帰りはもちろん新幹線なのだが、私は割引切符なのでのぞみ号には乗れない。ところが もう間もなくのぞみ号がやってくる。私が乗ることのできるさくら号は1時間近くも待たなければならない。駅員に訪ねてのぞみ号に乗るにはいくら追加すればいいのか聞いてみると、 1000円だというわけで、3人でのぞみで帰ることにした。帰りも3人であれこれ喋りながら来年度は岡山 あたりではどうかなどと話したりして、全員が健康でまた揃って会えることを楽しみに、各駅で降りて行った。私が自宅に着いたのは午後6時少し前だった。



 それにしても各自、老後生活をかなり有効に過ごしているのがよくわかった。市役所に勤めていた Y 君は、今は古代史の勉強を続けている。彼の脳みそはかなり高性能を保っており、古代の人物の名前もすっと出てくる。私も同じく今、古代史を勉強しているが目的は飽くまでも日本人の精神形成がどのようになされてきたのか、ということを知りたくて平安時代までを一つの区切りとして、今勉強している最中だ。O君は相変わらず小論文などの執筆に忙しく、人から頼まれるとその課題に関する下調べや調査・文章化などなどを精力的に行っている。 F 君は独自に経済学の勉強をしているが、今のマクロ経済についてはやはり 独学というのはかなり敷居が高い だろうと思う。数学の勉強もしなければならないし、なかなか困難であることを以前聞いていた。 M 君は写真と作詞・作曲・演奏にマイペースで取り組んでおり、そのうちまた写真で入賞するかもしれないし、 CD もさらに出すかもしれない。
 そういった意味では皆さん、本当に大したものだと思う。老後を特に何もせず部屋の中でゆっくりし、たまに散歩して1日が終わっていくというのではあまりにも寂しい。やはり頭がしっかりしてるうちは、自分自身の興味のあるものをどのような方法で、どれだけ追求していくのか。さらにできればその成果を何らかの形で発表する、残すということも大きな目標に設定できる。こうしたモチベーションをいかに保つかという点では、やはり何でもかんでも興味を持つということが大切であり、自分自身の気持ちの中に何らかの 怒りや許せないなどといった気持ちをどれだけ持ち続けることができるのか、ということがポイントだと思っている。こういったものをなくしていくと、ただ単に体だけではなく頭も急速に衰退していくだろう。それだけは絶対に避けたいことであり、普段は自分なりに勉強してブログを書いて発表し、写真を撮るということも単なる趣味というよりは、ブログの材料として位置づけている。そして たまにこのように友人たちと会うことによって、また勇気をもらうことができると思っている。来年もまた一人も欠けることなく、この同窓会が実施できればと思う。
  (以上、終わり)

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《 3年半ぶりの学生5人組同窓会 at 山口県 》③    2024.5.8

2024-05-18 23:04:38 | 旅行
 2日目はずいぶん早く目が覚めた。O君のいびきがあったもののやはり遠くまで来ると、それなりに疲れはあるんだろう。比較的 よく眠れた。各自が起きてきてすぐに朝食に行く。ほとんどのホテルでは朝食はバイキング形式となっている。レストランに入るとテーブルに案内され、そこから各自が一品ずつ取っていくが、このバイキング形式 というのは客の立場としては様々なものを自由に選べていいものだが、ホテル側としては果たしてどうなんだろうか。その日その日に宿泊している人数によって分量の調整はしているのか。おそらく不足すると客に迷惑がかかるということで、多めに用意しているのだと思われる。そういった意味では残菜が少なからず出るような気がする。これは今までホテルを利用した経験上、どこのホテルや旅館においても言えることだ。旅館などは1人1人決まった分量の内容で、あまり残菜は出ないと思われるが、このようなホテルのバイキング形式においては結構無駄が出てしまうのではないかと思う。

 

 私の場合には食道がんの手術で食べる量に一定の制限があり、本来ならばどうしても目移りしてあれもこれもと思ってしまうが、そこは我慢して種類も分量もどうしても少なめということになる。なんだか損した気持ちになってしまうのだ。

 朝食を終えて出発準備をしているうちに、 Y 君が自宅からホテルに到着した。連泊なので2つの部屋はそのままの状態にして出発することになる。ホテル側にも室内はそのままにしておくように頼んでおいた。

 元々2日目は秋芳洞・秋吉台という山口県最大の観光地に行って、その後は日本海側の萩市を訪れ、松下村塾を始めとする町の中を散策する予定だった。しかし秋芳洞や秋吉台はすでに行ったことのある人が多く、急遽予定を変更し隣接する島根県の津和野市へ向かうことにした。
 私も 津和野市へ行くのは初めてだ。ずいぶん前に通過したことがあるが、車から降りることなくそのまま行ってしまった。津和野市は山陰の小京都と呼ばれ、古い町並みが政策として綺麗に整備されている。この町の名所である「 森鴎外記念館」に立ち寄る。森鴎外がこの町で10歳まで過ごしたという。彼の作品や原稿、書斎などが当時のまま残されていて、 全て見学できる。他にも西周の記念館などもあるが、街並みを散歩し用水路の大きな鯉を見てきた。おそらく何百匹ともいるだろう。これはこれで名物の一つとなっている。

       

 市内の沙羅の木という民芸店で食事もできるということで、昼食。お土産も買って津和野を後にしようというとき、 F 君が携帯を落としたと言い出した。友人の携帯で電話してみても音は聞こえない。落としたシーンを回想してみると、おそらく工事現場の人に道を尋ねようとした時に F 君が車から降りていたのを思い出し、あの辺りではないかということで向かう。はたして予想はピタリと当たった。工事関係者の人が、さっき電話が鳴っていたよと教えてくれた。

   

 ここから萩市へ向かう。とは言っても萩市内の古い町並みの散策ではない。市街地中心部から少し離れたところに、「笠山椿群生林」があって、 Y 君はそこを案内した。しかし椿の花はすでになく、残った木や草などが群生している状態だった。さらにその近くに日本で一番小さい火山の火口があるということで立ち寄る。もうすでに死火山だと思われるが、水が溜まっていた。本当に日本一小さいかどうかはわからないが、山口県としてはそのようなキャッチフレーズで紹介しているようだ。この近くの高台から萩市内の中心街が遠くに見ることができた。こうしてレアな萩市を堪能?した。

    

 夕方が近づいてホテルへ戻ることになった。 Y 君にも是非 、O君や M 君の「お土産」を見てもらおうということだ。到着して 早速部屋に戻り、O君の小論文が載った冊子をみんなに配り、 Y 君にも読んでもらう。 M 君は自作の「写真集」 分厚い 2冊があった。しかし 書籍の形式を取らなかったために、どこの書店でも置いてくれなかったという代物だ。それでもプリントアウトその他にそこそこの金額がかかったという。O君はその中から気に入った数枚を選んでいただいていたようだ。慌ただしく夕食の時間となり Y 君は自宅へ戻っていく。この日も長い距離の運転という負担をかけてしまった。申し訳ない。

 この日は時間的な問題もあって、昨夜のように食べどころを探すのに時間もかかったので、O君が近くのコンビニで4人分の弁当を買ってくるということになった。しかしこうした旅先では不慣れなこともあって、ちょっとしたミスも起こしやすくなる。 F 君が部屋のカード キーがないということで探す。その最中、私も何か慌てていたのか。気がついたら やはり部屋のカードキーがない。なんとか F 君 の カードキーがロビーの椅子の上にあるのが見つかり、一件落着。私のキーはひょっとしてと思って、先ほど入った温泉の更衣室のところに戻って探してみた。予想があたり無事発見。他にも少しトラブったことがあったが、最終的にはいびきの問題などもあり、私と F 君が部屋を交代。こうして色々あった1日が終わって眠りについた。 M 君はお気の毒に、 2人のいびき猛者の合唱に悩まされながら眠ることとなった。私はベッドに入った瞬間に深い眠りに落ちた。


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《切れ爺いさんの食道癌闘病記》 No.44 ・・・1年ぶり、最終検査   2024.5.17

2024-05-17 22:42:01 | 闘病記


 今日 1年ぶりに京都第一日赤病院へ行く。 1年前に食道がんについては寛解ということになった。しかしその時の胃カメラの映像には、かなり強めの胃潰瘍の傷が見て取れた。従って抗がん剤そのものは以前から停止していたものの、胃潰瘍の服薬は今後も継続するということになっていた。そして1年後にどこまで改善しているかどうかを胃カメラで確認するということで、予約がなされた。その予約日が今日なのだ。

 通勤時間帯に病院まで行くのは久しぶりだ。昼間なら30分もあれば行けるところをほぼ1時間近くかかった。とりあえず朝一番 ということだったが、既に多くの患者が訪れている。採血の順番は50という数字が打たれていた。

 その後内視鏡のコーナーへ移動する。ここにも既に数名が待っていた。もうこれで胃カメラの検査を受けるのは何度目だろうか。 2017年の8月に宇治市の健康診断で、バリウムによる胃がん検診を拒否し、会えて初めて胃カメラで見てもらうことにした。地元の中核病院だ。その時に検体が採取された。その時点で自分なりに、ひょっとしてこれはやばいのかもしれないと思ったものだ。

  9月に病院に呼ばれて結果が報告された。食道がん。 ある意味心の中に覚悟があったのかもしれない。さほど ショックは受けず、そうですかと淡々と聞いていた。ただし一般の食堂がんとは違って、複雑な手術になるので拠点病院を紹介するということで京都第一日赤病院に行くことになった。

 もしこれがバリウムであれば見つかっていたかどうかはわからない。バリウム検査には 独自に良い点があるようで、食道や胃の内壁を包括的に見られるということのようだ。一方 胃カメラは内壁を鮮明に映し出すが、内壁の内側までは見通せない。バリウムではその内側まで影という形で映し出すことができるようだ。私の友人も最近、バリウム検査で初期の小さな胃がんを発見してもらい、すぐに比較的簡単な手術で取り除くことができたという。

 胃カメラは慣れているので、胃の洗浄・喉の麻酔をジェル状の液体で行い、ベッドの上に横になる。今回は看護師さんがモニターを見たいのであればそのような角度にしますので、 という配慮があって存分に見ることができた。喉を通り過ぎて食道の中をカメラが降りていく。比較的綺麗だ。 7年前のあのただれた状態とは比較にならない。手術をした場所を通り越すと胃の中に入るが、その入り口に血が見えた。胃からの出血という意味ではなく胃カメラの先端部が触れて地がにじみ出たのだろうということだ。胃の内部は非常に綺麗な状態。 胃潰瘍の場所も少し傷のような、また血のようなものが見えたが、かなりマシにはなっていたらしい。

 しかし私はそれを見ていて予想以上に赤い血が見えたので、ショックだとくちばしてしまった。こうして検査が終わり消化器内科の前で座って待つ。この場所は主に内臓関係の癌や潰瘍などの患者が多くいつもながら、がん患者というのは本当に多いものだと思って見ていた。

 予約は9時だったので10時頃になって呼ばれた。診察室に入るとK医師の姿があり、久しぶりですねと挨拶。早速血液検査及び胃カメラの結果を報告。結果的には血液の方はほぼ100点満点と言ってもいいと言われた。腫瘍マーカーも全く大丈夫。その他の項目もほぼ問題なし。胃カメラの方は出血はあったものの、 1年前とは比較にならないほど綺麗になっているということで、心配する必要はないということだった。

 ただし胃カメラ検査の際に、念のためにということで食道の検体をわずかに検査をするということで切り取っている。結果は2週間後に予約してそこで報告を受けることになった。



 そこで特に問題がなければ日赤病院は私にとって終了となる。以後は地域の病院、あるいはかかりつけ医のところで診察、あるいは処方箋を書いてもらうことになる。もちろん心配される新たな癌や転移なども地元の方で対応ということになる。ある意味今まで以上に市の特定健診をしっかり受けておかなければならない。幸か不幸か循環器科・泌尿器科で住居のすぐ近くにある中核病院に今も通院しているので、そこで血液検査や時には CT 検査なども行うのでまあ安心といえば安心だ。

 ただし本当に食道がんが「再発」した場合には、ほぼ命の覚悟をしなければならない。転移の場合は場所によるが、最初に患った時よりも寛解の確率は大きく下がってしまう。そういった意味では、普段から体調変化に気をつけるとともに、健康な生活を意識しまた同時に覚悟もしておく必要があるだろう。

 主治医のK医師からは、よく頑張りましたと褒めていただいた。自分ではそういった意識はあまりないが、やはり第三者的に見れば、手術中に発作を起こし危険な状態になったこと、あるいは入院中眠れなくて人生初の幻影というものを見たこと、入院も退院も自分一人で全て行った、退院後もしばらくして突然の吐血・下血、激しい胃痛・嘔吐の繰り返し等々と、多々あったが何しろ服薬は今後も しばらくは続く。最終的にかかりつけ医の収束宣言を受けるまでは終わらないということになった。


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