山口家住宅
『山口家住宅 苔香居
山口家住宅は旧京都府葛野郡松尾村字下山田の領主として代々庄屋を勤めた住居。
また、公家の葉室家、徳大寺家に仕えた旧臣であり、平安朝の頃り葉室家所有の荘園を管理し葉室御靈神社の社氏を務めた。
通りに面した長屋門は、江戸時代後期築で街路景観を引き立たせている。横連子窓を構える武家様式、入母屋造、八間余の茅葺屋根が特徵。
門内部は農事作業場、物置、下男小屋が配置され、南に米蔵を配している。主屋は江戸後期築で、桟瓦葺、切妻屋根、平屋建て、厨子(っし)二階を設ける。
土間と5つ竈を配し、上手に1列に居室を並べる町家的平面をとる。土間空間の軸組も洛中の町家風の造り。主屋の上手には、座敷、仏間、茶室からなる書院造の座敷棟が接続する。長屋門 、主屋棟、座敷棟の三件は文化庁国登録有形文化財。京都市重要景観建造物。 邸内は多種の青苔で覆われ、苔の香る住まいとして苔香居の由来となっている。松尾山田の里は嵐山、松尾山より南にのびる西山連峰を背に南北にのびる風光明媚な地であり、京都盆地最西の道は東海自然步道となっている 。
京都市』 (駒札より)
山口家は戦国時代の少し前にこの地に居を構え、当時この一帯を支配していた公家の葉室家に仕えた。ここの山田地域の領主として庄屋を務めた家柄だ。長年にわたり代々家は続き、明治になって都が京都から東京は移ることによって、葉室家もこの地を離れる。それに従ってこの地域を任されたのが山口家となる。当時は相当広大な地域を支配していたという。
江戸時代に建築されたこの住宅は、典型的な当時の様子を残しており貴重な建造物ということで、国登録有形文化財に指定された。通常は昔からの行き交う路地に沿っているが、外から見られるだけだ。公開時期というのがあって、その時には内部が見られる。したがって写真の方も同じようなものが数枚撮影できただけで、少し残念なところだった。
葉室御霊神社
『葉室御霊神社
一、御霊本社 御霊大明神
この地は平安朝の頃より葉室家の荘園であった。従って約千年以前より鎮守の神として葉室家の霊を祭り御霊神社が建立されていた。日本國には古来より神道があった。故事にゃ社会に不幸をもたらす要因は単に神の祟りに帰せられていた。これを防ぐ道は神の意志を和らげ慰める他になかったのである。然るに仏教が日本に弘まるにつれて、祟りは神の絶対意志として避けられない不幸とか観ぜずに、それは人格的な祖霊の働きであるとし、祟り、怨霊を我等との関係が始めて諒解されるようになった。そして平安初期より祖霊を神社にて祀り、僧侶が経巻の轉読を行って祖霊の供養が行われてきた。これが御霊神社の起因で、また神仏習合の始まりである。社殿は葉室家第二十三代大納言葉室頼孝卿が元禄二年建立したもので、その修理が昭和五十六年十月完成した。
国挟槌尊(月霊)
日本書紀によれば天地剖判の最初に現れ給うた神、神世七代第一代の神、國常立尊に次ぎ生れませる神である。この神々は國の地盤形成の概念から生じた神で高天原における天御中主神と対比して考えられたその土地を司り守護される神である。
菩薩像 生まれながら身体に変形をもった人の悩みを救う菩薩といはれるが、その御名は不明である。
心なき人の仕業か、かなり損傷をうけている。しかし自分の身体を捨てて人々の悩みを救う偉大な大悲力を発揮されてきた有難い菩薩像である。
二、十禅社(右)
十禅師とは宝亀三年(七七二)学徳兼備の誉れ高い師を選んで官から授けられた称号である。(元享釈書二十三巻)
昭和五十六年十一月十八日 葉室家 第三十五代当主 葉室頼昭』
(説明書きより)
山口家住宅から少し南に移動すると、だだっ広い広場のようなところに鉄柵が大きな囲いを作っている。ここが葉室御霊神社。
最初見たときには境内周辺に巨木も何もなく、日光がそのまま当たるような状態。広場全体も草ぼうぼうで土もでこぼこしており、何かちょっと荒れたような雰囲気がある。鉄柵の門に近づくとかんぬきがかかっており、それを開けて中に入る。
拝殿も何もなく、いきなり本殿が建っており、両側には末社が控えている。さらに何やら意味がよくわからない棒状の石で囲まれた掘られた穴があったり、どう見てもキリスト教の十字架にしか見えないような物が立っていたり、一体どのような神社なのかと思った。
神社の由緒については上記の説明書きの通り。かなり詳しく書かれているので特に説明することもない。やはり戦国時代からこの地を領主として支配していた葉室家に関わる鎮守社として存在していたようだ。葉室家が東京の方に移ってからは、地域の町内会で管理されているんだろうか。説明書きが葉室家の人によって書かれているので、まだ一部の家が残っているんだろうか。その辺りは分からない。この場所から北の方へ行くと地名として山田葉室町というのがわずかに残されている。
『山口家住宅 苔香居
山口家住宅は旧京都府葛野郡松尾村字下山田の領主として代々庄屋を勤めた住居。
また、公家の葉室家、徳大寺家に仕えた旧臣であり、平安朝の頃り葉室家所有の荘園を管理し葉室御靈神社の社氏を務めた。
通りに面した長屋門は、江戸時代後期築で街路景観を引き立たせている。横連子窓を構える武家様式、入母屋造、八間余の茅葺屋根が特徵。
門内部は農事作業場、物置、下男小屋が配置され、南に米蔵を配している。主屋は江戸後期築で、桟瓦葺、切妻屋根、平屋建て、厨子(っし)二階を設ける。
土間と5つ竈を配し、上手に1列に居室を並べる町家的平面をとる。土間空間の軸組も洛中の町家風の造り。主屋の上手には、座敷、仏間、茶室からなる書院造の座敷棟が接続する。長屋門 、主屋棟、座敷棟の三件は文化庁国登録有形文化財。京都市重要景観建造物。 邸内は多種の青苔で覆われ、苔の香る住まいとして苔香居の由来となっている。松尾山田の里は嵐山、松尾山より南にのびる西山連峰を背に南北にのびる風光明媚な地であり、京都盆地最西の道は東海自然步道となっている 。
京都市』 (駒札より)
山口家は戦国時代の少し前にこの地に居を構え、当時この一帯を支配していた公家の葉室家に仕えた。ここの山田地域の領主として庄屋を務めた家柄だ。長年にわたり代々家は続き、明治になって都が京都から東京は移ることによって、葉室家もこの地を離れる。それに従ってこの地域を任されたのが山口家となる。当時は相当広大な地域を支配していたという。
江戸時代に建築されたこの住宅は、典型的な当時の様子を残しており貴重な建造物ということで、国登録有形文化財に指定された。通常は昔からの行き交う路地に沿っているが、外から見られるだけだ。公開時期というのがあって、その時には内部が見られる。したがって写真の方も同じようなものが数枚撮影できただけで、少し残念なところだった。
葉室御霊神社
『葉室御霊神社
一、御霊本社 御霊大明神
この地は平安朝の頃より葉室家の荘園であった。従って約千年以前より鎮守の神として葉室家の霊を祭り御霊神社が建立されていた。日本國には古来より神道があった。故事にゃ社会に不幸をもたらす要因は単に神の祟りに帰せられていた。これを防ぐ道は神の意志を和らげ慰める他になかったのである。然るに仏教が日本に弘まるにつれて、祟りは神の絶対意志として避けられない不幸とか観ぜずに、それは人格的な祖霊の働きであるとし、祟り、怨霊を我等との関係が始めて諒解されるようになった。そして平安初期より祖霊を神社にて祀り、僧侶が経巻の轉読を行って祖霊の供養が行われてきた。これが御霊神社の起因で、また神仏習合の始まりである。社殿は葉室家第二十三代大納言葉室頼孝卿が元禄二年建立したもので、その修理が昭和五十六年十月完成した。
国挟槌尊(月霊)
日本書紀によれば天地剖判の最初に現れ給うた神、神世七代第一代の神、國常立尊に次ぎ生れませる神である。この神々は國の地盤形成の概念から生じた神で高天原における天御中主神と対比して考えられたその土地を司り守護される神である。
菩薩像 生まれながら身体に変形をもった人の悩みを救う菩薩といはれるが、その御名は不明である。
心なき人の仕業か、かなり損傷をうけている。しかし自分の身体を捨てて人々の悩みを救う偉大な大悲力を発揮されてきた有難い菩薩像である。
二、十禅社(右)
十禅師とは宝亀三年(七七二)学徳兼備の誉れ高い師を選んで官から授けられた称号である。(元享釈書二十三巻)
昭和五十六年十一月十八日 葉室家 第三十五代当主 葉室頼昭』
(説明書きより)
山口家住宅から少し南に移動すると、だだっ広い広場のようなところに鉄柵が大きな囲いを作っている。ここが葉室御霊神社。
最初見たときには境内周辺に巨木も何もなく、日光がそのまま当たるような状態。広場全体も草ぼうぼうで土もでこぼこしており、何かちょっと荒れたような雰囲気がある。鉄柵の門に近づくとかんぬきがかかっており、それを開けて中に入る。
拝殿も何もなく、いきなり本殿が建っており、両側には末社が控えている。さらに何やら意味がよくわからない棒状の石で囲まれた掘られた穴があったり、どう見てもキリスト教の十字架にしか見えないような物が立っていたり、一体どのような神社なのかと思った。
神社の由緒については上記の説明書きの通り。かなり詳しく書かれているので特に説明することもない。やはり戦国時代からこの地を領主として支配していた葉室家に関わる鎮守社として存在していたようだ。葉室家が東京の方に移ってからは、地域の町内会で管理されているんだろうか。説明書きが葉室家の人によって書かれているので、まだ一部の家が残っているんだろうか。その辺りは分からない。この場所から北の方へ行くと地名として山田葉室町というのがわずかに残されている。
えろうすんません 現存の神社 寺 宗教施設では 全く御霊の供養が出来ていない うちの神社で引き受けてくれとの あいつらからの要望に応えた結果
このような様相になりました
靖国 東日本大震災 春日大社 法善寺横丁お不動さん イエスキリスト 等々
御神木伐採は あいつらの懇願事象
簡単に言うと 有史以前の祀りをこの神社で執り行うよう指示があり アイヌ 琉球 物部以前 渡来人
(天皇家含む)が日本に来る前の状態を この神社で再現しろ という勅に従って作り直したら 現在の姿になりました 未だ未完成で 日々試行錯誤している状況
坊主 神主 共に職業として経験済み 目下の存在であることが理解できた
私自身 すでに壊れています とご理解ください