願徳寺・勝持寺ともに大原の里にあり、両者は隣り合っている。すぐ近くには大原野神社もあり、ハイキングや一般の観光客も含め、桜や紅葉のシーズンには大勢の人で賑わう場所でもある。
願徳寺
『宝菩提院 願徳寺
当寺は山号を仏華林山 宝菩提院 願德寺とする天台宗の寺院である。
寺伝によると奈良時代の少し前、白鳳八年(六七九年)に持統天皇の願いにより、向日市寺戸に創建された寺院で、当時は一キロメートル四方に伽羅のある、天台密教の秘法を行う大寺院であった。
応仗の乱と信長の兵火により諸堂ことごとく灰尽となり、江戸時代に家康の加護を受けたものの、平安時代の面影は失われた。
昭和三七年(一九六二年)に寺戸よりこの地に移転、再建された。
本尊に祀られる国宝仏である如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)は、平安時代(七九四年~一一八五年)初期の御姿で、唐よりの渡来仏であるとする説、あるいは渡来人の作であるとする両説がある。
座り方は、踏み下げの像。
左手は施無畏(せむい)の印、生老病死の四苦から解放してくれるという、仏教の真理を現し、右手は与願の印で、願いをかなえてくれるという、現世利益を現す。
寺宝として、薬師如来、青不動(軸)、太子二歳像などを蔵している。』
(駒札より)
『縁起
このお寺は、「仏華林山 宝菩提院 願徳寺」といいます。約千三百年前の白鳳八年(六七九)に持統天皇(天武天皇の皇后)の願いによって向日市寺戸に創建されたお寺です。徳のある願いによって建てられた寺院故に「願徳寺」といいます。南北八百m東西千三百mに伽藍があった大寺院で、当時の本尊は薬師如来(現在は太秦の広隆寺に安置)でした。 平成十五年二月、寺院跡地より湯屋 (風呂)の跡が発見されました。 現存する東大寺の湯屋より古く、九世紀以前のものです。 中興の開山としては、平清盛の弟、平敦盛の子である小川法印忠快という人がおられます。 忠快和尚は東山三条の宝菩提院におられましたが、後に宝菩提院と共に願徳寺へ移られました。
平安時代から鎌倉時代にかけては、天台密教の秘法を行い穴太流や西山派を生みだした密教の大寺院でありました。しかし応仁の乱と信長の兵火によって諸堂ことごとく灰尽となり、江戸時代に家康の加護を受けたものの、平安時代の寺院の面影はなくなりました。昭和に入り諸堂の荒廃が進み、本尊如意輪観音及び諸仏は昭和三十七年に向日市寺戸より勝持寺(花の寺)に移動安置され、本堂と庫裡は四十八年にこの地に再建されました。 三十四年を経、本尊如意輪観音及び諸仏は平成八年十二月に勝持寺より願徳寺に帰座されました。』
(パンフレットより)
願徳寺の前には少し広めの駐車場があり、両方のお寺を拝観するには好都合な所だ。目前に願徳寺の山門があって、白い壁が両方に広がる。お寺としてはかなり規模は小さく、境内そのものも極めて狭い。その境内及び駐車場周辺にはもみじの木があって、鮮やかな赤色を輝かせていた。お寺の本堂や建物は比較的最近再建されたものであり、歴史的古さというものは全くと言っていいほど感じさせない。実際には奈良時代以前の双創建と言うから、大変な歴史を持つ寺院ということになる。千年以上の長い歴史の中のさまざまな変遷を経て、今現在この地に小さな土地を有して門を構えている。そういったことを考えると何か歴史的な無常観というものを覚えざるを得ない気がする。
山門を入るとすぐに受付があって、住職さんが座っている。このお寺は確かに小規模であるものの、実は本尊が「国宝」に指定されている。木造菩薩半跏像。これは平安時代前期の作と言われている。さらに重要文化財に指定されている木造薬師如来立像がある。おそらく京都の人でも、このお寺の名前とここに国宝があるということを知っている人は、かなり少数派だろうと思う。この近辺のお寺や神社で国宝があるのはこの願徳寺だけだ。
駐車場には多くの車が駐まっているが、ほとんどの人が勝持寺へ向かう。願徳寺は外から見て終わり。あるいは全く注目もされていないというのが実際のところだろう。まして受付で拝観料を支払って本堂に入るという人は、この日も全くいなかった。前回訪れた時にも全くいなかった。
私は前回も国宝の本尊を拝観しているが、今回も改めて拝観した。国宝であることの価値というのは何をどう見ればいいのか、素人としてはよくわからない。きっと文化庁の文化財保護課の専門家たちが、実物を査定して決めていくんだろう。私たち素人はそれに基づいてこれが国宝なのか、これが重要文化財なのか、と感心しているのみということになる。しかし細かなことはわからずとも、その背景には歴史的な貴重な価値というものが備わっているはずだ。そういったところを信じてしっかりと拝観したいものだと思う。
(パンフレットより)
勝持寺
『勝持寺(花の寺)
小塩山と号する天台宗の古刹である。
歌僧の西行がこの寺で出家したと伝天られ、西行法師が自ら植えたといわれる八重桜「西行桜」があることから、「花の寺」として親しまれるようになった。
寺伝によれば、白鳳八年(六七九)に役小角のるびが天武天皇の勅により創建し、その後の延暦十年(七九一)に、伝教大師(最澄)が桓武天皇の勅により再建したと伝えられている。当初、大原寺(だいげんじ)と呼ばれていたが、仁寿年間(八五一~八五四)に、仏陀上人が文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、寺号を大原院勝持寺と改めたといわれている。
瑠璃光殿には、本尊の薬師如来坐像(重要文化財)のほか、弘安八年(一二八五)に、慶秀らが造立したとの銘がある金剛力士立像(重要文化財)など、貴重な文化財を蔵している。
境内には、多くの桜が植えられ、満開時には、寺が花の中に埋もれているかのように見える。鐘楼の東の西行桜は、現在三代目である。
京都市』
(駒札より)
『縁起
当山は、京の西山連峯の麓にあって、小塩山大原院勝持寺と呼ぶ古刹であります。白鳳八年(西暦六七九年)天武天皇の勅によって神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、延暦十年(西暦七九一年)に伝教大師が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建され、薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれて本尊とされました。
承和五年(西暦八三八年)仁明天皇の勅によって塔頭四十九院を建立されましたが、応仁の兵火に遭い、仁王門を除きすべて焼失しました。現在の建物は乱後に再建されたものであります。』
(パンフレットより)
隣接する願徳寺と同時代の創建となる。千年以上にわたる歴史のある古いお寺だ。かつては広大な敷地を有し多くの塔頭を抱える大寺院であったものの、応仁の乱によって灰燼に帰し、その後は現在の土地にあって中規模寺院となっている。
「花の寺」とよく言われるが、これは春の桜の華やかさを表しており、境内全体を見事な桜が覆う。しかし花でなくとも、秋にはもみじの木が圧倒的な紅葉で訪れる人を迎え、所々にあるイチョウの黄色とともに素晴らしいアンサンブルを奏でているように迫ってくる。これはこれで花の寺との名前を、ある意味上回るような表現が必要な気もする。全域が赤に染まるその様子は文字通り圧倒的であり、お寺全体の価値を一層上げるような気もする。
境内全体を回ってみると、丘陵地にあるだけに全体が平地というわけではなく、かなり高低差のある凸凹した土地だ。その所々に建物があり、また池もある。そのような場所にも紅葉の赤い色が広がっており、撮影する身としては様々な構図を選んで撮りたいように撮れるというのが満足感を高める。
また宝物館には多くの仏像が並び、薬師如来や金剛力士像等の重要文化財指定も多い。これらは非常に見応えがあり、ただ境内を見て回るだけでなく、ぜひとも貴重な文化財もしっかりと見ておくべきだろうと思う。なお金剛力士像については、境内の下の方にある仁王門に設置されていたもので、かなりな大きさがある。迫力十分といったところだ。なおその仁王門から少し歩けば、すぐに大原野神社となる。こちらも紅葉の名所。
願徳寺
『宝菩提院 願徳寺
当寺は山号を仏華林山 宝菩提院 願德寺とする天台宗の寺院である。
寺伝によると奈良時代の少し前、白鳳八年(六七九年)に持統天皇の願いにより、向日市寺戸に創建された寺院で、当時は一キロメートル四方に伽羅のある、天台密教の秘法を行う大寺院であった。
応仗の乱と信長の兵火により諸堂ことごとく灰尽となり、江戸時代に家康の加護を受けたものの、平安時代の面影は失われた。
昭和三七年(一九六二年)に寺戸よりこの地に移転、再建された。
本尊に祀られる国宝仏である如意輪観世音菩薩(にょいりんかんぜおんぼさつ)は、平安時代(七九四年~一一八五年)初期の御姿で、唐よりの渡来仏であるとする説、あるいは渡来人の作であるとする両説がある。
座り方は、踏み下げの像。
左手は施無畏(せむい)の印、生老病死の四苦から解放してくれるという、仏教の真理を現し、右手は与願の印で、願いをかなえてくれるという、現世利益を現す。
寺宝として、薬師如来、青不動(軸)、太子二歳像などを蔵している。』
(駒札より)
『縁起
このお寺は、「仏華林山 宝菩提院 願徳寺」といいます。約千三百年前の白鳳八年(六七九)に持統天皇(天武天皇の皇后)の願いによって向日市寺戸に創建されたお寺です。徳のある願いによって建てられた寺院故に「願徳寺」といいます。南北八百m東西千三百mに伽藍があった大寺院で、当時の本尊は薬師如来(現在は太秦の広隆寺に安置)でした。 平成十五年二月、寺院跡地より湯屋 (風呂)の跡が発見されました。 現存する東大寺の湯屋より古く、九世紀以前のものです。 中興の開山としては、平清盛の弟、平敦盛の子である小川法印忠快という人がおられます。 忠快和尚は東山三条の宝菩提院におられましたが、後に宝菩提院と共に願徳寺へ移られました。
平安時代から鎌倉時代にかけては、天台密教の秘法を行い穴太流や西山派を生みだした密教の大寺院でありました。しかし応仁の乱と信長の兵火によって諸堂ことごとく灰尽となり、江戸時代に家康の加護を受けたものの、平安時代の寺院の面影はなくなりました。昭和に入り諸堂の荒廃が進み、本尊如意輪観音及び諸仏は昭和三十七年に向日市寺戸より勝持寺(花の寺)に移動安置され、本堂と庫裡は四十八年にこの地に再建されました。 三十四年を経、本尊如意輪観音及び諸仏は平成八年十二月に勝持寺より願徳寺に帰座されました。』
(パンフレットより)
願徳寺の前には少し広めの駐車場があり、両方のお寺を拝観するには好都合な所だ。目前に願徳寺の山門があって、白い壁が両方に広がる。お寺としてはかなり規模は小さく、境内そのものも極めて狭い。その境内及び駐車場周辺にはもみじの木があって、鮮やかな赤色を輝かせていた。お寺の本堂や建物は比較的最近再建されたものであり、歴史的古さというものは全くと言っていいほど感じさせない。実際には奈良時代以前の双創建と言うから、大変な歴史を持つ寺院ということになる。千年以上の長い歴史の中のさまざまな変遷を経て、今現在この地に小さな土地を有して門を構えている。そういったことを考えると何か歴史的な無常観というものを覚えざるを得ない気がする。
山門を入るとすぐに受付があって、住職さんが座っている。このお寺は確かに小規模であるものの、実は本尊が「国宝」に指定されている。木造菩薩半跏像。これは平安時代前期の作と言われている。さらに重要文化財に指定されている木造薬師如来立像がある。おそらく京都の人でも、このお寺の名前とここに国宝があるということを知っている人は、かなり少数派だろうと思う。この近辺のお寺や神社で国宝があるのはこの願徳寺だけだ。
駐車場には多くの車が駐まっているが、ほとんどの人が勝持寺へ向かう。願徳寺は外から見て終わり。あるいは全く注目もされていないというのが実際のところだろう。まして受付で拝観料を支払って本堂に入るという人は、この日も全くいなかった。前回訪れた時にも全くいなかった。
私は前回も国宝の本尊を拝観しているが、今回も改めて拝観した。国宝であることの価値というのは何をどう見ればいいのか、素人としてはよくわからない。きっと文化庁の文化財保護課の専門家たちが、実物を査定して決めていくんだろう。私たち素人はそれに基づいてこれが国宝なのか、これが重要文化財なのか、と感心しているのみということになる。しかし細かなことはわからずとも、その背景には歴史的な貴重な価値というものが備わっているはずだ。そういったところを信じてしっかりと拝観したいものだと思う。
(パンフレットより)
勝持寺
『勝持寺(花の寺)
小塩山と号する天台宗の古刹である。
歌僧の西行がこの寺で出家したと伝天られ、西行法師が自ら植えたといわれる八重桜「西行桜」があることから、「花の寺」として親しまれるようになった。
寺伝によれば、白鳳八年(六七九)に役小角のるびが天武天皇の勅により創建し、その後の延暦十年(七九一)に、伝教大師(最澄)が桓武天皇の勅により再建したと伝えられている。当初、大原寺(だいげんじ)と呼ばれていたが、仁寿年間(八五一~八五四)に、仏陀上人が文徳天皇の帰依を得て伽藍を建立し、寺号を大原院勝持寺と改めたといわれている。
瑠璃光殿には、本尊の薬師如来坐像(重要文化財)のほか、弘安八年(一二八五)に、慶秀らが造立したとの銘がある金剛力士立像(重要文化財)など、貴重な文化財を蔵している。
境内には、多くの桜が植えられ、満開時には、寺が花の中に埋もれているかのように見える。鐘楼の東の西行桜は、現在三代目である。
京都市』
(駒札より)
『縁起
当山は、京の西山連峯の麓にあって、小塩山大原院勝持寺と呼ぶ古刹であります。白鳳八年(西暦六七九年)天武天皇の勅によって神変大菩薩役の行者が創建したのが始まりで、延暦十年(西暦七九一年)に伝教大師が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建され、薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれて本尊とされました。
承和五年(西暦八三八年)仁明天皇の勅によって塔頭四十九院を建立されましたが、応仁の兵火に遭い、仁王門を除きすべて焼失しました。現在の建物は乱後に再建されたものであります。』
(パンフレットより)
隣接する願徳寺と同時代の創建となる。千年以上にわたる歴史のある古いお寺だ。かつては広大な敷地を有し多くの塔頭を抱える大寺院であったものの、応仁の乱によって灰燼に帰し、その後は現在の土地にあって中規模寺院となっている。
「花の寺」とよく言われるが、これは春の桜の華やかさを表しており、境内全体を見事な桜が覆う。しかし花でなくとも、秋にはもみじの木が圧倒的な紅葉で訪れる人を迎え、所々にあるイチョウの黄色とともに素晴らしいアンサンブルを奏でているように迫ってくる。これはこれで花の寺との名前を、ある意味上回るような表現が必要な気もする。全域が赤に染まるその様子は文字通り圧倒的であり、お寺全体の価値を一層上げるような気もする。
境内全体を回ってみると、丘陵地にあるだけに全体が平地というわけではなく、かなり高低差のある凸凹した土地だ。その所々に建物があり、また池もある。そのような場所にも紅葉の赤い色が広がっており、撮影する身としては様々な構図を選んで撮りたいように撮れるというのが満足感を高める。
また宝物館には多くの仏像が並び、薬師如来や金剛力士像等の重要文化財指定も多い。これらは非常に見応えがあり、ただ境内を見て回るだけでなく、ぜひとも貴重な文化財もしっかりと見ておくべきだろうと思う。なお金剛力士像については、境内の下の方にある仁王門に設置されていたもので、かなりな大きさがある。迫力十分といったところだ。なおその仁王門から少し歩けば、すぐに大原野神社となる。こちらも紅葉の名所。
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