切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

2018 紅葉撮り 31 向日神社~乙訓寺 京都府向日市~長岡京市・・・見事!としか言いようがない

2019-01-09 23:27:05 | 撮影

  この日は青空に雲が広がっていたが、乙訓地方の2ヶ所に行ってきた。ともに紅葉の名所としても有名なところだ。
 まずは向日市にある向日神社から。



『向日神社縁起
 当社は延喜式神明帳(エンギシキジンミョミチョウ)に記載された、いわゆる式内社であり、神名式においては山城国乙訓郡向神社と称され、後に同式の乙訓坐火雷神社を併祭して今日に至っている。この両社は、同じ向日山に鎮座されたので、向神社は上ノ社(カミノヤシロ)、火雷神社ま下ノ社(シモノヤシロ)と呼ばれていた。
 向神社の創立は、大歳神(オオトシノカミ)の御子、御歳神(ミトシノカミ)がこの峰に登られた時、これを向日山と称され、この地に永く鎮座して、御田作りを奨励されたのに始まる。向日山に鎮座されたことにより、御歳神を向日神と申し上げることとなったのである。
 火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住まれた時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神を祭られたのが創立である。後、養老二年(七一八年)社殿を改築し、新殿遷座の際、火雷大神の御妃神(ゴキシン)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)を、また創立の因縁により神武天皇を併祭された。その後、建治元年(一二七五年)社殿荒廃により、上ノ社に併祭、以降下ノ社の再興がならず上ノ社に上記四柱を御祭し、向日神社として今日に至っている。
 上ノ社は五穀豊穣の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬の特に篤い神社であったことは、古書に数多く見られところである。
 (駒札より 抜粋)

  

  去年のブログで向日神社については少し詳しく紹介している。ここでは紅葉について。
 向日市の中心部に広大な境内を持つ。いかにも歴史的由緒のある大きな神社だ。本殿などが国の重要文化財に指定されており、他にも文化財が多くある。
 道路沿いの第一鳥居から長い参道を境内へ向かう。その両サイドに真っ赤な紅葉がずっと続いている。緑の葉も多くあり、赤色とのコントラストがなかなか美しい。ちょうど空が曇っていたので、その点は撮影において非常に残念だった。来ている人はさほど多くなかったが、境内に入って駐車場に駐める。

         

 撮影自体はそこからもう一度第一鳥居に歩いて戻り、順に撮影していく。途中末社もあってそちらにも紅葉が広がる。本殿は堂々たる構えで、正面から撮るのだけではなく、本殿そのものの建物は斜め横から撮影することになる。さすがに重要文化財だけあって堂々たる構えをしている。
 本殿の背後に回ると、そちらにも境内が広がり、多くの紅葉で赤や黄色の葉が所狭しと輝きを放っている。さらに乙訓古墳群の史跡の方にも少しだが、紅葉が広がる。
 本殿の横を通って正面へ出る。やはり名所だけあって見事というほかない。ベンチに座ってゆっくりしたいところだが、もう一箇所回るので向日神社を後にした。満足感は非常に高い。

         


 続いて車を走らせること約5分。向日市の隣、長岡京市にある乙訓寺
 ここも昨年のブログで紹介している。詳しいことはそちらの方を参照してもらえたらと思う。



『乙訓寺縁起
 この地は、二千年前の弥生時代から多くの人々が住んでいた。継体天皇が弟国宮(おとくにのみや)を築かれたともいわれるこの景勝の地に、推古天皇の勅願を受けた聖徳太子は、十一面観世音菩薩を本尊とする伽藍を建立させた。この寺が即ち乙訓寺である。
 延暦三年(784)、桓武天皇がこの乙訓の地に遷都されたとき、京内七大寺の筆頭として乙訓寺を大増築された。この当時の境域は、南北百間以上もあり建てられた講堂は九間に四間の大建築で難波京の大安殿と同じ規模のものであった。翌年、藤原種継が春宮房の人々により暗殺されるや天皇は皇太子早良親王を当寺に幽閉された。
 嵯峨天皇は、弘仁二年(811)十一月九日太政官符をもって弘法大師(空海) を別当にされた。大師の残されたご事跡も多く、八幡明神の霊告をうけて合体の像を造り (現在の本尊・八幡弘法合体大師像)また、境内に実る柑子を朝廷に献上された。 (性霊集に記載) 弘仁三年(812)十月には、当寺を訪ねられた天台宗祖・伝教大師(最澄)と、密教の法論を交わされ灌頂の儀の契りを結ばれる。(伝教大師の弟子・泰範に宛てた書簡に記載)
 永禄年間(1558~1569)信長の兵火により一時衰微したが、元禄六年(1693)五代将軍綱吉は、堂宇を再建して乙訓寺法度をつくり、寺領を寄せ徳川家の祈願寺とせらる。
 昭和四十一年(1966)には、講堂や大師がご起居されたと考えられる単独僧坊跡が発掘調査され、出土瓦などにより平安期に隆盛を極めていたことがわかっている。草創から一千三百有余年、時に盛衰はあったが大師ゆかりの真言道場として今日に及んでいる.
真言宗 乙 訓 寺
〒 617-0814 長岡京市今里3丁目1 4-7
 (パンフレットより)

    

『乙訓寺
 真言宗豊山派長谷寺の末寺。洛西観音霊場第六番札所。本尊、合体大師像。
 寺伝によれば、推古天皇の勅願によって聖徳太子が開いたとされる。長岡に都があった延暦四年(七八五)に早良親王(桓武天皇の弟)が幽閉された地として、また嵯峨天皇の弘仁二年(ハ一一)に空海(弘法大師)が別当となった寺院として、歴史の表舞台にも登場し乙訓随一の大寺院として栄えていた。
 江戸時代の元禄八年(一六九五 )に護持院隆光が五代将軍綱吉の母桂昌院の援助により再興した。
 また、重要文化財の毘沙門天像や市指定文化財の十一面観音像等がある。境内には、ぼたんが二千株余りあり「ぼたん寺」としても名高く、洛西屈指の古刹である。
 長岡京市観光協会
 京都府観光連盟 (駒札より)

         

  広く整備された幹線道路を西の方へ進むと、細い横道があり、そこが乙訓寺への道となる。うっかりすると見過ごしてしまうような細い道だ。一応乙訓寺の小さな看板が出ている。
 ここも歴史的由緒のある重要なお寺で、平安遷都の前に約10年間、都が置かれた長岡京の中にあった。千年以上の歴史を誇る。境内全体が国の重要文化財として指定されており、また本堂などの建物も文化財に指定されているものが多い。
 寺の横に広大な駐車場があって、この日はごくわずかしか駐車していなかった。横の山門をくぐると境内へ続く参道沿いに、これもまた見事な真っ赤な紅葉が両サイドを埋め尽くす。これだけでも素晴らしいとしか言いようがない。
 境内もそこそこ広く、本堂などの建物が適度な間隔を取って配置されており、その中の 各所に紅葉が見られる。特に境内の周囲は密集しており、赤以外も黄色い葉が見られた。たまたま少しではあるが、青空も現れて風景全体の色の配置がなかなか素晴らしい。
 隣に小学校があって、グラウンドから体育の授業だろうか、賑やかな明るい声が聞こえてくる。文化財指定されている仏像などもあるが、公開日ではないので紅葉撮りだけに止めておいた。
 悠久の流れの中で今日まで存続しているお寺の歴史に思いを馳せながら、昔と変わらぬ紅葉を見せてくれる。

    

 こちらの方は阪急京都線の駅からは少し距離があるので、バス利用になると思う。
 向日神社とともに必見といえる。満足感も極めて高い。

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