千葉市登戸地域情報

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2016年千葉市登渡神社神輿渡御 その2 207回

2016年09月11日 | TOPページ

 

2016年千葉市登渡神社神輿渡御 その2


  • 神社を発御した神輿は各町内を回ります。祭りが地域を一つにしてつながっていきます。

  • 今回は登戸3丁目・登戸4丁目・汐見春日(西千葉駅 三和会館)
    新千葉3丁目・登戸新千葉2丁目です。

千葉町の「港町」、江戸時代の登戸は栄ました。(昔の千葉より)

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江戸時代の千葉町は散村で、佐倉藩の蔵があった寒川や一般の旅人が船で乗り降りしていた登戸の方が栄えていました。

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江戸時代後期の「登戸の浜」の様子では<此のあたりを総て袖しが浦といふ。海辺より四方十一箇国の山々見ゆ。江戸迄海上の道のり六里あり。晴天の日には、品川高輪御殿山まで見ゆるなり。>とあります。

この登戸の浜から江戸湾(東京湾)を挟んで富士山を始め関東の島々が遠望することができ、また、江戸町の品川・高輪などの町並みも見渡すことが出来たといいます。

登戸の集落は、登渡神社(通称登戸神社)下から河岸への街道沿いに広がっていました。

登渡神社は、正保元年(1644)9月に千葉介重胤の弟・登戸権介平定胤が祖先を供養するため、千葉妙見寺(千葉神社)の末寺として僧定弁を開祖として創建したものです。

神社の入口前を通る道が旧道で、台地の上を通り黒砂・稲毛方面に向かっていました。現在の国道16号(千葉街道)は、明治19年(1886)に寒川片町(港町)にあった元佐倉藩米蔵を使用していた千葉監獄の囚人たちを使って開いたのが始まりです。

この神社下から登戸河岸に向かう街道沿いには、旅人相手の茶屋・荷宿・船宿や回漕問屋などが軒を連ねていました。

江戸時代には、荷宿として大坂屋・武蔵屋・木村屋・富士見屋・まさご屋・大野屋、河岸には金七丸・菓子屋などの船宿や三四郎丸・伝八丸・徳久丸・おっさん丸・権次丸・虎丸・神明丸・八幡丸という回漕問屋がありました。

荷宿の木村屋が最も大きく、房総に遊ぶ文人墨客の多くが宿泊し、船宿の金七丸は金七河岸と呼ばれるほど有名でした。

明治初年には、金七船・善七船・菓子屋船などの船宿の他、荷宿の亀屋・木村屋・米金などがあり、回漕問屋には上総屋・相模屋・伊勢屋・越後屋があり、「船持四十三軒、船八十」があったといいます。

この賑わいを見せていた登戸は、明治27年(1894)に千葉・東京間の鉄道が開通すると、急激に衰えました。


新しい千葉駅と共に新しい街づくりが期待されている知恵も必要になってきている時代に来ています。


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