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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−128(観応の擾乱−1)

39.観応の擾乱

石見で戦闘中の高師泰がなぜ呼び戻されたのか?

この頃、京都で大騒動が起きて、南朝軍が京に攻撃を仕掛けてきており、それに対応するために高師泰軍を引き上げさせたのである。

いわゆる、観応の擾乱が発生したのである。

この観応擾乱は、足利直義と高師直の対立にその源を発する。

それは、少し時を遡る。

 

39.1.直義、師直討伐を計画する


暦応元年/延元3年(1338年)に尊氏は征夷大将軍に任じられ室町幕府を開いた。

足利直義は左兵衛督に任じられ、政務を取り仕切っており二頭政治といわれていた。

<足利直義>

直義と師直の対立

貞和4年/正平3年(1348年)頃から直義は足利家の執事を務める高師直と対立するようになる。

四條畷の戦いで楠正行を打ち破った高師直の勢力は拡大していき、逆に直義の勢力は師直の勢力に押され縮小していった。

師直は有能な武将であった。

尊氏のもと、室町幕府草創期の政治機構・法体系を整えた

その政策の代表例として、執事施行状の考案・発給が挙げられる。

執事施行状は、武将から支持を得る仕組みでもあった。

その仕組みとは次の様なものである。

将軍は功績のあった武士に対し恩賞として領地を与えるという「下文」を発行した。

しかし、これだけでは執行力を伴わなかった。

鎌倉幕府の頃から、武士が所領を与えられても、それは書類上のことに止まっていた。

もし、与えられた土地を占拠している者がいたとしても、幕府は何もしなかった。

自力で相手を追い出し土地を手に入れるしかなかったのである。

幕府の権力を保つためには、約束したことが、空手形とならないように、最後まで指導・管理する仕組みが必要だった。

師直はそれを解決する方法を発案した。

「執事施行状」である。

その宛先は、恩賞として与えられた土地のある国の守護である。

土地の受け渡しの手続きが正しく行われるように、各国の守護に命じる行政文書である。

師直は尊氏が発行した「下文」を精査して「執事施行状」を発行した。

師直は武力による土地の実効支配を当人に代わって守護が行う画期的な仕組みを導入し、武士達が安心して働けるようにしたのである。

そして、師直はこの「執事施行状」の発給を一手に握った。

「執事施行状」が師直の権力を支えたのである。

この「執事施行状」は200通以上現存しているという。

<高師直 執事施行状>

 

直義は、師直の権力拡大が不愉快で、面白くなかった。

この頃、直義は禅の教えに傾倒されて夢窓疎石の弟子になっていた。

夢窓疎石は、禅僧としての業績の他、禅庭・枯山水の完成者として史上最高の作庭家の一人である。

天龍寺庭園と西芳寺庭園が「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

この夢窓疎石に妙佶(みょうきつ)弟子がおり、この妙佶を直義に紹介した。

そして、「相談事があれば一々こちらまで足を運ばれなくても、この妙佶を伺わせます」と言った。

直義は、この妙佶を心底から信頼するようになったという。

そうなると、他の公家や武士も、それならばと妙佶に帰依するようになった。

 

しかし、師直、師泰兄弟は、妙佶の知恵才覚を認めず馬鹿にして、一度も会うことをしなかった。

それどころか、門前を馬のまま通り過ぎ、道で出会っても衣を沓の先で蹴らんばかりの態度、振る舞いをしたのだった。

妙佶はこれが気に入らなかった。

上杉伊豆守と畠山大蔵大輔は、妙佶が高師直・師泰兄弟を嫌っていることは、「絶好の機会だ、師直、師泰を讒言し失脚させるのはこの僧以上の人はいない」と思った。

そこで、すぐに妙佶との交わりを深くし機嫌を取って、さまざまな讒言をした。

師直を嫌っている妙佶は思惑を持って、それを直義に伝えた。

 

直義の師直成敗計画

妙佶の讒言が幾度となく続くと、直義は高師直兄弟の処罰を考えるようになった。

将軍の足利尊氏には知らせないで、直義はひそかに上杉、畠山、大高伊予守、粟飯原下総守、斉藤五郎左衛門入道の五、六人と相談し、内々に師直兄弟を処罰する計画を話し合われた。

直義は、高師直を呼び出す。

師直はこのような計画があることは夢にも思い寄らないことなので、供回りの者はみな離れた番所や庭に居並んで中門の唐垣で隔てられ、師直ただ一人広間の客殿に坐った。

しかし、粟飯原清胤は急に心変わりをして、なんとかこのことを師直に告げ知らせたいと思った。

粟飯原清胤はちょっと挨拶するようにして目くばせしたところ、師直は勘が鋭く察しが良かった。

師直はすぐに理解して、ちょっと席を外す振りをして門前から馬に飛び乗って自分の宿所に帰っていった。

その夜すぐに粟飯原と斉藤の二人が執事の館に来て、計画を暴露した。

「今回の三条殿のご計画と、上杉、畠山の人々の陰謀は、ああでした、こうでした」と語った。

高師直は彼らにさまざまの褒美を与えて、
「これからも殿中の様子は、内々に教えて下さい」と斉藤、粟飯原に頼んだ。

師直はこの時から厳しく用心して、一族郎党数万人を近辺の民家に泊まらせて置いて、出仕をやめ、仮病を使ってじっとしていた。

幕府に出てこなくなった師直を、尊氏と直義は執事から解任した。

<足利直義 施行状>

 

39.2.師直の反撃

しかし、師直は黙っていなかった。

師直は、去年の春から楠退治のための河内国に下っていた、弟の師泰に使いを遣って事の次第を告げた。

師泰は急いで京都へ帰った。

8月12日の夕方から、数万騎の兵が南北へ走り行き交う。馬の足音、鎧の音が鳴り止む暇もなかった。

直義方へ集まる兵は全部で七千余騎が陣屋を固めて集まった。

一方師直の館へ馳せ加わる、その軍勢は五万余騎、一条大路、今出川、転法輪、柳ヶ辻、出雲路河原に至るまで、隙間なく埋め尽くした。

尊氏はこれに驚き、直義へ使いを遣って、こちらに来いと誘った。

尊氏の御所は直義の館のすぐ北側にあり、直義は兵たちを引き連れて将軍御所にいった。

この様子を見て、叶わないと思ったのだろうか、初めに集まった兵達が、五騎、十騎と逃げ失せて師直の方に加わった。

残った兵は、わずかに千騎にも足らなかった、という。

明けて8月13日の午前六時、武蔵守師直と息子武蔵五郎師夏が、雲霞のような兵を引き連れて法成寺河原に出て二手にざっと分かれて将軍の御所の東北を十重二十重に囲んで、三度鬨の声を挙げた。

越後守師泰は七千余騎を分けて引き連れ西南の小路を閉ざして搦め手に回った。

<御所巻:御所を取り巻き、要求や異議申し立てを行う行為>


結局、尊氏は師直の求めに応じ、「これから後は、左兵衛督(直義)を政道に参与させることはない、上杉、畠山は遠流とする」と認めた。

師直は大いに喜び、囲みを解いて帰っていった。

次の朝すぐに妙佶を召し捕ろうとしたが、すでに先に逃亡しており、行方が知れなかった、という。

越前に流罪にされた上杉重能と畠山直宗は流罪先で死罪となった。

足利尊氏は直義の後継者として、鎌倉にいた嫡男の足利義詮を京に呼んだ。

この義詮の代わりは当時9歳の足利基氏(尊氏四男)とし、上杉憲顕と高師冬(師直の従兄弟)を補佐役とした。

 

39.3.直冬が蜂起し、尊氏発進する

高師泰が、青杉城を落とし、西進し三隅城の攻撃を始めた、観応元年/正平5年(1350年)9月29日、九州肥後国から援軍依頼の早馬が京に来た。

内容は、「足利直冬の勢力が北朝方を追い詰め攻撃しており、寝返る武将も増えている。

このままでは手遅れになるので、早急に軍勢を派遣して欲しい」ということであった。

足利直冬は前年の1349年9月13日肥後に到着し、肥後有力武将である川尻肥後守幸俊の館を住まいとした。

川尻氏は嵯峨源氏の末裔といわれ、肥後国飽田郡河尻(現熊本市川尻町)を本貫とするいわゆる国御家人である。

河尻氏は鎌倉中期以降、北条氏と密接な関係をもって拾頭し、南北朝期にも大むね武家方に属した。

「肥後守」は菊池氏惣領の南朝方の肥後守に対抗して、直冬の承認を得て称したものであった、と思われている。

この直冬に大友一族の宅磨当太郎守直が加勢して国中で兵を集めた。

そして、川尻、宅磨らの軍勢は将軍の監代(探題職の代理か)である宇都宮三河守を追い落とした。

 

直冬は、徐々に勢力を拡大していき、遂に、少弐氏や大友氏が直冬の味方になっいく。

尊氏は、この報告を聞いて、

「さて、誰を討手にやろうか」と執事の高師直にたずねると、

「遠国の乱を鎮めるためにはご一家の末流か、私などが行くべきですが、今回は何としても上様直々にお下りいただいて成敗なさらなくてはならないでしょう。

なぜならば、九州の者たちが兵衛佐(直冬)殿にお付きしたのは、将軍の御子であるので、ひょっとしたら、内々お心を通じていらっしゃる事があるだろうと考えるからです。

世の人は、将軍が直々に御成敗の合戦をなされば、誰もが、父子の確執に天の罰が下されると思うでしょう。

将軍の御指揮で私が命を捨てて戦うならば、九州、中国の全てが敵に味方したとしても、何を恐れることがありましょうか。

すぐに急いでお下り下さい」と強く勧めた。

尊氏は、これを聞いて一言も異論なく自ら討伐することを決めたという。

10月13日、尊氏は都の警固に宰相中将義詮(尊氏の嫡男)を残して、高師直を連れ、8千余騎を率いて直冬討伐に出発した。

 

この尊氏の討伐隊出発の際に京中が大騒ぎする事件が起こるのである。

 

<続く>

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