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旅日記

望洋-36(宮古島に向かう(続き2))

21.宮古島に向かう(続き2)

21.2.第二梯隊

宮古島への第一梯隊が1月8日に座間味島を出航した。

後発の第二梯隊が出港するのは、その10日後のことである。

第二梯隊のメンバーは、その間はいつもと変わらず薪集めなどを行っていた。

12日頃から、機帆船が次々と集まってきたので、㋹艇の搭載を順次行った。

出港が間近になった1月16日に阿佐集落で祭りが行われ、それに参加し地元の人々と交流した。

17日にお世話になった地元の家を回り、米搗きの手伝い、掃除、お礼とお別れの挨拶をした。

18日の夜に乗船を始め、翌19日の未明の3時に出港した。

しかし、波が高かったため、久米島に一時停泊することになった。

1月20日に久米島を出港し第二悌隊も、時化に遭遇したが、殆どがどうにか宮古島に到着することが出来た。

宮古島に到着できなかった船は2隻あった。

そのうち1隻は石垣島まで流され、1月22日の午後に石垣港に入港した。

あとの1隻は1月22日多良間島東方約10Kmの海上で米軍闘機の攻撃を受け5名が戦死した。

21.2.1.田辺隊員の体験

第二梯隊で航行していた、田辺隊員らがのった船(竹丸)が、多良間島東方約10Kmの海上で米軍闘機の攻撃を受け、5名が戦死した。

その時の状況を田辺隊員は次のように話す。

<田辺隊員の話>

座間味島を出航した機帆船は、一時久米島に寄港し、日没と共に宮古島に向かった昭和20年1月21日はものすごく時化ていた。

ハッチには㋹艇が積み込まれていた。

荒天のため一睡もできない、船は木の葉のごとく揺れ、体と体がぶつかりあって立つことも出来ず、誰も話をする者もいなかった。

しかし、夜が明けると嘘のように絶好の天候となった。

だが、船酔いのため、誰も起きる者もなく、朝食をとる元気などさらさらなかった。

全員ぐったりと寝たままだ。

10時頃だったろうか、バリバリという機銃の音に全員が我に返った。

傍にいた河田候補生が弾片を額に受けたのか少し血を流しているのを見て仰天した。

慌てて全員甲板にかけあがると、遥か彼方へ敵戦闘機9機が飛び去るのが見えた。

積んでいた㋹艇がものすごい炎を上げて燃えていた。

激しい火災のため指揮官を探して報告し、指示を受けることも出来なかった。

基地隊の菊本中尉殿と2、3の戦友と大声で呼び叫んだが、届くことはなかった。

機関員も銃声で甲板に上がったのだろうか、船は火だるまとなりながらも速力は落ちずに進んでいる。

火は舟艇より本船に燃え広がり、熱を振り切るには海に飛び込むしかないが、しかし船の速力は落ちないので、飛び込めば船より離れてしまうのは誰もがわかっている。

誰が最初に飛び込んだか分からない。

炎が迫ってくる度に、二分、三分毎に一人また一人と飛び込む。

最後に私ともう一人の二人になったが相談する余裕など全くない。

その人もついに飛び込み私一人となった。

熱さに耐えきれる限り一分でも二分でも船から離れたくない、と思った。

依然船は燃え盛りながらも多良間島に向って一直線に走っている。

島までどれ位の距離があるのかわからない。

如何に水泳の達人でも泳げる距離ではない。

私は最後まで船に留る決心をしたが、船が多良間島から反対に離れて行く状態であったらどうなっていたかわからない。

船の速力が落ちはじめた。

火が機関室に移ったのだろう。

炎は甲板を全部覆い甲板に居ることが出来なくなったが、まだ少しづつ船は走っている。

熱さを避けるため船の中腹に止めてあった錨の所に足を掛けた。

船は完全に止まったので、船が焼けてしまえば沈むだろうから、沈めば何か浮遊物があるだろうから、それに掴まって浮いていようと考えていた。

先に飛び込んだ隊員達と現在の場所とは三十分も船が走ったので相当離れてしまっただろう。

最早自分一人と思い海に入り、船尾の方へ泳いで行くと全く想像外の事がわかった。

船に積んである救命ボートに相当な戦友が乗り移り、船につないである綱をほどいているところではない か。

「あっ!一人いる」と菊本中尉が叫んで、「早くボートに乗れ」といわれやっと乗り移った。

しかし、ボートには漕ぐ物が何もない。

船長は腕に貫通銃創を受けている。

他の者は全員無事だ。

二人の朝鮮半島出身の船員が板切れで必死に漕ぎ、他の者も手で一生懸命に島に向って漕ぎ続けた。

先に飛込んだ戦友は大変気になるが、どうする事もできない。

基地隊の兵一名が最初にボートに乗り移りながら、いつの間にか居なくなったのも大分経ってからわかった。

日が暮れはじめ、島の海岸には数十名の島民が大きな焚火をして迎えてくれていた。

島の小学校に一先ず落ち着くことになり行くと十名程の遭難した基地隊員がいた。

救助に向うにも何もなく、涙をのんであきらめる以外なく、誠に断腸の思いでいたのを今でも残念でしかたない。

もし、被弾のとき機関を止めていたら全員が助かったかもと考える事もしばしばだった。

 

21.2.2.中村隊員の体験

中村は第二梯隊で宮古島へ向かった。

中村は、座間味島から宮古島までの事を次の様にメモで残している。

<中村メモ>

1月8日

夜21時頃、第一梯隊が座間味島を出港し宮古島に向かったので見送った。

しかし、この夜風が出てきて、第一梯隊が順調に宮古島に到達できるかどうか少し心配になった。

あとで聞くと、やはり久米島に一時退避したということであった。

今日は群長の命令で倉庫から持ち出した大豆で作って貰った豆腐は格別の味であった。

我々は機帆船が揃うのをただ待つだけで、その間毎日薪集めや魚介類の採集を行った。

1月11日

山を越えてコヒナの浜で鮑取りをしている最中、漂流してきた機雷が遠くで数個爆発した。

きな爆音で、こだまが凄かった。

よもや我々が宮古島に向かう航路で機雷に当たることはないと思うが、少し気味悪かった。

この夜は鮑の味噌あえを作って食べたが、味は最高であった。

 戻ってみると機帆船が揃っていた。

明日から出航の準備が始まる。

12日

8時より舟艇搭載を開始したが、㋹の休止期間が長かったせいか中隊長、群長、自分の三艇しか始動しなかった。

中隊長は少し怒っていたようである。

13日〜17日

掃除をしたり、大発で船に燃料などのドラム缶、糧秣などを機帆船に積み込んだ。

また安佐集落の祭りが行われ、それに参加した。

お世話になった家の手伝いで、米搗きを行ったが、米搗きに使う杵は童話の兎の使うものと同じで面白かった。

18日 

午前中は薪集めをし、午後炊事場で米搗き、宮古島へ移動の準備が完了した。

21時九十一興国丸に乗船し、出航の合図を待った。

19日 

早朝三時に出帆した。

だが、風波が強いため、10時に久米島に一時停泊することになった。

20日

我々は朝9時に久米島出帆した。

夕方から徐々に波が高くなり、夜中には大時化となった。

多くのものが船酔いで、ぐったりしている。

21日

夜が明けると海は穏やかになっていた。

だが、周りに僚船は見当たらなかった。

昼頃になっても未だ島は全然見えない。

15時頃島影を発見し、海図を見ながら水深を測定したが、全然海図と合致せず船の位置は確定しなかった。

この頃、竹丸が敵機の銃撃を受け沈没(多良間島東方6浬海上)したと後で知った。

22日 

夜が明けて、見えている島は石垣島と判明した。

14時に石垣港に入港し、上陸した。夜通し風が強かった。

24日 

風雨が強く、船中で過ごした。

夜中に錨が切れ石垣港外へ流された。

25日〜29日

宮古島へすぐ向かうようにとの、指令を受けたが、風が強く波が高い上に船の調子が悪いため、出航できなかった。

港に係留していたが、夜中に錨が切れ石垣港の外に流された事もあった。

風雨は更に強くなって、左右前後に強く揺れ、あわや沈没するのではないかと思うくらいであった。

30日

午後には天候が回復してきた。

船の整備や、水の補給など出港準備が終わった。

31日

2時出港、かなり波が高い、真上をグラマン通過、15時宮古島が見えた、21時平良港北2.3海里で停泊した。

 

2月1日 

波静か、9時出航、14時平良港第三桟橋へ上陸、兵舎に到着。

 

『(宮古島に向かう)節終わり』

 

<続く>

<前の話>    <次の話>

 

 

 

 

 

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