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旅日記

望洋−48(海上挺進第四戦隊の状況)

28.海上挺進第四戦隊の状況

昭和20年2月硫黄島に米軍の上陸があり、次の上陸は沖縄方面が必至なりとして対上陸作戦準備に専念していた。

米軍の上陸は、南西諸島の大根拠地たるべき沖縄本島、或いは宮古島に直接来攻することが考えられていた。

沖縄本島にやってくることはほぼ間違いないとしても、状況によっては宮古島が先になるという可能性もあるというのが当時の現地の軍側のほぼ一致した判断とされていた。

しかし昭和20年に入って数の専ら沖縄本島に向けられつつあることや、執拗な偵察行動などから判断して次期進攻目標が沖縄本島に向けられることは九分通り間違いないとの見方が決定的となり、従って宮古島の危険率はかなり薄らいだと見られた。

3月中旬、米軍は慶良間諸島に上陸を開始し、4月に入ると沖縄本島に猛攻撃を開始する。

米軍は、宮古島への上陸は考えていなかった。

ただし、沖縄本島の上陸・制圧を邪魔されないように、宮古島の日本軍戦力を叩き潰すことを目標としていた。

この時期に宮古島の平良市街地に駐屯していた、海上挺進第四戦隊はどのような行動をしていたのか。

そのことを伺わせる、中村隊員のメモと、高山第一中隊長、菊田隊員、内田隊員の回想を次に述べる。

 

28.1.中村隊員のメモ

中村が入隊以来書き続けていたメモのうち昭和20年3月、4月、5月分を以下に記す。

このメモから、度重なる米軍の襲撃を受け、避難しながらも、日常的な作業や訓練をしている様子が伺われる。

ともすれば、米軍の空襲も落雷を避けるような感覚で避難していたのではないかと錯覚する思いである。

また、この頃になると食料不足も深刻な状況になってきたようである。

そして、いつか来る特攻のための訓練・準備や、㋹特攻艇の整備も日課となっている。

28.1.1.昭和二十年三月

一日 
午前舟艇整備 早朝グラマン二機、昨夜入港の輸送船を銃撃(*1)、偵察ゆえ急遽対空十六時より約一時間。
グラマン約10機及び雷撃機数機で湾内に停泊中の輸送船二隻及び海防艦を攻撃、一隻は油と弾薬を搭載。
燃え続ける煙りで島全体が薄暗い、他の一隻は食糧と兵員搭載と聞く。
空中魚雷により目前で轟沈。最後の食糧もここまで来て実に悔しい。
海防艦は魚雷を避けて、沖を逃げ回っていたがどうしただろうか。

(*1)この空襲は、既述した「宮古支庁経済課長(当時)東風平(こちんだ)恵令氏の証言」の中に出た(3月1日空襲)の事である。
(3月1日空襲)
その衣料品が積みこまれたという豊坂丸と大建丸が入港する朝、私は港の見える郵便局の丘に立っていました。ところが、グラマンがきて、ジグザコースでにげる両船をおそい炎上させてしまいました 。午後三時頃までただ呆然と、それを眺めていました。

二日
情報=南東約三百粁に敵機動部隊近付く 
戦闘準備、服装を整え待機。 
先日多良間島でグラマ ンの集中攻撃を受け戦死した池内少尉以下の告別式を十六時より祥雲寺で行う。
(田辺 一人が不思議に生還(*2)

(*2)「田辺隊員の体験談」は既述

三日
空襲連続、爆音絶えず。 
グラマン・コルセヤー・スピ ットファイヤー・P38の戦闘機、アベンジャー艦爆など多数上陸近しか。                           十八時半より十七・二十二・ 二十三・二十四の四艇(㋹艇)を第二陣地へ移す。二十三時終了す。

四日 
各舟艇の擬装を行う

五日
午前舟艇整備、午後空襲の合間を見て水泳 

六日
午前舟艇整備、午後入浴

七日 
本日より五時起床、三十分で戦闘準備完了すること。 
午後ラグビー

八日
七時大詔奉戴式(*3)。午後焚き火で藷焼きながら雑談 
モールス練習、モールスは自信があったが渡田に及ばず

(*3)大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とは、大東亜戦争(太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動

九日 
食糧欠乏、中隊ごとに荒れ地を耕す、十一日まで (炊事場南側)

十二日 
一時四十五分野戦病院で佐田(*4)死亡
十九時野火の準備完了、川内と衛兵に付く 
夜食を済ませた頃、二群全員が来て骨を拾う

(*4)2月23日の池間島沖合で米軍に襲撃され重傷した佐田隊員が死亡

十五日
農耕、主に夜中に行う

十六日
農耕、主に夜中に行う

十七日 
各艇の始動実施 午後入浴

十八日 
午前アダンの根で草履作り、午後海に潜って貝取り 

十九日 
体操 手旗訓練、舟艇整備

二十二日 
午前 中隊長精神訓話

二十四日 
七時半コルセヤー・グラマン十五機、平良港爆撃、砂糖工場爆破され一面砂糖の海となる

二十六日 
八時防護警報発令

二十七日 
五時より甲号戦備演習、装具を第二陣地へ運ぶ
八時十五・十六機、十時及び十六時約四十機伊良部飛行場・平良港を爆撃

二十八日 
陣地擬装及び舟艇整備
情報=二・三日前敵舟艇約百隻・兵力千五百位が慶良間諸島に上陸
第一戦隊と島民たちが心配

三十日
舟等整、B29が一機偵察飛行
情報=現在本島を有力な敵艦隊及び航空部隊が近接包囲し砲爆撃しつつあり、駆逐艦は沖約千米まで近付き艦砲射撃なり
北方から雷のような連続音が聞こえてしる

三十一日 
午前学科、モールス練習 
午後体操、農耕 
何回もグラマンが飛行場と港を爆撃

28.1.2.昭和二十年四月

一日 
早朝久し振りに友軍機飛び立つ、特攻機か 
午後身体検査、腸の調子悪化、練兵休をとる

二日
朝、敵数機港を爆撃
午後農耕

三日
午前タコ壺掘り 

十二時半頃食事中を爆撃され洞窟に退避 
本日の敵機約三百機

四日
環境整理、来襲少数

五日
タコ壺掘り、五時半から十七時まで敵機約二百機来襲
炊事場付近に小型爆弾ニコ投下

六日 
タコ壺掘り、敵機数回爆撃

七日
六時半頃より敵機五・六十回来襲

八日
五時半より敵機数回海岸線を攻撃、上陸の準備か 
夜になっても照明弾とロケット弾の攻撃を受ける 
十八時半より大詔奉戴式

九日 
五時半頃よりカーチス・グラマン百機位が十回余に及び、平良町と飛行場をロケット弾・時限爆弾で攻撃、町は数箇所で炎上

十日
雨、窟掘り続行。暫く農耕続く 

二十七日 
午前衛生法・救急法、午後機関学科

二十八日 
午前戦闘計画、午後内務検査

二十九日 
六時半より遥拝式( 皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝)する行為)。                    七時から十六時まで群長・川内と三人で野戦病院の加山を見舞う、洞窟の中で寝ていたがあの傷付いた手は回復するだろうか、帰りは特に激しい空襲で時間がかかった。


28.1.3.昭和二十年五月

一日 
午前海洋気象学、午後舟艇整備

二日
舟艇に清水(真水) 通しを行う

三日 
午前舟艇整備、午後機関学科 
十六号艇分解整備、夜手探りで薩摩藷の苗を植える

 <藷作り>

 

四日
午前海洋気象学海図等、午後機関学科
十一時四十五分から十二時十五分まで、西方海上に敵B2、C5他6通過するかに見えたが、横隊で我島に艦砲射撃を行う 
乙号戦備発令、主に飛行場を砲撃、約三十分間の主砲弾の数約三八〇発(この数は二群の洞窟の上の台地で確認したもの故正確である)

五日
六時乙号戦備解除、午前軍隊内務令、午後舟艇整備、入浴
情報=四月十八日から二十七日までの那覇付近の戦果次の如し
BまたはC一、C四、 D二不明十五撃沈、D二、大型一、T五不明十六大破、水上特攻隊によるものD二、T三、大型T二、不明一撃沈、神風特別攻隊によるもの T四隻を撃沈

七日
グリス・オイルの注入及び錆取り、二十時まで農耕 

八日 
環境整理、午後舟艇整備

十二日
農耕、病床の上田の看護にあたる

十四日
舟艇整備及び擬装、十四時まで防毒面の手入れ、バッタ取り

十五日 
午前環境整理、藷苗取り、午後農耕 
情報=名古屋へ敵機四百様が来襲焼夷弾投下、九州の飛行場に五百機来襲

十六日
午前戦闘計画、機関教育、入浴

十八日 
防毒面の操法、午後入浴当番水汲み

十九日 
午前内務整理、十一時三十分第三洞窟落盤負傷者あり 

二十日 
身辺整理

二十一日 
長雨のため被服の乾燥

二十三日 
午前戦闘計画テスト、午後農耕、一部で小屋を作る

二十八日 
午前機関の分解手入れ
情報=本島の北・中飛行場は友軍が完全制圧、敵空母等十隻余の大部隊は我が特攻機により退散

二十九日 
午前機関の分解手入れ、午後貝取り、アナゴ三匹捕らえる、農耕

三十日
海図の説明、貝取り、農耕

三十一日
舟艇整備、貝取り、農耕
第一陣へロケット弾落下、落下地点まで数メートル
食事当番

 

<続く>

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