27.池間島沖の米軍襲撃
話を海上挺進第四戦隊に戻す。
昭和20年(1945年)2月、一部の隊員を除いて第四戦隊員がようやく宮古島に集合した。
早速、特攻に向けての訓練や舟艇などの整備が始まった。
機関短銃操法訓練やモールス信号・手旗信号の訓練、礼式令、米英軍に関する知識などの学科教育も行われた。
<機関短銃>
また、㋹艇の機関の点検整備、不良箇所の修理、爆雷投下機の点検整備は欠かせない日課であった。
整備が終わった㋹艇に燃料を補給し秘匿壕に納めた。
しかし、休み無しで訓練や作業をしたのではなかった。
不定期ではあるが、休養日もあった。
また、ラグビーなどの運動もすることができた。
米軍の襲撃を受ける
昭和20年2月23日、第四戦隊は想定される米軍の宮古島上陸時の侵入経路の実地確認と㋹艇攻撃の作戦を練るために池間島周辺の現場調査を行った。
<池間島>
この調査中に米軍機の襲撃を受け隊員1名が戦死し、3名が負傷した。
この時の状況を隊員達が語る。
27.1.中村隊員
中村隊員は当日の様子を次のようにメモしている
2隻の大発(陸軍の上陸用舟艇の通称)で池間東方海上へ航路視察に出た。
監視の役目を命令された。
正午頃、仲村は西方に飛行機らしきものを発見したので、大声で報告した。
暫くすると、敵機と確認できたので、続けて「敵機発見」と報告した。
敵機はコンソリーデーテッドB24だった。
コンソリーデーテッドB24は急降下して、銃撃しながら爆弾を投下してきた。
大発2隻は航行不能となった。
敵機が飛び去った隙を狙って全員が海に飛び込み池間灯台に向かって泳いだ。
この攻撃で、荘田が足を撃たれ出血多量となった。
心配である。
加山は右腕全体に重傷を受け、浜山は横腹、川内は足の甲、佐田が後頭部を負傷した。
荘田の血糊がべっとり付いた荘田の手を洗い、宮城を拝ませた。
明くる日、荘田は帰らぬ人となった。
16時から祥雲寺で告別式をおこなった。
【余話】
53年後の平成5年(1993年)に元第四戦隊の生存者が、この祥雲寺で戦没者23名(任地の宮古島に赴く途中で19名が海上戦死、宮古島で4名が戦死)の慰霊祭を執り行い、仏像を奉納した。
参加者は31名であった。
奉納した阿弥陀像の胎内には、戦没者の名簿が納められ、住職から「寺の存続する限り、法要を絶やさない」との言葉があった。
27.2.浜田中隊長の話
浜田中隊長は、その時の様子を次のように語った
2月23日、進路偵察のため大発艇2隻にて宮古島東岸のリーフの情況を調査中、突如B24の攻撃を受ける。
第一回機銃掃射、第二回機銃掃射、爆弾投下二発とも命中せず。三回・四回・五回は泳いで避難する隊員に対し機銃掃射。
最後の機銃掃射で荘田伍長が「やられた」と叫んだ。
その隣にいた吉永・藤田両伍長が「大変です」と報告する。
見れば腰部の後から 大腿部にかけて貫通銃創で、左足のつけねの骨が折れ動脈が切断され、血液が吹きでている。
すぐ止血に取り掛かったが、血液のヌメリですぐに滑って止まらない。
止むを得ずスパナを当てドライバーで締めた。
彼は痛い痛いとうめき声をあげたが「我慢しろ」と言った。
命が大事だと励まし励まし、池間島にどうして運ぶか考えた。
大発艇は銃弾を受け浸水したが幸運にもリーフの上に座礁していた。
素板を十字に積み重ね、その上に偽装網をかけ、その上に荘田をのせ引っ張って池間島に上陸させた。
定かではないが攻撃されたのは午前11時30分頃、池間島についたのは2時、直ぐにくり舟で荷ヶ取の陸軍病院に転送。
<くり舟>
着いた時は既に出血多量で 瞳孔も開き、軍医も入院させない方がよいとのことで、すべての処置をしてもらい隊に帰った。
また武運拙く若い隊員を失った。
特攻で散るのはもとより望む所なれど、何とも申訳ない気持でたまらなかった。
その後は専ら出撃に備え、舟艇整備を中心に心身の準備に日夜精励した。
四月に米軍は沖縄本島に上陸し、沖縄戦が開始された。
宮古島では 朝六時から夕6時まで毎日グラマンコルセアの空襲、常時80機が在空していた。途中2日位艦砲射撃を受ける。
27.3.加山隊員
加山隊員は2月23日の襲撃で負傷を受けた一人である。
加山隊員の体験談
「昭和20年2月23日」あの日のことは遠く過ぎ去った一瞬の悪夢だったと思っている。
2隻の上陸用舟艇に分乗した私達は、池間島東方海上で出撃時の航路視察に参加していたが、朝から何か不吉な予感に襲われて不安でたまらなかった。
それは19年12月9日、鹿児島出港以来の底知れない脅威であり、特に1月20日以後、護衛のない機帆船団で久米島から宮古島に向う途中、敵機の銃撃を受けて僚船が散り散りになった恐怖の体験を忘れることができなかったからである。
それについて2週間程前から敵機の偵察が頻繁にあるという噂を耳にしていたから、もしもこの噂が事実となり逃げ場のない舟艇内で空襲を受けたら、まさに「袋の中の鼠」であると思った。
正午近くに対空監視に立った中村隊員から 「敵機らしきものを発見」と通報があった。
擬装したアダンの葉陰から西方洋上に黒い一点を見つけた。
やがて黒点は次第に大きくなり、敵機がコンソリーデーテッドB24だと判明できる位置まで接近したとき、大きな翼から機銃が乱射された。
2隻の舟艇はこの激しい砲火をジグザグ航行でかわしながら2基の機関銃で応戦したが、しばらくしてブリッジが静かになり、応戦の気配が止み航行も不能となった。
この時までアダン葉の下に潜んでいた私達は、銃声が収まった瞬間をまって艇外への脱出を図ったが、半数も脱出できない間に第二彼の攻撃が始まった。
<アダン>
やっと船端に着いたが引き返したもの、海中での銃撃や爆撃を恐れて脱出をためらったものは、再びアダン葉の下に潜り込んで息をひそめた。
タイミング悪く少し遅れて引き返した私は、アダン葉の中には潜ることもできず仕方なしに船底に体を押しつけて丸く船底へしゃがんだ。
次の瞬間、激しい銃撃と共に爆弾が投下されて艇内が激しく揺れ た。
ほとんど同時に私の右肩に鉄棒でたたきつけたような鋭い衝撃が走り、花火を打ち上げた後のような硝煙が鼻をついた。
暫くそのままの姿勢でいたが右半身は麻痺して力が入らなかった。
生ぬるい液体が首筋をはって船底に流れ、俯せた私の額を濡らした。
頭を上げた私を見た戦友が「やられたか」と悲痛な声をあげた。
第三波の攻撃の前に私達は我先にと海中に身を投げた。
右半身の自由を失って船端へ登れない私を押し上げてくれた戦友が誰だったかも覚えていない。
ともかく、僅かに救命胴衣で浮き上がった体の左半身を動かして、岸辺に向って必死に泳いだ。
対岸は絶壁にそそり立つ池間島灯台の岩場で、既に危機を脱出した戦友の姿が見えた。
長身の高山中隊長が灯台下の洞窟で、何か大声で叫びながら軍刀を振りかざしているのが見えた。
ようやく浅瀬にたどり着いた時には疲労困憊し、しばらく立ち上ることはできなかった。
何気なく背後の海を振り返ると、必死に岸へ向って泳ぐ隊員の後から金山戦隊長の姿が見えた。
隊長はゆっくり両手を回して背泳で岸に向っていたが、進行方向が岸に向っていないことに気づくと立ち直って方向を見定め、やがてまた岸に向ってゆっくりと泳ぎ出す光景が、不思議に判然と今でも記憶に残っている。
二人の戦友に両腕を担がれて安全な場所に移動する間、右肩は麻痺して痛みは感じなかったし出血も酷くなかったが、足が重く全身がだるいため何度もしゃがみ込んで戦友を困らせたことを覚えている。
やがて救急隊が救援に来たようで私は担架に乗せられた。
この時私以外の死傷者のことも耳に入ったが、舟艇の運行責任者4名が壮烈な戦死をしたこと、最年少荘田が大腿部を粉砕され出血多量で危険であること、浜山は横腹、 川内は足の甲、佐田は後頭部にそれぞれ負傷したことなどを知った。
荘田が担送されてきた時、止血の方法もない状態で苦痛を訴える声も弱々しく手の施しようもなかった。
下半身は血のりにまみれ、 ただでさえ東北生れの色白の顔が蒼白に染っていた。
突然中隊長が「荘田を東に向けよ」と厳しい声で命令した。
血まみれの荘田の手を洗い、東を向けて宮城を遥拝させた。
そして翌日、荘田は遂に助からなかった。
私は担架に乗せられたまま救護車へ積まれた。
その時下士官が衛生兵に「脈拍を調べよ」と言った。
衛生兵は私の腕のあちこちを探った上「脈がありません」と報告した。
下士官は苦笑しながら引き返し私の脈を確かめて別の車の方へいった。
こうしてこの日のうちに私は宮古島陸軍病院へ入院した。
病院生活とはいえ戦時下でしかも飛行場の前方に位置するため、翌日から空襲のたびに防空壕に退避するのが日課となった。
7月初め小さな鰹漁船で重傷者のみが台湾護送となり、夜陰密かに石垣、西表、与那の島伝いで約1ヶ月かかって台湾にたどり着いた。
終戦は小学校を改造した暖暖陸軍病院(台湾基隆市)で知った。
その後に台北に集結し翌年(昭和21年)5月に内地に帰った。
<続く>