58.戦国の石見−1(続き)
58.3.二度の将軍就任と解任(足利義稙)
さて、室町第10代将軍足利義稙は、細川政元のクーデターによって解任され龍安寺に幽閉された(明応2年の明応の政変)、足利義稙に代わって将軍に就いたのは足利義澄である。
<足利義稙>
足利義稙はその後逃亡し、流れ流れて周防の大内義興を頼った。
永正4(1507)年6月細川政元が暗殺され、京の幕府は混乱する(永正の錯乱)。
この混乱に乗じて、足利義稙は大内義興とともに上洛すると、第11代室町将軍足利義澄は近江国の六角高頼を頼って朽木谷、さらに蒲生郡水茎岡山城に逃れた。
上洛した足利義稙は、征夷大将軍に再任された(日本史上二度将軍になったのは足利義稙だけである)。
義稙将軍を支えたのは、細川高国や大内義興である。
特に大内義興の軍事力は重要な存在であった。
しかし、前将軍の足利義澄は将軍職を奪い返そうとして対立は続いていており、各地で戦が勃発していた。
ところが、一大決戦を前にして足利義澄は死亡するのである。
この影響もあり、京の船岡山合戦で足利義澄側に勝利した。
これで義稙の将軍としての立場は安泰かと思われたが、そうはならなかった。
永正15年(1518年)、軍事の要であった大内義興が周防の情勢が不安定となったために帰国する。
情勢不安定の主な原因は新興勢力である尼子経久が力をつけてきており、大内領が侵される状況になっていたからである。
すると、京都の政情は再び不安定となった。
そして、色々あり(色々の内容は省略する)結局義稙は再び出奔して将軍職を解任され、阿波の地で病死するのである。
という、上記の事は「55.3 流れ公方」の項で、あらましを述べた。
本項では、大内義興の上洛と船岡山の合戦、及びこれらの戦における石見・出雲等の諸将の行動を見ていく。
58.3.1.義稙、義興の上洛
永正4年(1507年)11月25日に足利義稙、大内義興らは山口から進発し防府に出て、12月に備後にまで進出し、永正5年(1508年)4月27日に和泉国堺に入った。
そして、6月8日に上洛を果たした。
「陰徳太平記」に、この上洛に従った各国の武将の名が列記されている。
「陰徳太平記」巻第二「義稙卿帰路(付)将軍再任之事」
永正四年十一月二十六日義稙卿防州吉敷の旅館を御發駕有りければ大内左京太夫多々良義興防長豊筑の軍兵二萬五千騎を引率して前後を供奉す、
其外隨逐の諸将先ず九州に島津薩摩守貴久、大友修理太夫義長、龍造寺山城守家兼、星野常陸介親忠、麻生兵部大補元重、高橋三河守統種、菊池左兵衛佐重治、伊東大膳太夫義佑、千壽信濃守冬道、千葉新介興常、同胤盛、有馬修理大夫貴純、長野五郎義信、阿蘇大宮司、宇治惟前、宗像重春、秋月長門守、筑紫上野介惟門、松浦肥前守興信、小田駿河守資光入道覺巴、渋川左兵衛督義基、原田大蔵大輔隆種、宗筑後守義盛、豊繞美作守入道永源、問注所、麥生、土持、本告、姉川、犬塚、宇都宮賀来、福島、和仁、邊春等、
安藝國に探題職武田太郎左衛門元繁、毛利備中守興元、吉川駿河守經基、宍戸安藝守元源、平賀太郎左衛門隆宗、小早川美作守敬平、天野六郎左衛門興次、熊谷次郎三郎元直、香川美作守吉景、
石見國に三隅藤五郎興信、吉見三河守成賴、佐波常陸介誠連、益田越中守宗兼、高橋志摩守清光、福屋太郎左衛門國兼、小笠原兵部大輔長隆、周布左近將監和兼、祖式、久利、
出雲に尼子伊豫守經久、三澤備前守為幸、三刀屋彈正左衛門爲虎、牛尾、淺山、宍道、廣田、櫻井、鹽冶、
伯耆に山名入道、小嶋掃部助清忠、南條紀伊守守親、大山の教悟院、行松入道、
因幡に江山名治部少輔豐重、
但馬に山名右衛門督政豐の一族、
美作に兩齋藤、三浦貞久、葦田友興、市宗忠、玉串昭之、
備後に宮若狹守秀景入道、三吉式部少輔隆景、山內大和守直通、山名宮内少輔忠勝、木梨治部大輔通経、楢崎三河守豊影、
備中に庄備中守爲資、細川、伊勢、福井孫六左衛門、石川左衛門尉、三村備中守宗親、清水、伊達
備前に浦上美作守則宗、
播磨に別所加賀守煕治、黒田右近大夫高政、
伊豫に河野四郞通直、
讚岐に香河元光、
都合其勢十五萬騎、能島掃部助、久留島出雲守、因島某、海上を警衛して八千五百餘艘の軍艦に取乗て舳艫千里に亘りたれは、さしもに広き滄海も一栗を措くに地なく、微塵を受くるに處なし
・・(略)・・
(永正五年)二月朔日に至って纜を解き、翌二日泉州境の津に着き給ふ、
・・(略)・・
同(永正五年)六月八日義稙卿御歸洛有けれは主上此度の軍功を感し被下て、七月朔日従三位に叙し権大納言に任じ征夷大將軍に復任す、
同十二月には従二位に叙せしめらる、
相従う所の諸将の功を糺(たば)さるに、大内義興に過たるはなしとて八月朔日に従四位下、九月十四日に無程(ほどなくして)四位上をして員(かず)の外の管領職に備りぬ、
斯波、細川、畠山の外、他姓の管領に任ずること、是初めての例なれば、一家の規模此時也と、諸人羨み思ひけり、
さて其外の人々も分々の褒美を賜わりて、上下悦び勇みける。
京都合戦
永正6年(1509年)6月、前将軍足利義澄方の三好之長らは山城の如意ヶ嶽(京都、東山)に拠って京都奪回戦を続ける。
対して、足利義稙方の細川高国・大内義興らはこれに応戦し撃退する。
同年8月、三好之長・長秀父子が京都に侵入するが、大内義興、細川高国らはこれを打ち破り長秀を伊勢に走らせた。
永正7年(1510年)正月、足利義稙側は、足利義澄が逃げている近江に侵攻するが、敗退してしまう。
足利義澄らは、この勝利に意を決し一気に京を奪還しようと、決戦を計画する。
それは、京にいる足利義稙らを挟み撃ちして叩こうという作戦である。
まず、細川澄元と三好之長を本拠地の阿波に帰国させ、軍勢を集めさせた。
そして、近江の軍と阿波の軍で京の足利義稙軍を挟み撃ちにしようとしたのである。
<第11代室町将軍足利義晴>
この頃、第11代室町将軍となる足利義晴が生まれている。
永正8年(1511年)3月、足利義澄の正室日野阿子が嫡子亀王丸(後の足利義晴)を出産した。
しかし義澄は、頼みとする六角高頼が足利義稙方と内通している噂があり、信頼できる赤松氏に預けることにした。
亀王丸は播磨の白旗城の赤松義村のもとで、11歳になるまで過ごした。
挟み撃ち作戦
阿波に帰った細川澄元は早速軍勢を集めて出陣し、摂津国で迎え撃つ足利義稙軍とぶつかるのである。
この戦は義澄側の勝利となる。
勝利した義澄側はそのまま京へと攻め上がった。
永正8年7月、足利義澄派の細川澄元らが兵を阿波に起こす。
7日にその一族である細川政賢らが和泉の堺の浜に上陸し、大坂の天王寺城を攻めようと泉北郡津井の深井に布陣した。
これに対し足利義稙派の細川高国は、遊佐順盛を派し、堺の万代庄(現在の堺市百舌鳥あたりか?)に陣を取る。
13日、遊佐は深井の陣を攻撃するが敗退し誉田高屋の諸城を失う。
勝利した細川政賢は、摂津西成郡中島(現大阪市)まで進出し、 一部隊を灘に配し、細川高国にくみする河原林政頼の拠る芦屋の鷹尾城を攻撃する。
河原林政頼は細川高国に救援を依頼し、京都から救援に細川尹賢・大内義興らが出陣した。
26日、細川尹賢・大内義興らは郷・雀松原・御影宿に兵を配り芦屋川原で政賢軍を破った。
同年8月、細川澄元の与党播磨守護赤松義村は、 和泉・摂津の侵略軍に呼応して加古川に軍兵を集結する。
しかし、出発の途中細川政賢の敗戦を聞くと、頽勢(衰えてゆく形勢)を挽回せんと兵庫の浦に向かい西宮周辺に布陣した。
9日に 河原林拠る鷹屋城を攻めた。
河原林はその攻撃に耐えられず、夜の闇に紛れて伊丹に避難するが、赤松勢に包囲される。
この応援の為、京都から再び細川尹賢・大内義興らが進出して来るが、山崎で入江一族らの指揮する一揆にはばまれて京都へ引き返えすことになる。
この京都勢の後退を見て、細川政賢、赤松義村らは摂津・河内勢を結集する。
細川高国らは一挙に京都を陥れようと近江の前将軍義澄一党へ連絡をとった。
しかし、足利義澄は14日に水茎岡山城(滋賀県近江八幡市)で病死していたのである。
京を奪回し義澄を再度将軍にしようとして、挙兵したが肝心の擁立する将軍がいなくなったのである。
こうなっては、京都に居ても意味がなく、義澄派は意気消沈するのである。
船岡山合戦
<大内義興>
<細川澄元>
大内義興はこの頃、大内義興に従って上洛してきた各国の諸将たちが帰国しており、それが悩みの一つであった。
大内義興は上洛してくる強大な反義稙派の攻勢に対し、京都で迎え撃つには、戦力が低下している今は危険であることを察し、しばらく丹波まで後退し敵を京都にひき入れ、陣容を整えて再び京都攻略の計画をたてたのである。
そこで、16日将軍義稙を擁し細川高国・畠山義元らとともに一旦丹波の長坂まで退いた。
一方、17日には反義稙派の細川政賢、赤松義村らが入京し、京都の船岡山に築城し、大内義興らの反攻に備えた。
足利義稙軍は、細川政賢らの本陣船岡山の築城が完成しないうちに反撃に出ようとして、22日長坂を発ち、堂ノ庭城に本陣を置いた。
そして、24日大内義興を先陣として船岡山の攻撃を開始した。
その第二陣の中に尼子経久 武田元繁らがおり、搦手軍の中に毛利吉川勢が加っていた。
この時、陰徳太平記は、
「石見の小笠原兵部大輔長隆は、佐々木の家人久徳右衛門兵衛と組んで首をとり、・・・・・益田越中守も好き兵を討ち」
と、石見勢の奮戦を伝えている。
船岡山の戦いは24日の一日で終った。
細川政賢は討死する。
京都は再び大内義興らの手中に戻った。
<山頂 船岡山公園>
9月1日、足利義稙は入京し、二条西洞院妙本寺を邸宅とした。
細川政賢の船岡山の敗報に接し、赤松義村は伊丹の城を捨てて播磨に退いた。
また、和泉の堺にまで進出していた細川澄元は阿波に還り、 一度は反義稙派の潰滅となった。
しかし、京都の政情混乱は治まることはなかった。
次回では、この船岡山合戦における石見勢の一部の諸将の戦いぶりを記述する。
<続く>