7.8. 甘南備寺落慶法要と真言宗の布教
弘仁10年(819年)6月、上流から来た大船(長さ約11m、幅約1.2mの物資運搬用の舟)が渡村の渡船場に着岸した。
大船は下流の桜井の津まで荷物を運ぶ途中で渡に立ち寄ったのだ。
その舟の荷物の間から三人の修行僧らしき男たちが現れ下船した。
渡の渡船場にいる船頭が、興味深そうに三人を眺めていた。
修行僧達は「私達は、京都からやって来たもので、渡村の保長である坂元に会いたい」と船頭に言った。
渡船場の船頭は、三人を坂元の家に案内した。
坂元に会うと修行僧達は、それぞれ自己紹介をしてここ渡村に来た理由を説明した。
坂元は甘南備濱吉からの書状を思い出していた。
『書状を受け取ったのは確か3、4年前だったなぁ。空海上人が自ら坂元を訪れると書いてあった。その書状を見てひょっとしたらと思った覚えがあるが、後で嘘であったとなると嫌なので皆には黙っていたが、半分は本当だった。
空海上人の代わりにその弟子達がやって来た』
弟子たちは真海、智覚、空静と名乗った。
リーダーは真海であった。
真海の説明は上手であった。
仏教、真言密教とはなんぞやと、知識の有る無しに関わらず理解できるように簡潔に説明した。
真海たちが布教しようとする仏教は真言密教という教えである。
この真言密教は、空海上人が今から15年前に異国の唐に渡り、その正統の後継者から直伝されたものである。
その教えは、今や天皇の保護を受けて京都はもとより、日本各地で布教を行なっている。
その教えとは、すべてのものは大日如来が姿を変えたものであるということである。
人も仏も本質的には同じであり、すべての人はその中に仏性を備えている。本来もっている仏性に目覚めれば、生きながらにして仏の境地に至ることができる。
空海上人は、現世における肉体のままでも、それが仏である、と言われる。
人は内に仏性を備えているが、凡夫(煩悩にとらわれている状態)はさまざまな迷いの雲に覆い隠されている状態である。その仏性に目覚めれば仏の境地に至るのである。
我々は「言葉」、「身体」、「心」の3つの働きで成り立っており、これを「三業」という。
同様に、仏は「口密」、「身密」、「意密」で「三密」という。
この三業と三密を一体化するために、真言を唱え、印を結び、心に大日如来の境地を観念する修行のこと。
三密加持が完璧に行われることになれば、仏と自己の一体化が完成する。
真言を唱え、手に印を結び、心が静寂安穏の状態になれば、仏の三密と凡夫の三業が即ち一体化する。それこそが即身成仏である。
また真海は甘南備寺の落慶法要の儀式を行いたいと言い、それに先立つ準備を誰がどのようにするかを、村人の話を聞きながら的確に説明したり指示をした。
村人はその声の響きや口調の鮮やかさに感心し素直に従った。
真海はこの落慶法要をこの地での真言密教の布教の第一歩としたかった。
そこで、甘南備寺落慶法要のことを近隣の村にも伝え、参列の案内をしていった。
現在の地名で、渡、渡田、大貫、田津、鹿賀、川下り、三原などの地域の村に伝えられた。
落慶式には各地の村人が参列した。
法要で行われた密教の難思議の秘法は、山岳信仰のあるこの地域の人々に神や祖先の霊と具体的に関わり合う儀式として捉えられ信じられるようになっていくのであった。
この落慶式後、甘南備寺は法相宗から真言宗に改宗し、真言宗布教の拠点として布教活動が展開されていくのである。
真海達は、甘南備寺に常駐しないで、各地を回って布教した。
布教は、密教伝道のかたわら、いろは歌などの教育の普及にも力をいれ、病める者には医薬を、迷える者には陰陽の卦による幸せへの方向づけを、また水のない所には井戸を掘って水を与えたり、あるいは池を掘り、溝を構えて水田を開拓するなど、社会事業方面にも力をいれていった。
江の川の水害防備林もこの時に生まれ、江の川沿いの各地域に広まっていった。
以上、甘南備寺が法相宗から真言宗に改宗した経緯と、この地域に残る弘法大師伝承を空想してみた。
<続く>