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旅日記

笠置山寺

かなり細い道を通って上って行きました。 駐車場料金500円ですが無人で投下口に投入しました。

また、境内の入場料300円も受付の人はおられず箱に入れました。 境内の巨石にはびっくりです。

頂上の寺は急峻な崖に囲まれており、後醍醐天皇が立て籠もった理由もよくわかりました。

 

笠置山は京都府相楽郡笠置町にある標高288mの山です。

標高は288mとそんなに高くはないが、峻険な山で山頂からは四方を見渡せます。

この山頂には笠置山寺があります。

笠置山寺緣起の碑

縁起碑には次のように書かれていました。

「笠置山寺の歴史は古く、その創建は不明であるが出土品から 見て飛鳥時代すでに造 に造営されていたようである。

奈良時代大和大峰 山と同じく修験行場として栄え、平安時 代には永七年(一〇五二)以後世の末法思想の流行とともに、笠置山寺本尊弥勒大磨崖仏は天人彫刻の仏として非常な信仰をうけた。

更に鎌倉時代、建久二年(一一九一)藤原貞慶(解脱上人)が 日本の宗教改革者としてその運動を当寺から展開するとき信仰の寺として全盛を極めた時代であった。

しかし、元弘元年(一三三一)八月倒幕計画た後醍醐天皇の行在所となり幕府との攻防一ヶ月九月二十九日全山焼亡、以後復興ならず、室町時代少々の復興をみるも江戸末期には荒廃、ついに明治初年無住寺となった。

明治九年、大倉丈英和尚錫を此の山に止め復興に力を尽すこと二十年ようやく現在の姿に山容を整えられ たのである。」

笠置寺のある頂上付近には奇石・怪石が多く、ひときわ奇観を呈しています。

その中に「弥勒磨崖仏」「虚空蔵磨崖仏」と、2つの磨崖仏があります。

<弥勒磨崖仏>

<虚空蔵磨崖仏>

笠置町名発祥の石

「弥勒磨崖仏」の左横に「笠置町名発祥の石」というのがあります。

その下に説明板があって

「天武天皇(第40代)が皇子のころ鹿を追って狩の途中、この岩上で進退きわまり、仏を祈念して難を逃れられたので、後日の目印として笠を置かれたという伝説がある。笠置町の町名の発祥の石である」

と書かれています。

<胎内潜り>

<太鼓石>

<ゆるぎ石>

<貝吹き岩>

元弘の戦乱の中、合図や戦意昂揚のため法螺貝が吹かれたといわれています。

<行在所跡>

「うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の もみぢをぞ見る」

 

後醍醐天皇

その昔、元徳3年(1331年)8月27日、鎌倉幕府の追ってから逃れた後醍醐天皇はここの笠置寺を行在所とし、畿内五国に檄をとばして義兵を募りました。

その時、後醍醐天皇は

うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の もみぢをぞ見る

と詠んでいます。

笠置山に立て籠もった、後醍醐天皇を京都六波羅探題の兵が取り囲みます。

天皇側の兵は3,000余でした。

9月になると幕府軍には、関東からの援軍が次々に到着し、幕府側の兵は75,000まで膨れ上がります。

幕府側は笠置山を包囲してこれを攻撃しますが、笠置山は天然の要害であり、そう簡単には攻めきれない状態でした。

 

笠置山寺籠城から1ヵ月ほどたった頃の9月28日夜暴風の中、幕府軍の兵が笠置山の断崖をよじのぼり、寺に火を放って総攻撃を開始します。

暗闇の中、断崖をよじ登って寺に火をつけたのは、備中の武将・陶山藤三義高の一族郎党50余人でした。

五十余人の者たちは太刀を背中に負い、小刀を腰の後ろに差して、城の北側に当たる石壁の数百mもあろうかと思われる鳥でさえも飛び越えがたいような所を登っていったのです。

陶山の五十余人の兵達は城内の各所で火を掛けては、鬨の声を揚げました。

宮方の兵達は、城の中に大軍が攻め込んできたと思って、鎧兜を脱ぎ捨て、弓矢を投げ捨てて、崖をも堀をもかまわず倒れ転んで落ちていきました。


後醍醐天皇も、若干名の供を連れて山道を逃げ隠れ、楠木正成が籠もる赤坂城に向かおうとしました。

雨風が激しく道は暗く、次第にばらばらになって、最後は、ただ藤房と季房二人が後醍醐天皇のそばにいるだけとなります。

どうにかして夜昼三日かけて、山城の多賀の郡(現滋賀県犬上郡多賀町)にある有王山(現京都府綴喜つづき郡井手町の東部にある山)の麓まで辿り着きます。

しかし、この有王山は笠置山の北西側に有り、目的の赤坂城は南西側であり、全く別方向に逃げたということでした。

疲れと空腹で三人は動けなくなり、苦しく、悲しい気持ちを歌にしました。

こういうときにも詩が詠めるというのは、さすがです。

言い尽くせない今の、気持ちを歌にして、記憶に留めようとしたのでしょう。

後醍醐天皇が

さしていく 笠置の山を出しより 天が下には隠れ家もなし

と詠むと、

これを聞いた藤原藤房は涙ながら

いかにせむ たのむ陰とて 立ちよらば なほ袖ぬらす 松の下露

と詠みました。

結局、後醍醐天皇一行は疲労困憊のなか捕らえられることになりました。

 

<完>

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