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旅日記

望洋−15(船舶特幹生の訓練(続き2))

6.船舶特幹生の訓練(続き2)

6.3.小豆島へ移転(続き)

船舶幹部候補生隊が豊浜兵舎から小豆島への移動は、輸送船と大発で行われた。

次にその大発での移動の状況を述べる。

(その2)大発での移転

 

大発艇で小豆島へ

<大発動艇(略して大発)>

前回の射撃の話に出てきた、藤岡敏彦は大発艇で移動するメンバーであった。

大発艇隊は暁南丸より先に出港したが、大発艇隊が出航して、3時間ぐらい経過した頃、左舷側後方に暁南丸が視認された。

暁南丸は、見る見るうちに距離をつめ、平行したのも束の間のこと、さっさと追い越して薄もやの海上に遠ざかっていった。

 

艇隊航行をする大発艇隊は二本の平行線のような陣形で進む。

この陣形を保持するためエンジンの回転度を同じくしなければならない。

指揮艇からの手旗信号が後続艇へ送られる。

後続艇ではこれを受け、次の後続艇あるいは横の艇に信号をおくり、陣形を保つのである。

塩飽諸島(瀬戸内海の備讃瀬戸西部海域に浮かぶ28の島々からなる諸島)を左に見つつ航行を続ける。 

はるか前方海上に黒い固まりが見えはじめる。

段々近づいていくに従って、その固まりがなんであるか分かってきた。

それは、かなり大きな船舶が大きく傾斜して沈没している姿であった。

隊員たちは、「おぉー」と声を挙げて驚き、痛痛さをもって眺めていた。 

また、しばらく航行すると水上航走中のイ号潜水艦が右舷側を反航した。

隊員たちは、好奇心をもって目を輝かせて眺め、見送った。

 

高松沖に差しかかると今度は左舷前方の海面に宇野・高松間の連絡船が停止して、 艇隊の通過を待っていた。

連絡船の直前を横切るとき、乗客が船首に集まって物珍しげに艇を見ていた。

藤岡は少し誇らしい気分を感じた。

しばらくすると小豆島の島影が左舷前方に見え始めた。

午後4時過ぎに土庄町の沖合に近づいた。

前方に暁南丸が船尾を見せて碇泊している。

船上には人の姿も見えず、既に人員・機材の揚陸は終わったようである。

艇隊は面舵をとって水路に乗り入れ、ついで突き当りで左舷側に転じ、さらにこの水路をすぐ右に折れると、左岸一帯が大発の繋止岸になっていた。

土渕海峡

この水路は現在、世界一狭い海峡”土渕海峡”として平成2年(1990年)にギネス登録された。

もともと、名前は付いていなかったが、ギネスブックへ申請する際に海峡の名前が必要であったため、土庄町の「土」と対岸の渕崎地区の「渕」を取って命名された。

全長は約2.5キロメートル、最狭部は9.93m、最大幅は約400メートル、水深は3.4メートル(満潮時)、1.5メートル(干潮時)

岸に沿って長い塀があり塀ごしに工場らしい建物がみえた。 

これが新しい兵舎で以前は紡績工場であったと聞かされた。

反対側、運河の右岸は学校のプールであろうか、大勢の子供が水しぶきをあげて水泳に興じている。

子供達はいいなと、藤岡は少し羨望をいだいた。

移動後、班の編成替えがあった。

 

藤岡は後に第十六戦隊に編入されている。

この第十六戦隊は、フィリピンに向かい、戦闘で104名中88名が戦死した(将校、下士官は全員戦死)。

 

 

7月6日

朝10時、中村達の班は富丘八幡神社に参拝に行った。

富丘八幡神社は八幡山の山頂(標高65m)に建っており、麓から山頂まで競争した。

麓から神社までは石段で出来ており、滑りやすかった。

 

山頂から見る景色は壮観であった。

小豆島の周囲を含めた一帯は、昭和9年(1934年)に、雲仙国立公園、霧島国立公園とともに瀬戸内海国立公園として日本初の国立公園に指定されていた。

中村は、これが瀬戸内海国立公園かと、感心しながら八幡山から眺めた。

なるほど、四方八方が正しく国立公園の風情をたたえていた。

特に、すぐ下に見える小豆(あずき)島は小さい岩の島であるが、天辺に松の木らしきものが密集して生えており、さながら盆栽のようで気に入った。

遥か遠くに、天辺が平らで、飛行場にでもなりそうな屋島が見えた。

その昔、あそこで源平合戦(屋島の戦い、文治元年(1185年)2月)が行われ那須与一が扇の的を射抜いたことを思い出した。

そして、数百年前の那須与一が扇の的を射抜く状況を思い浮かべた。

なお、屋島は江戸時代の寛永14年(1637年)に埋め立てられ陸続きとなっている。

7月9日

この日は日曜日で、小豆島に来て最初の外出日であった。

色々な注意事項を受け、正午から17時まで外出を許可されたので町中で遊んだ。

 

船舶特別幹部候補生の歌

暫くして、”特幹隊の歌”が発表された。

ガリ版刷りの歌詞・楽譜が配られた。 

作詞・作曲:不詳

一、
捨てて甲斐あるわが命
君の御為国の為
若いこの身を捧げんと
集(つど)い来れるわが身なり
我等は特幹候補生

ニ〜五(略)

 

海上演習

7月12日

朝4時に起床して、大発で池田湾に向かった。

ここで大発の到着演習が行われた。

昼食は陸に上がり、小高い山の涼しいところでとった。

演習を見ていたこの街の人達が、昼食時に名産であるリンゴ等を持ってきて配ってくれた。

この町に軍人が来るのは初めてのことで、大歓迎をしてくれた。

7月14日

中村は、第一組の班長として豊島に向かい、大発の起動演習を行った。

ここの街の人たちも、お茶や豆などを持ってきて隊員達に与え、宜しく頼みますといった。

隊員たちは自分たちは、多くの人々の期待を背負っていることをひしひしと感じざるを得なかった。

だが、この演習で事故が起きた。

大発の一艇が岩の上に乗り上げたのである。

船底が破れ水が侵入してきた。

隊員たちは初めてのことで大騒ぎした。

侵入して来る水を、容器という容器をもって汲み出し、船底の破れ箇所を布で詰めて応急処置を施した。

この大発は、豊島で修理され、2日後に引き取りにいった。

7月23日

教育最終行事として、ニコ中隊ずつ合同で三日間の日程による大発艇隊で、小豆島一周の訓練が行われた。

完全武装して、小豆島を一周するのである。

土庄港に各大発が集結した。

注意事項が伝えられ、点呼が終了し、艇隊航行が始まった。

最初の目的地は小豆島北東部の小部である。

ここで、昼食を取り14時に次の目的地、小豆島東南部の橘に向かった。

17時頃、橘に到着した。

ここで、露営準備を行い、区隊ごとに幕舎を作った。

作業中に遠方を航空母艦が二隻航行するのを見つけ、隊員たちは声を挙げ喜んだ。

夜には演芸会が行われ、地元の人達が沢山集まってきて黒山のように見物した。

夜十時に橘を出発して、苗羽に向かった。

しかし、波が高く船艇は酷く揺れ困難な航行となった。

多くの隊員は船酔いで苦しんだ。

一時間程過ぎると、高波も治まり、通常の航行ができるようになった。

7月24日

夜明けと同時に苗羽に到着した。

朝食がでたが、船酔いのせいか食べようとしない者もいた。

朝食後、この砂浜で大発の到着練習を行った。

この練習を繰り返し、行った。

午後三時に水泳訓練があり、皆大喜びで訓練した。

夕食後は、手旗信号の訓練があった。

未だ練習の少ない隊員たちは、正確に手旗信号を読むことが出来なかった。

しかし、ちかくで見ていた島の子どもたちが、これをよく読めることに皆驚き、感心していた。
この夜は、大発の中で就寝した。

最初は狭いことや、回りの状況が気になり寝付きが悪かったが、昨夜来の睡眠不足と日中の疲れで、いつの間にか全員が死んだように寝込んでいた。

7月25日

夜が明けて、土庄港を目指した。

航行に慣れてきたのか、周りを観察する余裕が出てきた。

隊員たちは、海図と島影・岬などを見比べ、あの島はコレ、あの村はコレといって、ワイワイガヤガヤと楽しんで過ごした。

航行中大型客船と出会い、大波を受けて艇はかなり揺れたが、これも隊員たちにとっては面白く、愉快な出来事だった。

しかし、航路も半ばになり、池田湾に入った頃、艇にトラブルが起きた。

エンジンが停止したのである。

「なんだ!」「どうした!」と声があちこちで飛んだ。

群れている隊員をかき分けて指導担当の軍曹がエンジンを調べにきた。

調査の結果、エンジンのオイル管が折損していたということだった。

軍曹が修理すると聞いて、中村達は一安心した。

修理する間、艇は漂流したが、大きなロスにはならなかった。

土庄港に着いた時は、流石にどっと疲労を感じた。

なんだか、一戦闘が終わったような気持ちだった。

隊員たちは、この航行を振り返って、随分貴重な経験をし体験したと思った。

島の風景は心を和ませてくれ、小豆島の周りの小島は、貴重な舟艇訓練の場所を与えてくれた。

なによりも、島の各地で会った地元の人は暖かく歓迎してくれた。

その歓迎に隊員達は人の温かみを感じ、思いもよらない贈り物を受けた。

と思ったのである。

 

6.4.見習士官の来島

7月中旬、船舶練習部で船舶教育を受けていた陸士57期生の見習士官約60名が7月1日付けで少尉に任官し、特幹隊の区隊長要員(後の海上挺身隊の中隊長要員)として赴任してきた。

新しく配属された陸士57期の最年少者は大正14年(1925年)生まれの満19歳、その他も殆ど21、22歳という若者で、船舶特幹生隊員より1、2歳上の若者であった。

船舶練習部

大日本帝国陸軍が戦時中に軍隊や物資の船舶輸送を指揮統率するために設置した組織。

船舶司令部が統括した陸軍船舶部隊は「暁部隊」と呼ばれていた。

この陸軍船舶練習部は、広島の宇品港に置かれていた。

見習士官

旧日本陸軍で、士官学校や航空士官学校、予備士官学校を卒業した者が少尉に任官する前に、曹長の階級で本務に必要な勤務を習得する期間の職名を「見習士官」といった。

 

この陸士57期の見習士官60名が特幹隊に配属された事で、回りには緊張した気配が漂い始めた。

それは、これだけの現役将校が一つの隊に配属されることは異例なことであったからである。

帝国日本海軍が南方戦線で壊滅的な打撃を受けたとの風評も広まっていたことも、その緊張感を強めたのである。

そして、各隊での軍歌演習や非常呼集が競って始められるなど、活発な動きが出てきたのである。

 

『(船舶特幹生の訓練)の節終わり』

 

<続く>

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