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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−31(立岩伝説−3)

11. 理源大師

立岩伝説に関わりのある、理源大師についても触れておく。

理源大師とは平安時代の真言宗の僧聖宝であり、宝永4年(1707年)に東山天皇より理源大師の諡号を贈られた。

【聖宝の略歴】
平安時代の真言宗の僧。理源大師。真言修験道当山派の開祖。承和14年 (847年) 年空海の弟子真雅から,三論,法相,華厳,密教を学び、元慶8年 (884年) 源仁から伝法灌頂を受ける。

東寺の権法務から累進して、長者、僧正になる。諸寺の堂塔の修築に力を尽し,東大寺境内に三論宗の本所として東南院を建立し、その第1世となる。役小角に私淑して、大和の諸高山で修行し、醍醐寺を創建し、峰授灌頂を始めるなど、修験道の再興をはかった。その流派は当山派と称されたが、当山は吉野金峯山の奥の大峰をいう。
(ブリタニカ国際大百科事典より )

 

この聖宝についても、様々な伝説が残っている。

11.1. 大峯中興の祖聖宝

大峯山は、役小角によって開かれたが、その後大蛇が住みついて人を襲うので、参拝者が 少なくなっていた。
しかし、平安時代の初め頃、聖宝という偉い僧が出てきて、修行の邪魔をしていた大蛇を退治してしまった。
そのお陰で、ふたたび大峯山に多くの修行者 が参るようになり、聖宝は「大峯中興の祖」と呼ばれ、 また、修験道の世界では、当山派を開いた開祖として敬われている。

​​聖宝は、天長九年(832年) 二月十五日に生まれ、幼名を恒蔭王といった。父は兵部大丞葛声王で、天智天皇の皇子、施基王が祖先にあたる。母は、右大将金実利麿の娘、綾子姫である。

聖宝は深草にある貞観寺で、真雅僧上にしたがって出家をして聖宝と名を改め、ここで十二歳まで修行をした。 
真雅僧上は、弘法大師空海の実弟である。

貞観十八年(876年)に聖宝は如意輪観世音像と准胝観世音像の二体を安置して醍醐寺を開いた。
この時には、如意輪観音はみずから飛んで東の岩の上に立たれ、また准胝観世音は歩いて草堂の壇の上に立たれたといわれている。この不思議な神変を見て、集まっていた人々は 大変おどろいたと寺の縁起に書いてある。

元慶四年(880年)になって、聖宝は高野山の空海の甥にあたる真然から金胎両部の大法をさずけられ、また仁和三年(887年)には阿闍梨位灌頂伝授の勅をさずった。

この頃から、聖宝は宗教界の中心人物になって大いに活躍をしている。

寛平二年(890年)の五十九歳の時に、貞観寺の座主としての勅命をうけた。

その頃、大峯山中には大蛇が住みついて人々を襲うというので、参詣する修行者もしだいに少 なくなって人々は大変困っていた。 
そこで、時の宇多天皇は、聖宝に宝剣と紫の衣をさずけ 大蛇を退治せよと命じたという。

宇多天皇から勅命をうけた聖宝は、吉野から大峯山に向った。 この時、奈 良の先達の箱屋勘兵衛をお供につれて行った。 勘兵衛は大変に勇気があり、武術にも秀れていたという。 法螺ヶ渕に着いて禊をした。
吉野から大峯の途中にある鳥栖に着き、そこで大きな法螺貝を吹いたところ、毒蛇は貝の響きにひきよせられてやってきた。
大師は、法力で大蛇を動けないように呪縛して、勘兵衛が大きなまさかりで切り殺したという。

聖宝が法螺を吹いた土地は、その後百螺山鳳閣寺と名づけられた。百螺山というのは、聖宝が百法螺の音によって毒蛇を退散させたことにちなんだ名前である。

これにより、再び大峯の行者道が開かれ、聖宝はこの峯に秘密三部経を安置した。

聖宝は寛平七年(895年)に金峯山で如意輪観音・多聞天・金剛蔵王権現の像を造りそれぞれの像を安置するお堂を建てた。また弥勒菩薩と地蔵菩薩の像も作り寺に安置した。

聖宝は、吉野の吉水院にしばらく滞在しており、吉野から大峯への道をひらかせた。 
さらに、金峯から熊野への奥駆けの道を開いて、三所権現にも詣り、葛城山に登って、四十九院、二十八宿を修行して回り、最後に金剛山にたどり着いた。

聖宝は、寛平八年(896年)に宮中の真言院で五七日御修法を修めて東寺の別当に補せられ、また、延喜五年(905年)には、東大寺の東南院を広く建て増して三論宗の本拠にした。

延喜九年 (909年)、七十八歳になった聖宝は、ついに病の床に伏しました。
自分の死が近いことを察して、すべての役職の辞表を提出し、七月六日、ついに普明寺において入寂した。

聖宝の死から800年後の宝永4年(1707年)、三宝院門跡房演は聖宝の八百年忌に際し、朝廷に上奏して天皇から聖宝に対して「理源大師」の諡号を贈られた。

 

11.2. 聖宝(理源大師)と役小角石像

さて、前に立岩に「役小角」石像を安置したのは理源大師であると川越教育研究誌と桜江町誌に記載されている、と書いたが、邑智郡誌(昭和47年9月1日発行、初版は昭和12年12月20日発行)にも同様な記述がある。
恐らくこれらは甘南備寺略縁起記を参照したものと思われる。
しかし、一般に認められている理源大師の経歴によると、理源大師が修行のためとはいえ、この地を訪れることはないと言える。

ところが「役小角」像が立岩の中腹に安置されているのは現実である。
とすれば、聖宝尊師の弟子が、やって来たのではないかと、思われる。

 

<続く>

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