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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−32(立岩伝説−4)

12. 高野聖

 

​​喜多八幡宮と南八幡宮の例祭

大田市大田町にある、喜多八幡宮と南八幡宮の例祭は10月15日に行われ、両社の祭礼前、「大田両八幡宮祭礼風流」と呼ばれる、負幟や高野聖などを担い行列を作って街路を練る神事が行われる。

伝承によれば、平安時代前期、高野山から聖宝導師が八幡宮に参詣した時の模様を映し、それに飾り付けを行ったものとされる。

この聖宝導師とは聖宝大師のことであろう。
しかし、聖宝はこの頃、60歳を超えており真言宗の重要な位にもついており、高野聖となって地方へ出かける僧ではなかった。

恐らく、大田の地にやって来たのは聖宝の弟子であったと思われる。

 

如意山円応寺

また、大田市大田町の如意山円応寺沿革には「寛平六年(894年)京都醍醐寺聖宝理源大師の開山・・」と記載されている。


この聖宝の弟子が、江の川の立岩に役行者石像を安置したのではないか、という考えが浮かんできた。
この弟子の名前を貞宝と名付けて、物語を始めたい。

 

12.1. 貞宝安濃郡に現われる


貞宝は真言宗の教えを広めるため全国を行脚していた。
寛平元年(889年)に聖宝上人の弟子貞宝が安濃郡波根東村に現れた。


貞宝は、寛平二年(890年)この地に、宝台寺(廃寺)を建て難民救済と布教を行なった。
その後、暫く周辺を巡ってくると言って旅立って行く。

貞宝は久手から霊地を求め江谷川の上流に向かった。

<清瀧の下流の小瀧>


いくつかの滝を眺めて進むと、高さ60尺の断崖から水煙をあげてて水の簾が落ちてくる光景を目の当たりに見た。
貞宝は霊感に打たれ、滝に向かって、「南無清瀧大権現」と7回唱えた。
貞宝は、ここに清瀧権現堂を建て大田の地に仏法の広まることを記念した。

清瀧権現は、京都市伏見区所在の真言宗醍醐派総本山、醍醐寺の守護女神。 清瀧大権現とも呼称され、清滝権現とも書く。


これ以後、この滝は清瀧とよばれるようになった。

<清瀧>


話は変わるが、清瀧について次のような習慣・伝説がある。

 

清瀧の雨乞い奇習
安濃郡刺鹿村江谷川の上流に、直下六十尺の瀑布清瀧がある。 昔から旱魃の際に雨乞ひをすることになって居る。雨乞ひの時には瀧壷周辺の雑草雑木を苅込んで瀧壺に掘り込む。
それから神職を招いて滝の傍に在る、市杵島姫命を祀った小祠で祈祷をするのである。さうすると瀧壺に住んで居る瀧の主が苅込んだ雑草木を洗ひ流す爲めに雨を降らすと言ひ傅へて居る。
此流の下流にまた四五尺ばかりの小瀧がある。此瀧にも主が居て、毎年六月丑の日に馬具をこの瀧の周辺で乾すと傳へられ皆具の瀧と称して居る。

又、江谷川の支流に木履瀧さて三十尺の高さを有して居る瀧がある。 其の附近の岩一面に恰も木履の歯の跡に似た跡を印刻されて居る。 弁慶の木履の跡だと云ひ傳へられる。

今清瀧を訪れると清瀧までの道のりに石の観音像が一定間隔で据えられている。
その数は33体という。

 

 

貞宝はさらに進む。三瓶山の麓を通り、粕淵に出た。
粕淵から、舟に乗り江の川を下った。
目的地は甘南備寺であった。

渡の地に着いた、貞宝は甘南備寺山を上り、甘南備寺を目指した。

甘南備寺に在籍する僧侶が数人いたが、彼らは甘南備寺を拠点にして、江の川沿いの村落を回って、布教のかたわら、村人達の生活を助ける社会事業を行っており、寺にいることはめったに無かった。


このため甘南備寺は麓の村人が定期的に参拝するだけで閑散としていた。
ここで、貞宝は、寺の作務をしていた、ある男と知り合う。

名前は山崎治郎右衛門といい、地元大貫の有力者でもあり、また熱心な仏門徒であった。

 

<続く>

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